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■【より道‐13】随筆_『新見太平記』(長谷部さかな)

以前、実家に帰ったとき、父が執筆した随筆『尼子の落人』と『新見太平記』のコピーをもらった。話を聞いてみると、昔、研究した内容をまとめたもので、どちらも、郷土やご先祖さまのことを研究した書物だった。


『新見太平記』
1)まぼろしの軍記
2)陰徳太平記
3)からかさ連判状
4)新見庄土一揆
5)新見氏と多治部氏
6)応仁の乱
7)備中大合戦
8)新見国経
9) 細川の落人
10)小堀三間城
11)長牛之助
12)ゆずりは軍記


1)まぼろしの軍記

「まあ、お上がり。お茶でも飲むかい」 荒屋敷の隠居は歓迎してくれた。たまには顔を出しておこうと思っただけだが、隠居はひまつぶしの話し相手がやってきたのを喜んでいる。

「ちょうどいいところへきた。おまえさんに、ひとつ頼みたいことがある」 

「いいですよ、私にできることなら」 私も今は、まあ隠居のような身分ではあるが、荒屋敷の隠居のほうが先輩である。またボケ老人がやちもないことを言い出したと内心では思っても、口にはしない。

「まぼろしの軍記を探してほしい」

 「何という軍記ですか?」

 「『新見太平記』だ」 

「え?聞いたことがありませんが、そんな本があるのでしょうか」

すると、隠居は手元にある『太平記』巻七をみせてくれた。元弘元年(1331年)、隠岐に流された後醍醐天皇は、翌年、脱出して伯耆の船上山に立てこもった。そのとき、天下の大勢が北条氏の鎌倉幕府を離れたとみて、西国の武士が続々と船上山に駆けつけ、備中からは新見・成合なりあい・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁が馳せ参じたという。

「ここに備中の武士として真っ先に新見の名がある。その後の新見氏の武勲を伝える軍記がどこかにあるはずだ」

 「備中の武士では児島高徳こじまたかのりが有名です。院庄いんのしょうの桜の木に 『天勾践てんこうせんむなしうすることなかれ、時に范蠡はんれいの無きにしもあらず』という漢詩を彫り、忠臣の鑑としてうたわれました」

勾践こうせんは中国春秋時代の越の王、范蠡はんれいは呉との戦に敗れた勾践を助け、再び呉を滅ぼした忠臣の名。天は勾践を見放すようなことはしない。必ず范蠡のような忠臣が現われて助けてくれる。児児島高徳がひそかに桜の幹に書き記して、後醍醐天皇に奉った詩の句とされる。

「児島孝徳については『太平記』以外の文献には記録がない。最近では、実在したかどうかも疑わしいとされている」

「児島孝徳の実在でさえ疑問視されているのに、新見氏の消息を調べるのはきびしいですね。実在を証明する文献はあるのですか」

 「『東寺百合文書とうじひゃくごうぶんしょ』がある。京都の東寺(教王護国寺)に伝えられていた平安時代以来の古文書だ」

「そんな古文書がよく保存されたものですね」

「江戸時代前期の貞享二年(1685年)、加賀藩五代藩主前田網紀まえだつなのりが多数の桐箱の中に厳重に封印してくれたおかげだ。その内容の概略は『新見市史』や『新見庄ー生きている中世』(備北民報社)を読めばわかる」

「それならいいじゃないですか」

「ダメだ」隠居は首をふった。「『東寺百合文書』は東寺の僧侶の立場から書かれた記録だ。中世の新見庄についての貴重な記録であることはたしかだが、新見氏について客観的で、公平な記述をしているとは思えない。ここのところを読んでみなさい」

