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■【より道‐112】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「永正の錯乱」

中世・戦国期の時代がややこしいのは、有力大名のお家騒動に加えて、家格が「下の者」が「上の者」打ち負かす。つまり、下剋上がおきたことになりますが、これまた、あっちこっちで、いろんな問題が起きているのでなかなか頭の整理がつきません。

足利将軍家でも「応仁の乱」や「明応の政変」「船岡山合戦」とよばれるお家騒動がおきていますし、有力武家の六角氏、畠山氏、斯波氏、京極氏などのお家騒動が複雑に絡みあったりもしてるので、かなりカオスな状態です。

しかも唯一勢力を増していた細川氏も、他有力大名に一代遅れてお家騒動が起きるわけですから、足利尊氏たかうじが理想とした「命懸けで戦い功績をあげた者たちに領地を分け与える武士の世」というものは、「守護」という言葉のとおり、「変化」を抗う文化を築くものとなりました。

今回は、「京兆専制」「半将軍」と呼ばれるほどに天下をとった細川氏のお家騒動について記していきたいと思います。

この戦いには、我が長谷部家のファミリーヒストリーにも大きく関わった出来事のようです。


■ 三人の養子息子

十一代将軍・足利義澄よしずみを傀儡にして、日の本の天下をとった細川政元まさもとですが、彼は、「生粋の男色」だったため妻を娶りませんでした。

さらには、兄弟もいないため、細川宗家の京兆家には後継者がいません。そこで、細川政元まさもとは、三人の養子を迎えることになります。

一人目は、関白・九条政基くじょうまさもとの息子、細川澄之すみゆき

二人目は、「康暦の政変」で四国に流された管領・細川頼之よりゆきの弟の子孫、阿波守護家から細川澄元すみもと

三人目は、足利義満よしみつの時代に、細川京兆家から分家をした、細川野州家の細川高国たかくに

この三人が、細川政元まさもとの後継者として争います。他の有力大名たちは、一代前にお家騒動がおきていますから、お家騒動というものは、武士の世の成れの果てなのでしょう。


■ 永正の錯乱

細川政元まさもとは、当初、関白・九条政基まさもとの息子、細川澄之すみゆきに家督を継がせようとしました。しかし、細川京兆家の家臣たちが、細川一族と全く関係のない人物を後継者にすることに大反対したそうです。

すると、細川政元まさもとも、誤った養子縁組をしてしまったと後悔して、庶家の阿波守護家から細川澄元すみもとを養子にとりました。このとき、細川澄元すみもとの補佐役として同行したのが、三好之長ゆきながです。

この三好之長ゆきなががかなり有能で、細川政元まさもとの命で、多くの戦に参戦し功績をあげました。すると、政治的影響力が強まる三好之長ゆきながと、もともといた、細川京兆家の重臣たちとのあいだで対立が生まれてしまいました。

そんなことが起きているなか、当の細川政元まさもとは、山籠もりをして、天狗になるため修行をしていると、そのときを狙われて暗殺されてしまいました。

暗殺したのは、細川澄之すみゆきとその家臣たちです。さらに翌日には、細川澄元すみもとの屋敷に乗り込み近江国に追いやり、細川澄之すみゆきが強引に細川京兆家の家督を継ぎました。

こんなことをしでかしたわけですから、細川一族総出で報復します。まず、細川高国たかくにが、細川京兆家の後継を、細川澄元すみもとにすることで一族内でまとめあげます。

じつは、細川高国たかくには、幼少のころに、細川政元まさもとの養子となっていたのですが、出身の細川野州家(京兆家の分家)の家督を継いでいたので、細川一族のなかでかなりの影響力を持っていました。

戦上手の三好之長ゆきながは、近江国から援軍を携え、細川澄之すみゆきを攻撃すると自害に追い込むことに成功。細川一族が結束した戦いは、細川政元まさもとが暗殺されてから、わずか、1か月のクーデターとなりました。

そして、無事に細川澄元すみもとが細川京兆家の家督を継いで一件落着となりました。


■細川高国の下剋上

このように「半将軍」と呼ばれていた細川政元まさもとが暗殺されて、細川氏のお家騒動が起きると、これを好機ととらえた人物がいました。それが、大内義興よしおきです。大内氏のもと周防国には、前将軍、足利義稙よしたねが逃げ込んできています。

「半将軍」とよばれた、絶対権力者、細川政元まさもとが暗殺されると大内義興よしおきの動向を恐れた室町幕府は、先手を打ち、大内氏討伐令をくだします。

しかし、大内義興よしおきは関係ないと、足利義稙よしたねを擁立して、京へと上洛軍をすすめました。

すると、将軍・足利義澄よしずみと細川澄元すみもとは、一転して大内義興よしおきと和睦するため、細川高国たかくにを使者として和泉に出向いてもらうことにしました。

このときの、大内義興よしおきの心境は、ご先祖さまの大内義弘よしひろが足利義満よしみつと対立した「応永の乱」を彷彿させていたと思います。

すると今度は、細川高国たかくにが大内義興よしおき側に寝返り、細川澄元すみもとを近江国に追い出す事態となりました。

このいきさつには、細川高国たかくにの血筋が京兆家に近いということ、そもそもな素質があるかと、そして京兆家の重臣たちと三好之長ゆきながが、もめていたことが後押ししたようです。

そして、足利義稙よしたねが将軍に復権、細川高国たかくにが右京大夫と管領、大内義興よしおきが左京大夫と管領代に就任しました。

しかし、細川澄元すみもとと三好之長ゆきながは、これでは矛先がおさまらず、細川氏のお家騒動は、足利将軍を巻き込んで20年間争い続けることになります。

つまり、細川政元まさもとの人格により、世は戦国期に導入したということになります。

彼は、江戸時代に戦国三大愚将のひとりと言われるようになりました。


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