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■【より道‐83】戦乱の世に至るまでの日本史_室町幕府の六職_土岐氏

■ 六職
室町幕府を支えた三管領・四職のうち四職には土岐氏と今川氏を加えて、三管領・六職と呼ばれることもあります。四職と六職はどこで線引きされるのか、今となってはどうでもよいことですが、一応調べてみると、評定衆ひょうじょうしゅうかどうかという基準があったようです。土岐氏と今川氏は評定衆ではなかったというのです。

しかし、美濃の守護職を継いだ土岐頼益(よります)は、評定衆に列し、侍所別当さむらいどころべっとう(長官)として幕閣の重鎮となったともいわれています。つまり、評定衆になったり、ならなかったりした家柄のようです。足利氏の一門ではありませんが、清和源氏の流れで、美濃の国土岐郡を拠点としたことから、土岐氏と称し、守護大名として繁栄したことは事実ですが、戦国時代になって、下剋上によって没落しました。


■下剋上
土岐氏には下剋上によって守護という身分を追われて没落した旧勢力の守護大名というイメージがつきまとっています。土岐氏を権勢の座から引きずり下ろしたのは家老の長井長弘ながいながひろとその家臣の松波庄五郎まつなみしょうごろう(後の斎藤道三どうざん)です。

その後、道三の息子斎藤義龍たつおきは、土岐頼芸(よりあき)の落胤らくいんと称して、父道三を討ち、斎藤家の家督を奪いました。すると、道三の娘濃姫のうひめを正室としていた尾張の織田信長は、道三が信長に美濃国を譲る遺言書のようなものを書いており、義龍は最後まで道三から認められなかったと主張し、義龍の後継者義興よしおきを攻め斎藤家を討ち滅ぼしました。

こうなると、DNAのご落胤の可能性や婚姻制度の絆という要素まで考慮しなければなりません。戦国時代には誰がほんとうの父で、誰が息子だかもからなくなって、ますます混沌を深めてきます。

没落のイメージのつきまとう土岐氏ですが、もちろん、鎌倉時代や室町時代には美濃の豪族として権勢を振るっていました。「承久の変」の頃は、後鳥羽上皇ごとばじょうこうの西面の武士だったように、そもそも朝廷をお守りすると自負していたのです。ところが、皇室への尊崇の念の薄い傍若無人の人物もいました。

■土岐頼遠(よりとお)のバサラぶり
建武の新政がなった頃、京都の二条河原に掲示されたという有名な落書に「バサラ扇ノ五骨(いつつぼね)」という句があります。バサラの代表者といえば五人という意味のようです。バサラとは常軌を逸した振る舞いをする人物で、佐々木道誉、高師直、土岐頼遠(よりとお)などが有名です。

伏見天皇の忌日きにちに出席した光厳上皇こんごうじょうこうが夜おそく帰ると、大酒を飲んで酔っ払った頼遠(よりとお)と遭遇します。

上皇の行列の先達が、「何者ゾ狼藉也、下(おり)候へ」と下馬を命じたところ、怒った頼遠は、「何二院ト云フカ、犬ト云カ、犬ナラバ射テ落サン」と叫んで、上皇の牛車に矢を放ちました。

院(イン)を犬(イヌ)をわざと言い間違えたのですね。すると、車を引く牛の縄が切れ、車は横転しました。幸いケガはありませんでしたが、上皇は歩いて帰ったそうです。酒の上での所行とはいえ、この事件で頼遠は処罰され、死罪になりました。


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