 隠居は『新見庄ー生きている中世』の第四章一(82ぺージ)を示した。「詐欺師新見清直にいみきよなお」という見出しがついている。 

「詐欺師ですか。新見清直とはひどい奴ですね」と私が言うと、「それは東寺の一方的な見方だよ。とんでもない名誉毀損だと新見清直が草葉の蔭で嘆いているかもしれない」 

応永三年(1396年)と応永六年(1399年)は日照り・水不足や、大雨洪水などで大不作の年だった。応永元年は六十貫、二年は四十貫、四年は四十貫、六年は三十貫、七年は六十貫の未進みしん(租税を納税しないこと)があり、不作の年でも自分の得分とくぶん(わけまえ)で未進分を弁償するという約束も果たしていないという理由で、東寺は新見清直を罷免ひめん(職務をやめさせる)したという。

貫とは本来は大量の銭を携帯するために銭を束ねた道具「銭貫」のことで、銭の中央に空いている穴に貫や紐を貫いて1000枚を1組としておくということがよく行われた。(※現在の価値では1貫:12万円〜30万円ほど)

「これは日照り・水不足、大雨洪水のせいであって、新見清直を詐欺師呼ばわりするのは不当だと思わないかね」

「さあ、六百年も前のことですから、今となってはなんともいえません」 

隠居がこんどは「新見氏の滅亡」という小見出しのページを開いた。永禄九年(1566年)、尼子氏は毛利氏の前に滅んだ。 尼子氏を失った新見氏の立場は極めて弱いものでしかなかった。

永禄十年(1567年)、新見貞経にいみさだつねは、とうとう杠城ゆずりはじょうを抜けだし、伊勢神宮へ参詣さんけいかたがた京都へ立ち寄り東寺を訪れた。寺家じかはこのような戦国動乱のさなか多少でも年貢・公事を送り続けた新見氏へ酒肴を出して労をねぎらった。しかし、その後、新見氏がどうなったか、消息がぱったりとだえたという。 

「詐欺師と呼ばれたとか、酒肴を出して労をねぎらってもらった後は消息がとだえたとか、新見氏のイメージはパッとしませんね」と私は言った。 

「おまえさんもそう思うだろう。これが東寺の側から見た新見氏のイメージだ」

「どうしようもないでしょう。他に資料がないのですから 」

「このままでは新見氏一族は浮かばれない。それに、郷土を愛するこれからの若い世代のためにも『新見太平記』はどうしても必要だ。なんとかして探し出してくれ」

そんな無理難題を言われても困る。私は頭をかかえた。


2)陰徳太平記

隠居にすすめられて、軍記を何冊か読んでみた。『太平記』『陰徳太平記』『西国太平記』『備中兵乱記』『中国兵乱記』などである。軍記は脚色や誤記が多く、史料価値はとぼしいと言われているが、人名や地名にヒントがころがっているかもしれないと隠居はいう。

すると、『陰徳太平記』から手がかりらしきものが見つかった。 天正八年(1580年)、鳥取城に籠城している毛利軍のために、吉川元春きっかわもとはる有地右近あるじうこん新見左衛門尉にいみさえもんいに命じて、鳥取城へ兵糧を入れようとしたが、豊臣秀吉軍に阻まれて、両人はいたしかたなくそのまま帰ってきたというくだりである。(『陰徳太平記13_秀吉対毛利三家』)。

『陰徳太平記』享保2年(1717年)出版全81巻。戦国時代の山陰、山陽を中心に、室町時代12代将軍足利義稙の時代から、慶長の役まで(永正8年(1507年)頃から慶長3年(1598年)頃までの約90年間)を記述した軍記物語。毛利宗家へ献上されたものとみられる。

 兵糧を入れるという使命は達成できなかったとはいえ、吉川元春からこのような重要な仕事をまかされるのは知略に富み、剛胆な武将にちがいない。いったい新見左衛門尉とは何者か。 

『陰徳太平記』の奥付をみると、毛利氏の一支藩岩国領吉川氏の家老香川正矩かがわまさのりによって編纂へんさん(書物の内容をまとめる)され、その二男香川景継かがわかげつぐ(宣阿せんあ)が補足し、享保二年(1717年)に出版された軍記だという。関ヶ原の戦でミソをつけた吉川氏と宗家毛利氏の武勲と陰徳を伝えることが目的の書だ。

