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■【より道‐41】語られない日中戦争_蒙彊と張家口④

日中戦争については、調べれば調べるほど知らないことがでてくる。日本は、敗戦国だから、世界の見解というか、連合国の都合の良い情報しか学べなかったのだろうか。もしくは、日本の都合の悪い出来事に蓋をしたかったのか。たしかに再び武士道を炎上させて革命が起きたらたまらない。平和が一番だ。

アメリカの資本主義では、全員が金持ちになることはできないけど、貧乏人のストレスをうまく吐き出しながら、一人ひとりが「足るを知る」ということに気づきながらも心豊かな人生が送れるならそれが一番いい。

でも、現代社会のストレスはかなり溜まってきてしまっている。まじめで優しい人から精神を病んでしまうのであれば、行き過ぎた資本主義だけではもたないのかもしれない。もう少し目に見えない精神を大切にする言動や行動が身近に存在する社会になったらそれは素晴らしいことだ。

もともとの日本の戦争は、そんな未来との戦争だったのかもしれない。大日本帝国ではなく、小日本帝国を目指して日本らしい文化を大切にすることができたら日本人は、いまよりも自信を持って心を大切にする人生をおくれたかもしれない。徳川家康の遺訓「及ばざるは過ぎたるに勝れり」が正しい生き方なのかな。


【泥沼の日中戦争】
盧溝橋事件ろこうきょうじけん」が起きてから1ヶ月。ついに中国と日本は全面戦争に突入します。全面戦争のきっかけは、上海でした。上海の非武装地帯に保安隊の制服を着せた中国正規軍が武器を秘密裏に持ち込み、上海日本人租界区域を包囲し攻撃を始めました。上海には、アメリカやイギリス、フランスなどの租界地もあったので、外国人を含む多くの民間人が被害にあいました。

更には、日本軍に通じる漢人を4000人を殺戮する「漢奸狩りかんかんがり」や日本軍人を30発以上の銃撃を受けたあと、顔をつぶし、胴体に穴をあけるなどして殺害するなどの虐殺行為に、近衛内閣は「もはや隠忍いんにんその限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲ようちょうし、南京政府の反省を促す」と声明を発表したわけです。その後日本は、南昌なんしょう南京なんきん広徳こうとく杭州こうしゅうへの爆撃を開始するなど本格的な戦いになりました。全ては、ソ連と共産党の思惑通りに事が進んだということです。

この一連の流れは、当時のアメリカも「上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と擁護しました。とはいえ、日本は人の土地で無差別に爆撃行為を続けていますので、国際連盟は日本空爆への非難決議をします。

しかし、ここで日本軍に追い風が吹きます。ローマ法王が全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけます。「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」と声明を出しました。ここにイタリアとの軍事同盟の理由があったんですね。初めて知りました。こんなこと、いままで誰も教えてくれませんでした。

激戦地である上海を日本が攻略したあと、和平工作を開始します。1937年(昭和十二年)11月に蒙古連合自治政府もうこれんごうじちせいふを樹立し、冀東防共自治政府きとうぼうきょうじちせいふがあった場所・華北と上海を「非武装中立地帯」として「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」とドイツ大使を通じて蒋介石に話を通しましたが受理されませんでした。

それでもドイツ大使は粘りに粘って交渉を重ねると、蒋介石は「日本案を受け入れる準備がある」と語ります。和平交渉がまとまりかけたのです。しかし今度は、近衛首相が「賠償金をよこせ」とひっくり返してしまい、日中和平交渉は決裂してしまいました。このときが日本の不幸の結末を避ける最後の機会だったと思います。

その後、日本は、南京を攻撃します。これが、いまでも政治問題になっている「南京事件」です。被害者人数はわかりませんが、日本軍もひどい虐殺をしました。そして、華北、徐州、漢口、広東とどんどん攻略していきます。そして、近衛首相の「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」の声明を発表するわけです。これで、いままで中立を保っていたアメリカやイギリスもついに日本を非難するようになったわけです。そりゃあ、そうなんです。「大アジア主義」の思想を政治の世界で矢面にして「アジアから欧米人を追い出す」と宣言したということになりますので。

アメリカ、イギリス、フランス、ソ連は、蒋介石を軍事支援するために「援蔣えんしょうルート」を使い軍事物資を輸送するようになります。そこから、中国軍は「日本軍が攻めたら逃げ、駐屯したら周りで騒ぎ、撤退したら自らが駐屯する」という作戦を徹底するようになります。なので、当時の日本軍の指揮官も「戦争をしているとは思えない」というような発言をするほどでした。

そんなときに「ノモンハン事件(戦争)」が起こるわけです。ソ連のスターリンがここらで日本に大打撃を与えようと画策したわけです。きっかけは「盧溝橋事件」と全く同じです。どっちが、撃った撃たないの小規模衝突から、悲惨な近代戦争へと発展していきました。

日中戦争は、局地戦でかつヒットアンドアウェーの中国軍と戦っていましたが、ソ連との闘いは最新鋭の戦車やガトリング砲で攻撃されました。対する日本は、40年前の日露戦争時代につかった旧式の銃と火炎瓶で対抗するという、日本のお家芸「精神攻撃」で対抗しました。死者数こそ日本軍の方が少なかったそうですが、国境線線を確保し戦争目的を達成させたのはソ連軍でした。

それから、第二次世界大戦に突入するというわけです。日本は、日独伊三国同盟を結び枢軸国すうじつこくとして連合軍と闘うことになります。「真珠湾攻撃」や「ミッドウー海戦」などは、太平洋戦争ということになりますが、「ビルマ攻略」や「インパール作戦」は日中戦争は「援蔣えんしょうルート」を遮断することが目的の戦いということになります。

こうやって学ぶと、ソ連のスターリンや共産党軍の毛沢東の掌の上で国民政府軍の蒋介石との戦い日本は敗れたのだたということがよくわかります。しかし、日中戦争はどう考えても日本に非があります。それは、敗戦したということ。挑発にのって人の領土で暴れまくったということ。大義も理屈が通りません。「大東亜共栄圏」や「共産主義との闘い」が戦争理由なのであれば、国民政府軍と手を結ぶ必要がありました。

もちろん、この戦いをきっかけにアジアの国々が欧米列強から解放されたという事実はあります。しかし現代では、東南アジアの港を中国共産党が資金提供して100年の租借権を得たりしているわけです。まるで、大清帝国時代の思想と、列強欧米や大日本帝国が他国の領土を得たときのように。

どうか、同じ過ちが繰り返されませんように。


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