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【341日目】:「婦長は師長」

ご隠居からのメール:「婦長は師長」 

今年は正月早々、コロナに感染して、入院する羽目におちいった体験を『続パンデミック体験記』として綴った。執筆するにあたって、心がけたことは「地道な事実の積み重ね」である。

ところが、読み直してみると、思い違いや認識不足による誤記がいくつか目につく。事実をそののまま鏡に映るように描写したつもりでも、事実の解釈は複数通りある。コロナ老人が書いた内容は信用できないと思われても仕方がない。

たとえば、「入院時は青白い顔をしていたが、今は元気に見えると、婦長さんらしき人が言った」(重症化させない(一月十八日)。

この記述は、おかしい。昭和の時代ならともかく、令和の現在、病院には婦長は存在しないのだ。看護婦もいない。いるのは看護師長と看護師である。

 まあそんな小さなことは、どうでもよいとしても、もっと大きな思い違いや認識不足もある。とりあえず、次の四点について、加筆・訂正・削除・修正しておきたい。
 
・入院する前の元の健康な身体に戻る→戻らない 
・コロナによる肺炎と間質性肺炎は同がじ症状→別物
・人工呼吸器を装着する→外す
・ワクチンは効く?→効かない?


返信:「Re_婦長は師長」

婦長や師長の違いは、大したことがないような気もするが、この「息子へ紡ぐ物語」を後世につなげるのであれば、100年後に現代の時代背景を議論されているかもしれないね。まあ、それでも、白熱するような議題ではないか。


今日は、長谷部信連のぶつらの妻について、整理してみる。平家物語には、日吉社の娘と結婚しており、以仁王もちひとおうが逃げ出すとき、以仁王もちひとおうに妻の服を差し出し三井寺に逃がした。

一方、「続日野町史」によると、上下長谷部氏の家系図には、金持かねもち氏の娘が長谷部信連のぶつらの妻となっている。日野にある下榎しもえのきの長谷部氏が使用した雅樂うたという名は、長谷部信連のぶつらの母方の名を利用したらしい。

そして、長谷部信連のぶつらが、能登大屋庄を知行したときに、源頼朝よりともから、由利小太郎こと、藤原重範しげのりの娘と結婚している。藤原重範はあの、信西しんぜいの息子で、重範の娘とは、平家物語にでてくる、絶世の美女「小督こごう」の妹といわれている。長谷部信連のぶつらは、公家の血筋を得ることができたのだ。

まあ、能登はおいておいたとして、山陰の長谷部氏は、日吉社の娘か金持氏の娘が妻だ。この際、両方本当なのではないかと思ってきた。日吉社の娘は、雅樂氏ということではないだろうか。

もともと京都にいた頃からの本妻で、長谷部信連のぶつらが日野に流罪となったときに息子の実信さねのぶとともに父を追ってやってきた。それが、宮島の棚守家または、下榎に現存する厳島神社の長谷部氏につながっていく根拠だ。

一方、金持氏の娘のエピソードは、「信連が腹を空かせて川を眺めていると、ひとりの女がやってきて、狐に化けた。その狐は、信連の家紋を引きちぎって逃げていったので、後をおいかけると、墓に供え物がされていた。信連は供え物を食べて飢えをしのいだ」というエピソードの女なのではないだろうか。

ちなみに、その女は、信連が能登に行くことになっても、信連の後をおって能登入りしていると言い伝えがあるほど。能登の長谷部神社では、狛犬ではなく、狐が祀ってあり、伯耆大山の下山神社にも、狐伝承があり、真庭市の熊野神社にも、狐の信仰が残っているらしい。金持氏の娘を狐と称して祀っているのかもしれないね。

つまり、京都で家庭を持つ信連が、日野に流罪となり、そこで出会った金持氏の娘と恋仲となり暮らして子を授かった。やがて、長谷部信連のぶつらの本妻が息子とともに日野にやってくると、二つの家庭をもつという奇妙な暮らしをしていたが、やがて、源氏の世になると、鎌倉に旅立ち公家の女房と能登で新たな家庭を築いた。という物語だ。

上下の長谷部氏は、金持氏の娘。下榎の長谷部氏は雅樂氏の娘。どちらの主張が正しいかわからないので、どちらも正しいのだと思う。


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