それにしても吉川氏の配下に新見左衛門尉という武将がいたとは聞いたことがない。そもそも新見氏は備中守護細川氏に従う国人だったが、出雲の尼子氏の勢力が強大になると尼子氏に属していたはずである。尼子氏が毛利氏に滅ぼされ、新見氏が杜城ゆずりはじょうから逃げだしたことは 『新見庄―生きている中世』の伝える歴史的事実だ。

新見左衛門尉は備中の新見氏の一族なのか、それともたまたま同姓というだけで、備中の新見氏とは縁のない武将なのか。この疑問を抱いて、毛利氏の史料を調べているうちに、こんどは「備後国人衆十八人の傘連判」(毛利家文書弘治三年(1557年)十二月二日)という文書が見つかった。備後国人衆十八人のなかに新見元致という名前がある。

新見元致が『陰徳太平記』に登場する新見左衛門尉と同一人物かどうかはわからない。しかし、一級史料と思われる備後国人衆十八人の傘連判(毛利家文書)に新見元致にいみもとまさという名前があることから、毛利氏側の武将にも新見氏の誰かがいた事実は間違いないと思う。

なお、左衛門尉さえもんいはもともと朝臣《ちょうしん》の官で、衛門府の高級士官の官名、通称、という。むかし源義経が後白河法皇から左衛門尉に任じられたことで九郎判官くろうほんがんと呼ばれた。 

とすると、新見左衛門尉も源義経に匹敵する武功をあげた人物ということになるが、室町時代には、守護大名や戦国大名が武功ある家臣や被官に対して、朝廷の正式な位階や除目の伴わない、非公式な官名を勝手に授けていたらしい。 新見元致の場合、左衛門尉という官名を授けたのはおそらく毛利元就で、元致の元というも元就から貰ったも のだろう。


3)からかさ連判状 

「備後国人衆十八人の傘連判」の内容は次の通り。

高屋信春 田総元里
柚谷元家 古志豊綱
杉原隆盛 楢崎信景
有地隆信 新見元致
上原豊将 芥川元正
長 元信 湯浅元宗
某 里資 安田元資
三吉隆亮 毛利隆元
毛利元就 和智誠春
 

申合條々事 
一、軍勢狼藉之儀、雖堅加制止、更無停止之條、於向後、此申合衆中家人等、少も於有狼藉者、則可討果事 
一、向後陣払仕間敷候、於背此旨輩者、是又右同前可討果事
一、依在所、狼藉可有不苦儀候、其儀者以衆議可免事、八幡大菩薩、厳島大明神可有照覧候、此旨不可有、相違候、

仍誓文如件
弘治三年十二月二日 

からかさ連判者の名前は本稿では便宜上、二列になっているが、現物は円形に並んでいる。これを傘連判状というらしい。からかさの骨のように円形に名前を書いて誓るしとしたものである。 円形に並んでいる備後国人衆十八人のなかには毛利元就、毛利隆元などともに新見元致にいみもとまさの名前がたしかにある。 早速、新見元致の存在について隠居に報告した。 

「新見元致は杜城の新見氏の一族の可能性があります」 と私が勢いこんでいったが、隠居の反応は鈍かった。 

「新見庄土一揆の連判状のコピーがここにある。連判状とこの連判状とつながれば面白いのだが、そのつながりが見えてこない」

 隠居が見せてくれたのは「備中国名主百姓等連署起請文」(寬正二年八月廿二日)である。『東寺百合文書』からコピーしたものらしい。

この起請文(神仏に誓約する文書)には節岡名せちおか名など名主・百姓四十一人の名前が載っていますね」 

「司馬遼太郎の小説『箱根の坂』には、新見庄土一揆で国人指導による惣国そうこく(一国規模)に近い状態になり、多治部氏や新見氏などの国人の合議体制が支配権をにぎったと書いてある」

