見出し画像

■【より道‐119】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子晴久という男

尼子経久つねひさは、「応仁の乱」という、足利将軍家の因果応報の時代に生まれました。青年期になると家督を継いで11年間も続いた戦乱の後処理を進めるも、室町幕府から難癖をつけられ、落人となってしまいまいます。

その後、自らの主城、月山富田城がっさんとだじょうを奪還することに成功しますが、そのころからでしょうか。道理の通らない無秩序で、武士道という拠り所のみで支えられた戦国の世を、尼子経久つねひさは、その潮流に身を任せ、一気に領土を広げて11国を治める時代の寵児になりました。

そんな、尼子経久つねひさにも「死」が訪れます。どんなに偉い人でも、賢く強い人でも、善い人も悪い人でも、人間は誰にでも「死」だけは、平等に訪れるものです。

尼子経久つねひさは、自らの子、塩冶興久おきひさを自害に追込み乱を鎮圧した五年後に亡くなります。1541年(天文十年)享年83歳でした。

この年は、美濃国で斉藤道三どうざんが、土岐頼満よりみつを毒殺して下剋上を果たした年ですから、まさに、新時代が訪れる、その時だったのでしょう。

一方、室町幕府はというとーー。引き続き、足利家を巻き込んだ、細川氏のお家騒動、「細川騒乱」が続いています。ほんと、このあたりは、いつの日か、自分なりに歴史を解明したいなと思いますが、かなり複雑そうです。


■ 尼子晴久の幼少期

11ヶ国もの領地を治めた尼子経久つねひさから家督を継いだのは、孫の尼子晴久はるひさでした。

「尼子晴久はるひさの父、尼子政久まさひさは、尼子経久つねひさの嫡男。」

という、まるで早口言葉のように覚えにくい名前と間柄ではありますが、尼子晴久はるひさの父親は、二十六歳で悲運の戦死を遂げてしまったので、わずか4歳の尼子晴久はるひさが尼子氏の後継者として育てられることになりました。

7歳になると、祖父、尼子経久つねひさの命をうけ、伯耆国守護代として、守護の山名氏の動向を監視する役目についたといいます。後見人は、尼子経久つねひさの次男、尼子国久くにひさです。

ちょうど、前年の1523年(大永三年)に安芸にある「鏡山城の戦い」で尼子氏と大内氏の対立が明確になった頃なので、伯耆国の動向は、尼子氏にとって、とても重要なものでした。


■大永の五月崩れ

伯耆国は、山名氏の分国でしたが、山名氏は戦国大名化に失敗してしまいました。それは、「応仁の乱」で戦力が疲弊してしまったということもあるとおもいますが、なによりも、尼子経久つねひさの勢いが凄すぎたのだと思います。

伯耆国には、「大永の五月さつき崩れ」と呼ばれる逸話が残っています。これは、1524年(大永四年)5月に起きた、尼子氏の伯耆侵攻で、山名氏の支城・米子城、淀江城、天万城、尾高城、不動ガ嶽城、八橋城、倉吉、岩倉、堤、羽衣石城などが一朝に攻め落とされて、伯耆一円が尼子氏の領地となったそうです。

この合戦により国中で戦死する者が数知れず、死者が満ち溢れ、村々の放火の煙が空を覆い、神社仏閣の殆どが兵火に焼かれたということが、『伯耆民談記』という、江戸時代に作成された書物に残っているそうです。

しかしこの話しはフィクションのようでして、伯耆国守護の山名氏でお家騒動が発生し、尼子経久つねひさが、山名澄之すみゆきの守護を支援し、尼子晴久はるひさを守護代として送ったというのが真相のようです。

その後、尼子晴久はるひさは、西伯耆の日野衆を懐柔して日野郡を領地化、伯耆国征圧の拠点としました。その後、東伯耆へと進出をして、山名澄之すみゆきが亡くなった1540年(天文九年)に、伯耆国全体が尼子氏の支配下に置かれたそうです。

平安時代末期に長谷部信連のぶつらが流されたのは、伯耆日野で、そこから長年地盤を守ってきていますから、恐らく、この辺りの出来事から、我が家に続く「尼子の落人」という家訓につながるのだと思っています。



■家督継承

尼子晴久はるひさが、尼子経久つねひさより家督を継承したのは、1537年(天文六年)24歳の頃でした。

7年前の1530年(享禄三年)には、「塩冶興久おきひさの乱」に出陣したり、美作、備前、播磨、そして、名族山名一族の領地、因幡、但馬、伯耆を攻略するなど、戦国武将として活躍をして、尼子氏最盛期を築きますが、それを支えてくれていたのは、後見人を務めてくれた、尼子経久つねひさの次男、尼子国久くにひさでした。

