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■【より道‐78】戦乱の世に至るまでの日本史_「佐々木一門」の整理②

平安末期、鎌倉末期、建武の新政、室町初期などの中世のファミリーヒストリーを学ぶことによって、戦国期の動乱がより一層理解できて気がします。

やはり、日本の歴史は、天皇を中心に武士たちがつくった歴史で、一族を繁栄させるために、血縁や領地を広げてきました。武家の中心は、やはり、「足利一族」で、次に影響力をもったのが、「佐々木一族」だったと思います。

「佐々木一族」が「足利一族」に次ぐ、チカラを得ることができたのは、足利尊氏やその息子、足利義詮を支え続けた、バサラ大名、佐々木道誉どうよの存在があったからといっても過言ではありません。

前回は、出雲佐々木氏や佐々木六角氏をしらべてみたので、今回は、佐々木京極氏と尼子氏について整理してみたいと思います。

■ 佐々木京極氏
前回もご紹介しましたが、佐々木一族は、宇多源氏の氏族ではありますが、平安時代末期に活躍した、佐々木秀義(ひでよし)から辿るのが一番わかりやすいです。

佐々木秀義(ひでよし)には、5人の息子がいまして、腹違いで末弟の佐々木義清(よしきよ)の一族が、出雲佐々木氏として繁栄しました。そして、長男の佐々木定綱(さだつな)が宗家として近江国で繁栄し、その孫の四兄弟が、大原氏、高島氏、六角氏、京極氏を名乗るようになりました。

今回は、京極氏のお話しです。京極氏の氏祖は、佐々木(京極)氏信(うじのぶ)です。源平合戦で勝利した、佐々木一族は、近江本領を取り戻し、四人の息子に近江を分けて継がせました。この内の高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と京の京極高辻の館を継いだのが、四男の佐々木(京極)氏信(うじのぶ)になります。

そして、佐々木(京極)氏信(うじのぶ)の曾孫が、鎌倉末期から室町時代を駆け抜けた、佐々木(京極)道誉(どうよ)ということになります。佐々木(京極)道誉は、外様とざまではありましたが、足利尊氏を生涯支え、息子の足利義詮のサポートをしていました。佐々木(京極)道誉(どうよ)が、あの時代、日本を治める影の権力者であったことは間違いありません。

その後、ポイントとなるのが、佐々木(京極)道誉(どうよ)の孫である京極高詮(たかのり)の時代です。当時、佐々木一族の宗家である佐々木六角氏の次期当主が若くして亡くなったので、佐々木(京極)道誉(どうよ)の命令で、京極高詮(たかのり)は、佐々木六角氏の養子となりましたが、なんと、佐々木六角氏の当主が40歳という高齢で、後継ぎの子を授かったことで、跡目争いが生じてしまいました。

奇しくも京極の家にもどった、京極高詮(たかのり)でしたが、全国66ヶ国中11ヶ国の守護を務めていた山名氏が1391年(明徳二年)幕府に背く「明徳の乱」を起こしたことで、室町幕府側につき、武功をあげました。その恩賞で、出雲・隠岐の守護職に任じられます。

そして、出雲には、京極高詮(たかのり)の弟である、尼子高久(たかひさ)の息子、尼子持久(もちひさ)を出雲の守護代として任命したのです。

その後、京極氏は、「応永の乱」や「応仁の乱」を経て、「京極騒乱」というお家騒動を起こしますが、それは、また別の機会にでも調べたいと思います。


■ 佐々木尼子一族
そして、一番知りたい、尼子一族の話しです。実は、戦国期に尼子一族で活躍する人々は、その出生が、明らかになっていない人が多いです。それは、きっと、毛利氏に滅亡させられ、歴史までも奪われてしまったからだと思っています。

「明徳の乱」で出雲・隠岐の守護代となった、尼子氏ですが、もともと出雲・隠岐は、平安時代末期に佐々木秀義(ひでよし)の五男、佐々木義清(よしきよ)一族が本領としており、佐々木隠岐おき氏や佐々木塩冶えんや氏が代々守護を任されてきた領地でした。

しかし、南北朝時代に、南朝側に内通していたといわれている、佐々木(塩冶)高貞(たかさだ)の討伐で功績をあげた山名氏に一旦、出雲・隠岐の守護職を奪われてしまいましたが、佐々木(京極)道誉が政治的に取り戻し、一時期は、佐々木(きょうごく)道誉の家臣で、佐々木一族である吉田厳覚が出雲の国を平定した時期などもあります。

すなわち、出雲という国は、歴史的にも佐々木一族にとって、大切な領地なわけです。京極高詮(たかのり)は、弟の尼子高久(たかひさ)の息子、尼子持久(もちひさ)を守護代にし、山名氏と領地争いをしながらも、戦国期に突入してくのです。

尼子持久(もちひさ)の次男には、山中氏を名乗らせて、その子孫が、山中鹿之助となります。他にも尼子氏を支えた、宍道しんじ氏は、京極高詮(たかのり)と尼子高久(たかひさ)の弟一族といわれています。

大原氏や米原氏は、佐々木六角氏からの流れで、尼子氏の家臣となりましたが、尼子三傑とよばれた、立原久綱たちはらひさつなの系統もその出生がよくわかっていません。

しかし、「綱」の字は、佐々木氏・宗家の佐々木定綱(さだつな)の「諱」と考えてよいと思うので、立原氏も佐々木定綱(さだつな)の流れではないかと勝手に想像しています。大原氏、米原氏、立原氏は、きっと同じ一族ですね。

長谷部氏の隣人で、「尼子の落人」とよばれている松田氏のこともよくわかりません。しかし、松田氏は、出雲国の国人で、島根県松江の南東にある、安来荘や松江の最東にある美保関にまで、勢力を広めていた一族で、尼子経久(つねひさ)の息子、尼子政久(まさひさ)の娘を娶り、白鹿しらが城主だったといわれています。

とはいえ、推測が多く、毛利氏に滅亡させられた、尼子氏一族は謎多き一族なのです。

しかし、岡山県新見市神郷町高瀬という、「文化果つる村」といわれていた村で、500年間ひっそりと伝わってきた、「尼子の落人」という、言い伝えを考えると、じぶんは、松田氏や大原氏のDNAを継いている、「尼子の落人」の末裔だということになるのでしょう。

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