「しかし、多治部氏や新見氏の名前は四十一人のなかに見あたりません」

 「問題はそこだよ。常識的に考えてみても、泣く子も黙るお代官さまをわずか四十一人の名主、百姓だけで追放 できるはずがない。連署人の背後には新見氏や多治部氏などの国人がいたと推理するほうが自然だ」 

「新見庄の荘官三職として知られる田所の金子衡氏かなごうひらうじ、公文の宮田家高みやたいえたか惣追捕使そうついぶし(軍事官職)の福本盛吉ふくもとせいきちも相当な武力を持っていたと思いますが」 

「三職よりも杠城に拠る新見氏や塩山城に拠る多治部氏のほうが軍事力は上だろう。それに、肝心なことは三職、 名主、百姓、国人、地侍の結束だよ。やはり、連署筆頭 の「せちおか名」は新見氏か多治部と裏でつながっていたはずだ」 

「それも司馬遼太郎の説ですか?」

「いや、司馬遼太郎はそこまでは言っていないが、『新見庄ー生きている中世』や『新見市史』を何度も繰り返して読んで推理すれば、そう結論せざるをえない。寬正二年の土一揆の結果、東寺は新見庄直務代官として祐清ゆうすけを新見庄に派遣した。これは土一揆の要望通りだから、 めでたし、めでたし、と思いきや、祐清が年貢のとりた てを熱心にやりすぎて、名主・百姓とのトラブルが生じた。寛正四年(1463年)七月、祐清は年貢の供出きょうしゅつ(売り渡す)を渋る節岡名を召し放ち、正分名主くさわけみょうしゅ(荒地を開墾した村)豊岡を上意(上の命令)といって成敗したのだ。

その報復として、節岡名は、地頭方にある豊岡の親類、谷内と横見と相談の上、寛正四年八月二十五日の昼過ぎ、祐清を殺したという。この直務代官殺しには謎がある。おそらく新見氏か多治部氏が蔭で糸をひいてはずだ」

「・・・・・」 

「いずれにしても、これが足利幕府の管領支配体制をゆるがす大事件として、全国的に注目をあびた。おまえさんが見つけてきた「備後国人衆十八人の傘連判」についていえば、新見庄土一揆の起請文で筆頭連署人だった節岡名が直務代官祐清によって処分されたのを毛利元就が他山の石(知徳を磨く助け)として、からかさ連判状のかたちを採用したと推理できる。からかさの骨のように円形に名前を書いて誓約のしるしとしておけば、誰が首謀者かわからないから都合がいいと思ったにちがいない。抜け目のない奴だよ、毛利元就は」

「はぁ、そうですか」。私はおそれいって、隠居の解説を拝聴するしかなかった。


4)新見庄土一揆

隠居のおかげで、私は新見庄土一揆に深入りすることになった。といっても、本格的に中世新見庄の研究にとりくもうという志を抱いたわけではない。せめて隠居の話相手をつとめることができればよいというささやかな望みである。

とりあえず、『新見市史』と『新見庄―生きている中世』のほかに、司馬遼太郎『箱根の坂』、鈴木良一『応仁の乱』(岩波新書)、永原慶二『日本の歴史10上の時代』(中央公論社)、石井進編『中世の法と政治』(吉川弘文館)を読んだ。もともと複雑で、わかりにくい話である。一度や二度、読んだだけでは新見庄土一揆の全貌をつかみにくいが、ごくおおざっぱに、私なりに理解したことをまとめると次の通りになる。

まず、中世のこの時代のことは、人名や年号になじみがなく、頭に入りにくいが、なんとかガマンして覚えるしかない。 次に、守護しゅご地頭じとう荘園領主しょうえんりょうしゅ(東寺)の関係が複雑に入り組んでいて、わかりにくい。新見庄土一揆は代官に安富やすとみ氏の暴政を東寺に訴え、又代官の大橋氏を追放したという。

ところが、安富氏は備中守護細川氏の被官ひかん(家来)ではなく、阿波讃岐あわさぬき(徳島、香川)守護細川氏の被官ーーつまりよそものである。なぜ備中守護細川氏ではなく、阿波讃岐守護細川氏の被官が新見庄の代官になっていたのかがよくわからない。

