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■【より道‐116】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子経久という男

戦国期の西国覇者は、三本の矢で有名な毛利元就です。毛利元就は小さな小さな領地の国人から下剋上を果たし、時の天下人で管領代とよばれるほどの大勢力をもった、大内氏や、鎌倉時代初期からの名門佐々木一族最後の砦、尼子氏を討ち滅ぼしました。

いま、じぶんの命があるのも、尼子氏が毛利氏との戦に敗れ、命かながら生き延びたご先祖さまが、長谷部氏とのご縁で「文化果つる村」とよばれた、岡山県新見市高瀬村にひっそりとくらしてきたからになります。

今回は、その山陰地方で300年ものあいだ名家として繁栄し続けてきた佐々木一族で、戦国武将の尼子経久つねひさが、どのようにして十一か国もの国を制覇したのか。そのあたりを記していきたいと思います。


■ 三代目当主・尼子清定

三代当主・尼子清定きよさだは、「応仁の乱」で、安来|《やすぎ》庄の地頭、松田氏を返討にしたことをキッカケに出雲国の有力国人を自らの支配下に治めていきました。

それを為し遂げた由縁は、尼子清定きよさだの武勇は、もちろんのこと安来庄美保関みほのせきが海上交易の場として、朝鮮などと、「たたら製鉄」の輸出をしていたからといわれています。

しかし、その利益は、室町幕府に公用銭として納めるのが通例です。そうなると、命懸けで奪った美保関の利益を尼子氏は得ることができません。そこで、尼子清定きよさだは、守護の京極政経まさつねにごねて、ごねて、ごねまくって、5年間という期限付きですが、利益の一部を貰うことに成功しましあ。

その代わりになのか、わかりませんが尼子清定きよさだの息子、尼子経久つねひさが、京都にいる守護大名、京極政経まさつねの屋敷に人質として送られることになりました。過ごした期間は約5年間です。そのときに、尼子経久つねひさは、元服することになり、京極政経まさつね偏諱へんきとして「経」の字を与えられたそうです。

詳しい年代は定かではありませんが、1477年(文明九年)ごろに家督をついだのではないかと言われているので、ちょうど、「応仁の乱」が終息した年になりますね。

■挫折

尼子経久つねひさは、父の尼子清定きよさだが討伐した松田氏の領地だった、能義郡のうぎぐん安来庄やすきしょうの領地を安堵されました。少し話がそれますが、この、能義郡は、やがて日清・日露戦争で活躍した乃木将軍が生まれた故郷になります。

そんな、戦乱の世に生まれながらも、父、尼子清定きよさだが東出雲を征圧して、月山富田城がっさんとだじょうと美保関の経済基盤を引き継いだ、尼子経久つねひさですが、一度、室町幕府より討伐命令が下されました。

その理由は、寺や神社の所領を横領したり、朝廷修理の金を納付しなかったこと、その他、美保関の金を納付しなかったこと。そして、畠山義就よしなり討伐に軍を出さなかったからだと言われています。

ときは、1486年(文明十六年)「応仁の乱」が終息して、第九代将軍、足利義尚よしひさと、管領、畠山政長まさながが室町幕府の権威を取り戻すために、やっきになっている頃。

「応仁の乱」で衰退した国力を回復したいのは、幕府だけでなく、守護や守護代も同じ状況だったと思いますが、尼子経久つねひさは、室町幕府の討伐命令により、国人たちに追放され、守護代は同族の塩冶えんや氏が引き継ぐことになりました。


■尼子の落人

初代、「尼子の落人」となった、尼子経久つねひさは、母の実家と言われている、現在の奥出雲馬木に身を寄せていました。しかし、尼子経久つねひさは、月山富田城を奪還するために旧臣の山中氏や亀井氏など十数名を従え策略をねりました。

そして、猿楽芸能一座を味方に取り入れ、正月に太鼓をたたき、歌い踊りながら月山富田城に入場すると、夜打ようちをかけて、守護代の塩冶連清つらきよを不意に討ち取ったとそうです。1486年(文明十八年)、尼子経久つねひさ三十歳の出来事でした。

その後、自らを追放した国人勢力を征圧し続け、有力国人を配下に従えながら、所領を広げていくと、1500年(明応九年)には、守護代の地位に返り咲いたと言われています。

一方、京極家のお家騒動、「京極騒乱」に敗れた、出雲国守護の京極政経まさつねは、近江から出雲へ下向してきていました。そして、京極政経まさつねは、息子の京極材宗たねむねまでも殺害されて、勢力を失ってしまい、ほどなくして亡くなってしまいます。

京極政経まさつねは、生前、佐々木氏の歴史が書かれている「佐々木文書」と、京極材宗たねむねの息子に家督を譲ると、尼子経久つねひさを後見人として託しましたが、やがて、その子は行方不明となり尼子経久つねひさが、佐々木氏、京極氏の意思を引き継ぐ当主となりました。


■ 戦国期への突入

尼子経久つねひさが勢力を拡大していくキッカケとなったのは、1507年、半将軍と呼ばれていた、細川政元まさもとが暗殺される「永正の錯乱」が起き、足利家と細川家のお家騒動「船岡山合戦」になります。

このいきさつを、もういちど簡単に振り返りますと、「明応の政変」で将軍に就任した。十一代将軍・足利義澄よしずみにはチカラがなく、管領・細川政元まさもとの傀儡政権となりますが、細川政元まさもとは、「生粋の男好家」だったため、養子をとることになりました。

しかし、家督を譲るはずの子は、細川家と全く関係のない血筋の子だったため、重臣たちの反対にあい、別の養子をとると、当初家督を譲る予定だった子に暗殺されてしまうというのが、「永正の錯乱」です。

半将軍とよばれていた、絶対権力者の細川政元まさもとが暗殺されたことをしると、周防国大名の大内義興よしおきが、保護していた前将軍・足利義稙よしたねを擁立して上洛を目指します。

そして、足利義澄よしずみと足利義稙よしたねの将軍争いがはじまるのですが、尼子経久つねひさは、大内義興よしおきとともに、足利義稙よしたねにつき「船岡山合戦」に勝利しました。1511年(永正八年)の話しです。この戦いを機に、尼子経久つねひさはさらに勢力を拡大していくのでした。


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