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■【より道‐117】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子政久という男

尼子経久つねひさが、時代の寵児となっていくのは、三十歳を越えた頃、時代でいうと1486年(文明十八年)からでしょうか。

それまでは、「応仁の乱」に勝利した足利義尚よしひさによる幕府立て直しの要請や出雲国守護の京極政経まさつねとの対立、そして、有力国人たちへの対応に大変苦労していたように思えます。

そして、1484年(文明十六年)に出雲守護代の座を追い出され、初代「尼子の落人」となってしまいますが、そのときに自らを支えてくれた、重臣、山中氏や亀井氏、真木氏を大切にした様子をみると、人心をもった天才だったんだろうなと思えます。

1486年(文明十八年)の正月に月山富田城がっさんとだじょうを奪還した、尼子経久つねひさは、1511年(永正八年)「船岡山合戦」で前将軍・足利義稙よしたねの復権に貢献すると、自らの勢力をさらに拡大していきました。

今回は、勢力拡大をしていく尼子氏の様子を記したいと思います。


■中国覇権争い

前将軍の足利義稙よしたねは、周防国の守護大名・大内義興よしおきに擁立されて上洛を果たし返り咲きに成功しました。

その背景には、細川氏のお家騒動が大きく関わっていまして、細川高国たかくにという人物が、将軍の足利義澄よしずみと管領の細川澄元すみもとを京から追い出して、前将軍の足利義稙よしたねを、あらたに迎え入れることで、自らが、細川宗家の家督を継いだことにあります。

さらには、将軍・足利義澄よしずみを支援していたはずの近江国の守護大名・六角高頼たかよりまでもが、前将軍の足利義稙よしたね側に寝返ったことで、足利義澄よしずみは失意のなか病で亡くなってしまいました。

この、六角高頼たかよりの寝返りには、じつは、理由があったようです。それは、十一代将軍・足利義澄よしずみの息子、足利義晴よしはるが、次期将軍になることを見越して、大内義興よしおきが京に上洛してくる隙に、佐々木一族の尼子経久つねひさに中国を制覇するよう内通していたというのです。ようは、室町初期のように、再び、足利と佐々木の世を築こうと画策したわけですね。

それを裏付けるように、「船岡山合戦」後、多くの国人たちが、大内義興よしおきを通じて、所領を安堵されていますが、尼子経久つねひさは上洛すらしないで、自らの領国、出雲に戻っていったと言われています。

その後、実際に尼子経久つねひさは、破竹の勢いで西出雲の有力国人を配下に治め、備後国の山内氏を攻撃し、さらには、備中国の新見国経くにつねを味方につけ、美作国にまで兵を動かしていきました。

さらには、もともと、山名氏の影響下にあった、伯耆国にまで勢力をのばすと、地元の国人たちとの対決は必須な状況となっていきました。


■ 尼子政久

尼子経久つねひさの長男に、尼子政久まさひさという、父に劣らず智勇に優れた武将がいました。尼子政久まさひさは、笛などを嗜む教養人でもあり、父と同じく、出雲国で守護をしていた京極政経まさつねの「政」の字を偏諱へんきとして与えられていました。

1518年(永正十五年)各国へ勢力を拡大した尼子経久つねひさは、自らの主城・月山富田城がっさんとだじょうへ有力国人たちを招き寄せることにしました。しかし、西出雲にある阿用あよ城主の桜井氏は、かつての主君、京極氏への思いからその命令に従わず、伯耆国の国人らと通じて軍備を整えたそうです。

たしかに、それまで守護を務めていた京極政経まさつねは、1508年(永正五年)に亡くなっていますし、尼子経久つねひさが後見人となり、京極家の家督をついだ吉童子丸《よしどうじまる》も、行方不明になったといいますから、桜井氏の反発は、そのあたりが理由だったのかもしれません。

そこで、反発している桜井氏めがけて、尼子経久つねひさは、長男の尼子政久まさひさと共に出陣しました。しかし、桜井氏の阿用あよ城は、堅く閉ざされており、城はなかなか落ちません。すると、尼子経久つねひさは、付城つけしろという、敵を包囲する城を五つ築き、長期の城攻めに備えました。

ただ、悪戯に日数を重ね戦果があがらないと、味方の士気も下がっていくそうです。そこで、尼子政久まさひさは得意の笛の音をもって兵を鼓舞しようと、夜な夜な月に面して笛を披露していたそうです。

それを知った桜井氏が月面にむけて、矢を放つと見事に的中してしまい、尼子政久まさひさは命を失ったそうです。享年二十六歳でした。

尼子経久つねひさは、たいそう悲しみ、次男の尼子国久くにひさ、そして、三男の塩冶興久おきひさを先頭に総力を集結して弔い合戦に臨むと、あっというまに、阿用あよ城は陥落し桜井氏は討たれました。


■鏡山城の戦い

山名氏のかつての分国、伯耆国をも尼子氏が制圧していくと、尼子経久つねひさはいよいよ、西の覇者、大内義興よしおきと争うことになります。戦いの舞台は、石見、安芸、備後です。

しかし、石見や安芸、備後の国人衆は、「船岡山合戦」で足利義稙よしたねを擁する大内義興よしおきとともに行動したため、多くのものが感状をもらい、大内義興よしおきの配下に属していました。

そこに攻め込む尼子経久つねひさ。目指すは、安芸国西条にある鏡山城です。城主は、蔵田房信ふさのぶという人物でした。この地は、大内義興よしおきからすると、尼子氏の南下を防ぐ要所。そのため、尼子経久つねひさは、出雲、石見、美作、伯耆、備後の総兵を終結させました。

この戦で活躍するのが、後の、西国の覇者となる毛利元就もとなりです。それまで、毛利元就もとなりは、大内義興よしおきの味方をしていましたが、このときは、尼子経久つねひさの参陣要求に応じました。理由は、よくわかりませんが、すでに、尼子氏の勢力が自らの居城、吉田郡山城よしだこおりやまじょうにまで迫っていたため、勝馬にのるしかなかったのでしょう。

鏡山城主、蔵田房信ふさのぶは、城をよく守り落城する気配すらなかったそうですが、毛利元就もとなりが得意の調略で局面を打破します。

その方法は、蔵田房信ふさのぶの叔父、蔵田直信なおのぶに本領安堵と家名存続を約束して、二の丸解放の手引きをさせたそうです。すると、鏡山城は、奮戦やむなく落城しました。

戦の後、尼子経久つねひさは、毛利元就もとなりの軍功を賞しましたが、恩賞などは与えず、逆に毛利元就もとなりを警戒するようになります。そして、毛利元就もとなりの調略によって、寝返った蔵田直信なおのぶの行動に怒り「不義の至り本意にあらず」と切腹を命じたそうです。

この、蔵田氏のご先祖様は、長谷部信連のぶつらと言われています。すなわち、長谷部氏の庶流だったということになります。

長谷部信連のぶつらは、自らの命を捨ててまで以仁王もちひとおうを庇い、六波羅探題で平氏の追及に啖呵をきり、武士の誉と称されるような人物でしたが、その魂は、子孫にまで伝わらなかったようですね。


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