また、新見庄土一揆で、名主、百姓が結束し、代官に対抗したと伝えられている事件が暦年でいうと、寛正二年(1461年)と文明元年(1469年)の二度起っている。いずれの場合も江原八幡宮こうばらはちまんぐうで一味神水をくみかわし、大鐘をつき鳴らしたというが、これもまぎらわしい。

 同じパターンの繰り返しのようだが、状況はまったく違う。寛正二年(1461年)の場合には名主・百姓が細川氏の代官安富氏の又代官大橋を追放し、新見庄を東寺の直務じきむ(直接支配)とせよという要求をかちとることにつながった。 

一方、文明元年(1469年)の場合には管領細川氏(細川氏の本家)が、新見庄における東寺の寺領をとりあげて、幕府の御料所ごりょうしょ(天皇や幕府直接支配)とし、新しい代官の寺町又三郎てらまちまたさぶろうを派遣しようとしたところ、土一揆側が新代官の受け入れを拒否した。これは足利幕府及び管領細川氏に対するあからさまな反抗であり、敵対行為だ。

この年の土一揆について、司馬遼太郎は小説『箱根の坂』で北条早雲の視点から次のように描いている。

 (そういう世なのだ) と、早雲が突きとばされたような思いで感じたのは、 応仁三年が、その四月に年号がかわって、文明元年 (1469年)になった年の九月のことである。

事変は、備中国(岡山県)でおこった。備中は伊勢氏の所領のある国だけに、早雲の関心もふかい。備中国の新見庄は古来、大きな地域だったが、ここの村々がことごとく団結し、「そう」(百姓の自治組織)を組み、守護細川氏の命令をはねつけてしまったのである。

守護細川氏は、早雲に有縁うえん(仏の道に縁のある)の備中伊勢氏に鎮圧を命じたが、伊勢氏にもその力がなく、伊勢氏は寺町又三郎という者に代官をたのみ、軍勢をひきいて新見庄に進入させようとした。 

が、惣の結束は固かった。この惣は、いくつかの地頭に分割統治されていたが、そのなかに京の東寺があった。東寺のみが、租税が安かった。それによって新見庄の「惣」みずからが、地頭は東寺だけだときめた。

 東寺より外(ほか)、地頭二もち申まじく候。

と惣中の男という男が一人のこらず「惣」の惣社ときめた八幡宮にあつまり、この旨「一味神水いちみしんすい」した。心を一つにする旨、神水を飲んでちかったのである。そのとき、大鐘をつき鳴らした。

 結局は「惣」が勝ち、この「惣」の代表格である多治部氏や新見氏などの国人の合議体制が支配権をにぎったのである。

僭越ながら、最後の二行については補足説明が必要だと思う。「惣」が勝ったといっても短期的な勝利にすぎない。結局、「惣」は細川氏によってつぶされてしまった。

翌々年の文明三年(1471年)には幕府は政所執事まんどころのしつじの伊勢氏に新見庄領家方を預け、伊勢貞固いせていこを代官、多治部雅楽次郎たじべががくじろうを又代官に任命し、多治部雅楽次郎が新見庄の年貢を取り立てるようになったからである。

また、「惣」の代表格である多治部氏や新見氏などの国人の合議体制が支配権をにぎったというのは史実として認められているわけではなく、今のところは司馬遼太郎の仮説にすぎないと思う。私が調べたかぎりでは「東寺百合文書」にはそんな記述はないし、歴史学者の誰もそうは言っていない。この辺のいきさつについて、鈴木良一『応仁の乱』(岩波新書)では次のように説明されている。

それにしても、たかが一つの荘園に、細川勢ともあろうものが、なぜこれほどまで手をやいたのか。そこのところがどうもよくわからないが、いずれにせよ新見一荘に独立の小世界を建設するなど幻想にすぎなかった。文明三年(1471年)六月、御料所として伊勢貞国に預けられ、近くの多治部が接収のため入ってきた。