残すは、西国の大名、大内氏との対立です。そのためには、安芸、備後を征圧する必要があります。しかし、そこに立ちはだかるのが、毛利元就もとなりでした。

尼子晴久はるひさは、家督を継いですぐに、毛利元就もとなりを叩き潰す必要があると考えましたが、尼子経久つねひさや重臣たちは、「毛利元就もとなりを侮るべからず、周りの国人を配下に治めてから、吉田郡山城に攻め込むべき」と諫めたそうです。

しかし、尼子晴久はるひさは、毛利氏の勢いが強大にならないうちに、討つべきだと出陣を決定しました。

1540年(天文九年)尼子晴久はるひさは、三万の軍勢を率いて、毛利元就八千の軍が待つ吉田郡山城を包囲しました。しかし、毛利軍の反撃は巧みで、さらには、「大永の五月さつき崩れ」によって、没した武将たちが、伯耆国で反旗を翻します。極めつけは、大内氏が周防から一万あまりの援軍を引き連れると、やむなく、尼子氏は退陣することになってしまいました。



■戦の後

「吉田郡山城の戦い」に敗れた尼子晴久はるひさは、安芸、備後の要所をことごとく毛利元就もとなりに奪われてしまいました。そして、多くの国人たちが、尼子氏を見限り、大内氏に寝返ると、祖父・尼子経久つねひさまでもが亡くなってしまいました。

勢力を失った尼子氏に対して、大内軍は味方に引き入れた国人たちと共に月山富田城がっさんとだじょうに攻込みます。しかし、徹底した抗戦で大内軍を退けると、再び、勢力を回復しようと、周りの国人たちを自らの陣営に取り込んでいったと言います。

すると、今度は、大内氏当主、大内義隆よしたかが、家臣の陶晴賢はるたかの謀反により自害に追い込まれるという事件が起きます。

すると、西国の平定を望んだ室町幕府が、尼子晴久はるひさを山陰山陽八か国の守護に任じました。さらに、大内氏から周防国を継いだ、陶晴賢はるたかと同盟を結び西国の地は、平和のスタートラインにたったように思えました。


■ 尼子の未来

尼子晴久はるひさは、吉田郡山城の戦いで、毛利元就もとなりを討ち損ね、七難八苦の境地に陥りましたが、そこから這い上がり、八か国の守護に任じられるまで勢力を拡げることに成功しました。

しかし、ここにきて、尼子氏の未来を占う事件が起きてしまいます。

それは、幼いころから、後見人として支えてくれていた、義理の父で叔父の尼子国久くにひさ及び、息子たち新宮党の一族を粛清してしまったのです。

そのいきさつは、定かになっていませんが、尼子国久くにひさ率いる新宮党の一族は、尼子軍の中核を担う存在でしたので、「自らの武力のおかげで尼子家がある」と、まるでバサラのような横暴な振る舞いをしていたそうです。その様子に周りの者たちから、疎ましく思われていたみたいですね。

また、尼子晴久はるひさと尼子国久くにひさの政治的意見の対立も日常茶飯事。そして、なによりも、尼子国久くにひさの娘で、尼子晴久はるひさの妻の死が二人の争いを決定づけたといいます。

その様子を耳にした、毛利元就もとなりがいずれ対決する運命にある尼子氏の弱体化を図り、偽書を用いて「新宮党が謀叛の企みあり」と、毛利氏と通じていると風説を流し、尼子氏の運命を導いたそうです。

このあたりから、毛利元就もとなりが描いた方向に物事が進んでいきます。そして、尼子国久くにひさが亡くなった翌年の1555年(天文二十四年)には、大内氏を慕っていた国人たちと共に「厳島の戦い」で陶晴賢すえはるたかを討ち破りました。

このとき、我々のご先祖様の長谷部元信もとのぶは、毛利元就もとなり等、備後の国人たちと共に「から傘連判状」に血判を押して、「厳島の戦い」に参戦。勝利に貢献したのちに、その時のケガが原因で亡くなてしまったそうです。

そして、大内氏と陶氏亡き西国の世は、尼子氏と毛利氏の対立に変化していくのでした。


<<<次回のメール【358日目】:健康経過観察(三回目)

前回のメール【357日目】:緊急事態宣言かまん延防止措置など重点措置か>>>


この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?