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■【より道‐103】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「京極騒乱:後編」

「家系図」をみてみると、長谷部家連さんの娘に「女:京極氏室」と「女:小嶋氏室」と記載されています。そして、我が家の家訓として残っている「尼子の落人」という言葉から、このあたりの時代に京極氏と親戚関係になったのではないかと、妄想しています。

それは、「京極騒乱」の時代に、出雲の守護だった京極政経(まさつね)、そして、京極氏の同族で守護代だった尼子経久つねひさと大きくかかわりがあったのではないでしょうか。

今回も、前回に続き「京極騒乱」について記していきたいと思います。



■ 応仁の乱と京極騒乱

京極家当主の京極勝秀(かつひで)が亡くなると、家督問題が生じてしまいました。そこで対立したのは、京極孫童子丸(まごどうじまる)を擁立する京極政経(まさつね)と、京極乙童子丸(おつどうじまる)を擁立する京極政光(まさみつ)でしたが、東軍管領の細川勝元かつもとは、京極孫童子丸(まごどうじまる)に家督を継がせることにしました。

そんなことをしたら、対立している京極乙童子丸(おつどうじまる)と京極政光(まさみつ)が怒ります。ふたりは、「応仁の乱」で敵対していた、六角高頼たかよりと組んで西軍に寝返り北近江を攻撃するようになりました。

すると、ここで東軍の京極家に悲運が訪れます。京極家の家督を継いだ京極孫童子丸(まごどうじまる)が、わずか5歳で早世してしまうのです。当主を失った京極家は、京極孫童子丸(まごどうじまる)を支援していた、京極持清(もちきよ)の三男、京極政経(まさつね)が家督を継ぐことになりました。

家督継承に納得のいかない、京極政経(まさつね)の兄、京極政光(まさみつ)と京極乙童子丸(おつどうじまる)こと京極高清(たかきよ)は、西軍連合軍のチカラを借りて、京極政経(まさつね)を撃破して敗走させることに成功しますが、今度は、京極政光(まさみつ)も病死してしまうのでした。

この頃、京極乙童子丸(おつどうじまる)は、京極高清(たかきよ)と名乗るようになるので、頭の整理が必要です。

1473年(文明五年)西軍大将・山名宗全そうぜんが亡くなると、東軍大将の細川勝元かつもとが、京極政経(まさつね)に出雲・隠岐・飛騨・近江守護と奪還を命じます。

京極政経(まさつね)は東軍のチカラを借りて近江国へ進攻して西軍の六角高頼たかよりと京極高清たかきよを撃破しますが、今度は、西軍の六角高頼たかよりが大軍を引き連れ、京極政経(まさつね)を撃破するという、一進一退の攻防が続きました。

1477年(文明九年)に「応仁の乱」が終わると、京極政経(まさつね)は近江国守護の任を解かれ、六角高頼たかよりが再び近江国の守護になりました。


■ 長享の乱と京極騒乱

「応仁の乱」が終わると、京極政経(まさつね)は、出雲国・隠岐国・飛騨国の守護として、京極高清(たかきよ)は、六角高頼たかより守護の元、北近江を所領して、しばらくは、互いに戦後処理をしますが、争いが再炎します。

1486年(文明十八年)に京極政経(まさつね)が息子の京極材宗(きむね)と共に出雲から京へ上洛すると、京極家の重臣と通じて京極高清(たかきよ)への反乱を企てますが失敗してしまいます。

さらには、1487年(長享元年)に、九代将軍・足利義尚よしひさによる六角高頼たかより討伐「長享・延徳の乱」が起きます。京極高清(たかきよ)も討伐軍に加わりますが、その混乱に便乗して、京極政経(まさつね)が近江国の国人たちとともに挙兵。京極高清(たかきよ)を追放に成功します。

そして、京極政経(まさつね)は再び、近江国の守護となり、京極高清(たかきよ)は、舅の斉藤氏を頼り越前に逃げ延びました。


■ 明応の政変と京極騒乱

第十代将軍・足利義稙よしたねが将軍に就任すると、京極政経(まさつね)は、近江国人衆の神社横領を治めきれなかったという理由で、近江国守護を解任させられてしまい、後任に京極高清(たかきよ)が任命されました。

しかし、1493年(明応二年)に細川政元まさもとと日野富子とみこの企てによる「明応の政変」が起きると、十一代将軍に足利義澄よしずみが就任します。すると、足利義澄よしずみは、京極高清(たかきよ)の近江国守護を解き、京極政経(まさつね)に家督を復帰させたのです。

我慢ならない、京極高清(たかきよ)は、舅の斉藤氏を頼り北近江に攻め込みますが、京極政経(まさつね)はかつて敵対していた、六角高頼たかよりと手を組み対抗したのです。

■ 京極騒乱の終息

斉藤氏の挙兵により京極政経(まさつね)は出雲へ下ることになりますが、北近江で息子の京極材宗(きむね)が最後まで抵抗しました。しばらくは両者対立がつづきましたが、やがて和睦することになります。しかし翌年の1507年(永正四年)京極材宗(きむね)は京極高清(たかきよ)に自害に追いこまれてしまいまった。高極騒乱は終息しました。

京極政経(まさつね)は、京極吉童子丸(きつどうじまる)に家督を譲り、出雲国守護代の尼子経久つねひさに京極氏代々の事跡を集めた「佐々木文書」と共に京極高吉(たかよし)を託して、1508年(永正5年)に京極政経(まさつね)は55歳で亡くなりました。

その後、京極家の当主となった、京極吉童子丸(きつどうじまる)ですが、1514年(永正11年)に消息を絶って行方不明になったそうです。

一方、「京極騒乱」に勝利した京極高清(たかきよ)は北近江の領土を安堵されました。息子には、京極高延(たかのぶ)、京極高吉(たかよし)がいたそうで、一説によると、この京極高吉(たかよし)が京極吉童子丸(きつどうじまる)といわれています。

京極高吉(たかよし)は、父の京極高清(たかきよ)に寵愛され、兄の京極高延(たかのぶ)と家督を争いましたが、国人達の支持を受けた京極高延(たかのぶ)に敗れ、追放されてしまいました。しかし、その後、京極高延(たかのぶ)も国人の浅井氏と対立し追放されてしまい、京極氏の衰退は決定的となりました。

京極高吉(たかよし)は南近江の六角氏の支援のもと、京極高延(たかのぶ)や浅井氏と争いますが敗れてしまいました。その後、13代将軍足利義輝の近臣として仕えましたが、1560年(永禄三年)に権力奪回を目指して再び六角氏と連携して浅井長政に対して挙兵するも失敗。近江における残された支配権を全て失ったそうです。


わたしは、長谷部氏を名乗っていますが、父の故郷、岡山県新見市神郷町高瀬にある故郷の屋号は「おおはら」と呼ばれており、曾祖母は大原氏から長谷部氏の養子になりました。そして我が家の家訓には「尼子の落人」という言い伝えが、現代にも残っています。

滋賀県米原市に大原という地がありますが、鎌倉時代に近江国守護・佐々木氏が、大原氏、高島氏、六角氏、京極氏という4氏に分かれ、佐々木(大原)重綱が始祖となり、当時は8,000貫賜ったとあります。

近江国に住んでいた、大原氏が「応仁の乱」「京極騒乱」を経て、尼子氏の家臣として出雲に居を移して戦国期を過ごして毛利氏に敗れて、備中と伯耆、備後の国堺にある辺境の地に落ち延び、長谷部の氏を名乗りながら、いまの命がつながっているのだろうなと、思ったりもしています。


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