やはり細川が策動さくどうし、山名方に近かったらしい多治部を味方に引きいれるため、伊勢を表向きの代官にして、多治部に実権を与えたのであろう。かれを迎えた荘官・百姓は分裂、ついに屈服した。

いくらかたく団結していたといっても、むろん内部対立はあった。三職・名主百姓・隷属農民れいぞくのうみん(従属農民)の基本的対立があらわになるよりもまえに、三職どうし、名主、百姓どうしの対立が表面にでた。領主直務主張の急先鋒きゅうせんぽう(まっさきに進む)は金子衡氏で、東寺の直務代官祐清に協力的であったらしく、祐清の死後代官の実権をとっており、その点で宮田家高・福本盛吉あわなかったし、名主百姓に反感を持たれたであろう。

同じ荘民でも「奥」部落がもっとも闘争的で、代官祐清に対する反感も強く、そこの名主豊岡は地頭方の名主とくんで、ついに祐清を殺したが、領家(東寺)方の名主百姓は地頭方の名主百姓の挑戦だとして、地頭方の政所を焼討ちした。

代官祐清の殺害は、つまりは領主権力にたいする挑戦であったが、結果は名主百姓の対立を深めることになったのである。

 「一味神水の結束を続けていれば、新見庄は後の山城国一揆、加賀国一揆、さらにはフランス革命のようになったかもしれないのに惜しいことをしましたね」と私はつぶやいた。

 「いくらなんでも十五世紀の日本でフランス革命は無理だよ。もしかしたら山城国一揆や加賀国一揆のように <百姓の持ちたる国>が実現したかもしれないがね。 まあ、管領細川氏をあわてさせただけでも、新見庄土一揆 はよくやったといえる」と隠居は悟りきったようにいう。 

「惣の指導者は三職の金子衡氏だったようですが、 わからないのは金子衡氏と新見氏、多治部氏との関係です」

「多治部氏は国人だから地元の状況がよくわかっている。 名主、百姓の一部をかなり掌握していたと思うが、それは新見氏も同じだ。では、文明三年(1471年)に新見氏ではなく、多治部氏が新見庄又代官に起用されたのはなぜだろう」

 「さあ、どうなんでしょうね」 

「それを調べて、報告してくれ」

 また宿題を出されてしまった。私だって結構忙しい日々を送っているのだが、隠居は私がよほどヒマをもてあ ましていると思っているらしい。


5)新見氏と多治部氏

備中三十六氏といわれる国人のなかで、新見氏は杠城 、多治部氏は塩山城を拠点とする備中の有力国人だった。杠城は現在の新見市上市、塩山城が新見市熊谷で、両城の距離は約13キロ。 国人とは在地領主という意味で、幕府や守護、荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力である。

新見庄は地頭方と領家方に分かれ、さらに国衙方こくがかたというのもあった。 新見氏と多治部氏などの国人は、もともと地頭方の代官であり、備中守護細川氏との間で土地の支配権を折半していた。新見庄における地頭方と領家方との勢力分布については、明徳二年(1391年)の時点で、新見庄は東西あわせて年貢だけで千二百貫の地といわれ、そのうち領家方(東寺領)は三百七十貫、地頭方は八百三十貫だったという。

この計算では、国衙方がゼロになってしまうが、とりあえず、国衙方は地頭方にふくまれるとして考えると、地頭方が約三分の二を確保しており、領家方(東寺領)は三分一以下でしかない。しかも、応永年間には請負年貢額が一二〇〜一五〇貫ていどに減少し、さらに嘉吉元年(1441年)以降は代官の安富智安が契約額一五〇貫さえ無視して、滞納を続けたという。

地頭方の八百三十貫のうち、新見氏と多治部氏がどの程度を押さえていたかはわからないし、どちらが優勢だったかもわからない。しかし、文明三年(1471年)に新見庄又代官に抜擢されたことにより、この時点では多治部氏のほうが優勢になったとはいえる。

