見出し画像

【16日目】一族の歴史

ご隠居からのメール:【一族の歴史】

庶民一族の歴史はせいぜいのところ、曾祖父の時代までしかわからない。曾祖父の時代は長谷部氏も岡村氏も養子になるか、とるかしているから、DNAはとぎれている。しかし、実は養子も親戚から選んでいるから、ある意味ではつながっているかもしれない。

今度、浦安に来るなら資料として、「新見太平記」と「尼子の落人」のコピー、および、「神郷町史」の一部コピーを用意しておく。


返信:【Re_一族の歴史】

吉野村は鉄がとれたんだね。その鉄で、長谷部国重が名刀、「へし切長谷部」をつくったかもね。「あれだけ広い土地」「東寺の荘園」「砂鉄の発掘」「へし切り長谷部」「長谷部信連」「備後の地頭」「本家」このキーワードで勝手に推測すると、長谷部信連の一族が1200年ごろ吉野村、荘園の本家として土地を所有し東寺との窓口となった。

戦国時代、長谷部元信はじめ一族は、山名、尼子、毛利に仕える。その間に松田氏や井上氏と親戚関係になる。上月城の戦いの後に松田氏を長谷部が所有する吉野村に招き入れる。このとき、松田氏との関係で何か、契りを交わす縁や約束があったのでは、戦国の混沌とした時代だ、、吉野村を高瀬と呼び名を変える。関ヶ原後、井上氏を招き入れる。フィクション小説が書けるね。

(※参考資料:「里山とたたら製鉄」)


ご隠居からのメール:【Re_Re_一族の歴史】

長谷部信連の一族が1200年ごろ、吉野村、荘園の本家として土地を所有し東寺との窓口となった。新見荘という広大な土地の所有者はあくまでも東寺だ。その代官がいて代官の下に又代官がいる。おそらくご先祖の役割はせいぜい又代官だろう。

その点、長谷部信連は能登の守護だから、広大な土地の所有者だったといえる。「里山とたたら製鉄」という論文によれば、「前述のように、新見庄内吉野村で鉄年貢が貢納されていた。吉野村はやがて高瀬と呼ばれるようになり、現代に至っている」という。なぜ、吉野村が高瀬と呼ばれるようになったかという疑問を抱いていない。


返信:【Re_Re_Re_一族の歴史】

長谷部信連は、各地の地頭となっているのでその一つに吉野村があったのではないかね。新見荘の代官がいたが、下地中分として東寺と長谷部で土地を2つに分けて、それぞれの土地の領有権を認めてたのでは、、信連は、そのくらいの影響力ありそうだよ。

そんな推測をすると、高瀬一帯の土地を長谷部一族が当時から所有していることが納得できる。松田氏とは、やはり只ならぬ関係だった気がするよ。いまの情報だけで、こんな、フィクション物語が書ける。

●フィクション物語
・長谷部信連は平家滅亡後関東御家人の一人として地頭職につく
・そのひとつに吉野村があった
・吉野村からは良質の鉄がでる
・荘園と地頭の争いで領地2分割で土地を得た
・長谷部一族が土地を守っていた
・松田氏は、承久の乱の功で岡山御津の地頭職
・鵜飼派と呼ばれる刀工集団を招聘する
・長谷部氏と松田氏の鉄取引が始まる
・長谷部国重は京都の刀鍛冶として名をとどろかせる
・戦国時代、長谷部と松田、井上は山名、尼子、毛利の家臣となる
・互いの家を存続させるために親族関係になる
・上月城の戦いで敗れた松田の血縁者は親族の長谷部を頼り吉野村へ
・尼子時代管轄していた高瀬城を忘れないために村の名前を高瀬に
・関ケ原の戦い後、主流と離れ高瀬へ

吉野の名前を高瀬に変えるには労力がいるはず。吉野とは、「良い、美しい野や山」高瀬の名に変えるということは、松田氏の血縁者の多くが吉野村に来た。また、関係ないかもしれないけど、長谷部国信の短刀を松田氏が、厳島神社へ寄進している。

(参考資料:「広島県の文化財 - 短刀(銘長谷部国信)」)


<<<次回のメール【17日目】平家物語

前回の話【より道-5】仏さま>>>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?