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■【より道‐79】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の四職_赤松氏

■悪党
「悪党」は一般に人道にはずれた行為をする悪人を意味する語ですが、中世の日本においては、支配層や体制に反抗し、騒乱を起こした者や集団のことを意味していました。

たとえば、鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた楠木正成(河内国)や名和長年(伯耆国)らは悪党と呼ばれていました。播磨国の守護赤松則村(円心)もそんな悪党のひとりです。

ただし、日本が天皇制国家主義の国だった昭和初期には楠木正成と名和長年は忠臣とみなされていましたが、赤松則村だけは忠臣ではなく、悪党のイメージが強かったようです。イメージ的には損をするタイプですね。

■三管領四職
足利幕府を支えた宿老は三管領と四職ですが、顔ぶれをみると、三管領と四職では毛並みがすこし違うようです。三管領の細川氏、斯波氏、畠山氏はいずれも清和源氏の流れをくむ足利一門でした。

一方、四職と称されるのは、山名氏、京極氏、赤松氏、一色氏の四氏。そのうち一色氏だけは足利一門ですが、残りの三氏、すなわち山名氏、京極氏、赤松氏は厳密に血統を重視する立場からみれば外様大名です。

山名氏は同じ清和源氏でも、足利一門ではなく、敵対関係にあった新田一門であり、京極氏と赤松氏は清和源氏の流れですらありません。京極氏は宇多源氏、赤松氏は村上源氏の流れです。

四職は主として、幕府の軍事召集・指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官(頭人、所司)に交代で任じられました。後年の江戸時代に政権を担当した徳川幕府なら、外様大名がこのような政権中枢に近い要職につくことはまずないでしょう。

では、なぜ赤松氏が室町幕府で、三管領四職の一角の地位を確保、維持することができたのか。それはやはり、そもそも建武新政権が北条氏の鎌倉幕府倒幕に成功し、赤松氏の軍功が認められたからでしょう。

赤松円心が六波羅を攻撃して戦果をおさめているのをみて、足利尊氏や新田義貞よしさだは勇気づけられ、倒幕のチャンスありと心をおどらせて、幕府に反旗をひるがえしたのです。

しかし、後醍醐天皇を中心とする建武新政権は赤松氏の軍功を軽視しました。恩賞は公卿が優先されて、武士は恩賞を賜るどころか、本領も安堵されません。その不公平人事のとばっちり人事をくった代表的な例が赤松則村のりむら(円心)で、播磨の守護職はとりあげられて、新田義貞よしさだに与えられ、則村のりむらは守護代に降格です。

こんなやりかたでは、建武新政権への不満がつのるばかりで、政権運営はうまくいくはずがありません。赤松氏も恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍・足利尊氏に与して活躍し、その後、三代将軍・足利義満により幕府の四職に抜擢されました。

■嘉吉の変
嘉吉かきつの変とは、1441年(嘉吉元年)、六代将軍・足利義教よしのりが赤松満祐みつすけによって殺害された事件を指します。

祝勝の宴として赤松囃子ばやしという赤松氏伝統の猿楽能を献上したいと称して、西洞院二条にしのとういんにじょうにある邸へ将軍義教よしのりを招いたそうです。

この宴に相伴した大名は管領・細川持之もちゆき、畠山持永もちなが、山名持豊もちとよ、一色教親のりちか、細川持常もちつね、大内持世もちよ、京極高数たかかず、山名熙貴ひろたか、細川持春もちはる、赤松貞村さだむら

ーーまさか刺客が潜んでいるとは誰も思っていません。ところが、にわかに障子が開け放たれるや甲冑を着た武者数十人が宴の座敷に乱入し、義教よしのりほか数名を斬殺してしまったそうです。

やがて山名持豊もちとよ(後の宗全)を総大将とする討伐軍が編成され、満祐みつすけは領国の播磨で討ち果たされました。ただ、それだけの事件ですが、なぜ赤松満祐は猿楽という伝統芸能を献上するめでたい席で将軍義教を謀殺する行為にはしったのでしょうか。遠い昔の理不尽な恩賞沙汰に抗議する逆襲? 時代を超えた因果の法則? どうもよくわかりません。

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