「なぜ、多治部雅楽次郎が又代官に抜擢されたかは、応仁の乱との関連で考えざるをえません。文明元年(1469年)の土一揆と二年前にはじまった応仁の乱とは因果関係に注目する必要があります」と私は自分の推理を述べた。

「その通りだ」と隠居はうなずいた。やっと気がついたかといいたそうな顔をしている。

「よく考えてみると、司馬遼太郎の仮説のように、多治部氏や新見氏などの国人の合議体制が〈惣〉の支配権を握ったとすると、多治部雅楽次郎の新見庄又代官就任は〈惣〉への裏切行為になります」

「その仮説だがね。多治部氏と新見氏は国人(在地領主)だが、一族のなかには地侍が何人かいて、地侍は土一揆に加担していたと考えれば仮説が成立する」

「国人としての支配者の顔と地侍としての百姓の味方の顔を使い分けていたと考えればいいのですね」

「つまり、多治部氏は又代官就任により地侍としての顔をかなぐり捨てた。一味神水で結束した名主、百姓を裏切り、同盟者の新見氏も三職も裏切って、自らの栄達を はかったのだ」

「しかし、その仮説を証明する史実はありません」

「『多治部太平記』も探す必要がありそうだな」と隠居は笑い、「おまえさんはもっと応仁の乱の歴史を調べたほうがいいよ」と付け加えた。


6)応仁の乱

応仁の乱のはじまりは応仁元年(1467年)、〈ヒトノヨムナシ〉の年。日本史のなかでもあまりなじみがなく、できれば目をそむけて通りたいが、隠居の話し相手としてはそうもいっていられない。新見庄と関係のありそうな主な出来事をかいつまんでおさらいしておくことにする。

戦乱のきっかけとなったのは足利将軍家の家督争い、それに将軍を補佐する三管領のうちの畠山氏と斯波氏しばし家督争いだが、社会的背景には凶作と飢饉があった。各地から飢民が流れ込んでくる京都では約八万人の死者で 賀茂川がせきとめられるほどの惨状だったという。

さらには新見庄土一揆のような<惣>の出現も室町幕府の屋台骨をゆるがしかねない事態だ。応仁の乱では、 細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が天下を二分して戦ったが、細川勝元の戦略には、土一揆対策もふくまれていた。

新見庄は伯耆、備後、美作と境を接しているが、伯耆、 備後、美作は応仁の乱の当時、山名氏の勢力圏にあった。 西軍の山名氏にとりかこまれたかたちである。 <惣>が山名氏と手を結べば、東軍の細川氏にとってはたいへんなことになる。 

そこで、細川勝元が打った一石二鳥の妙手が、多治部氏の新見庄又代官起用である。司馬遼太郎の仮説のように、新見氏と多治部氏が江原八幡宮の神水をくみかわした一味に加わっていたと仮定して、一方の雄である多治部雅楽次郎を又代官に起用すれば、土一揆の勢力は分断されるし、多治部氏の軍事力を西軍との戦闘に振り向けることができる。

では、多治部氏が京都へ出陣したとして、細川氏のどの軍勢に属したのだろうか。それはおそらく備中守護細川勝久の陣営である。 備中守護細川勝久は東軍の有力な武将だったが、富小路通四条下ルにある勝久の邸は開戦早々炎上してしまった。その後の具体的な戦闘の記録はよくわからないが、 多治部氏が勝久軍に加わって西軍と戦い、軍功をあげたのかもしれない。

「おそらく多治部雅楽次郎の新見庄又代官任命は応仁の乱の論功行賞ではないかと私は推理します」と私が言うと、

「それはあり得ることだが、たとえ論功行賞だったとしても、七年後の文明十年(1478年)には取り消されている」と隠居は指摘した。

文明十年は東軍と西軍が和睦し、応仁・文明の乱が終息した年である。和睦の条件の一つとして東寺への新見庄寺領の返還があった。東寺は山名宗全にかわって西軍の総大将になっていた大内政弘おおうちまさひろが本陣として使っていた関係から西軍が新見庄の寺領の東寺への返還を和睦の条件にしたのだろう。

その結果、多治部雅楽次郎は又代官を罷免され、あらたに山田具忠やまだともただ(備中中井郷の国人。山田方谷の先祖か?)が代官に任命された。

「ひどいですね。応仁の乱で命を的にして戦い、新見庄土一揆つぶしの実績をあげ、土一揆の同志たちからは裏切者の汚名を浴びたかもしれないのに、何の落度もなく又代官の職をとりあげるとはけしからん」と私は多治部氏のために憤慨した。

「乱世ではそんな朝令暮改ちょうれいぼかい(朝命令をだして夕方に変える)の例はざらにあるよ」と隠居はこともなげに言った。人間も甲羅を経て(年齢を重ねる)後期高齢者になると、喜怒哀楽の感情からも卒業するのかもしれない。

多治部氏は抵抗した。泣く子と地頭には勝てぬといわれるが、多治部氏は地頭だから泣き寝入りするわけにはいかない。新代官の山田具忠は多治部氏を懐柔したり、牽制したり、いろいろと手をつくして代官職執行につとめたが、成果をあげることができなかった。

これでは東寺にはいつまでたっても年貢が入ってこない。おそらく多治部氏が百姓からとりあげた年貢は備中守護細川氏に納めていたとも考えられる。そんな状態が延徳三年(1491年)頃まで続いた。放置しておけば幕府の威信にかかわる問題だ。 

そこで、管領細川氏はいよいよ多治部氏を討伐する決意をかためた。ところが、同じ細川氏でも備中守護家は応仁の乱からのいきさつから多治部氏を支持せざるをえない。畠山氏や斯波氏が家督争いで分裂したのに対してそれまで一枚岩だった細川氏が、京兆家(管領家)と備中守護家との間で争うようになった。

「これが応仁の乱が地方に波及した戦の一つで、備中大合戦と呼ばれるものです」と私は解説した。

「なるほど。そこで、多治部氏に対抗する国人の代表と して新見氏が浮上してくる。いよいよ『新見太平記』 佳境にさしかかる⋯」

「まあ、もう少し待ってください。『新見太平記』どころか、そもそも備中大合戦の史料が見つからないのです。」


7)備中大合戦

備中大合戦――大合戦と呼ばれているわりには有名な戦ではない。一日の戦死者が五百人も出たという。当時として大合戦だが、一世紀後の関ヶ原の戦とは比較にならない。

関ヶ原では東軍と西軍あわせて二十万人が死闘を演じ、約八千人が戦死している。 関ヶ原の戦で活躍した英雄・豪傑の中には講談、小説、 映画、ドラマでおなじみの人物も多いが、備中大合戦の英雄・豪傑は誰一人として知らない。

しかし、それは英雄・豪傑がいなかったからではない。講談や小説のタネ本がなかったからだ。だから『新見太平記』を探す必要 があると隠居はいう。しかし、いくら探してもないものはない。中世のこの 時代、備中の歴史を伝える正確な史料は『東寺百合文書』以外にはほとんど存在しないのかもしれない。中世の農村女性の直筆書状として唯一現在まで伝わっているとされる「たまがき書状」も『東寺百合文書』にふくま れていたおかげで今日まで伝わったものである。 

仕方がないので、『新見市史』から備中大合戦に関する主な出来事の記述をまとめて、お茶をにごすことにした。

メモの内容は次の通り。
1.延徳三年(1491年)十月二十一日、備中守護代庄伊豆守元資びっちゅうしゅごだいしょういずのかみもとすけ備中守護細川上総介勝久びっちゅうしゅごほそかわがずさかつひさとの軍勢が、備中国南部川辺郷で大合戦をした。同じ頃、新見庄でも弓矢合戦があった。 

2.備中大合戦の結果は、守護細川勝久の側が五百人ばかり討たれたが、翌延徳四年(1492年) 三月には庄氏に反撃して、敗北させた後、六月になってから和親した(「蔭涼軒日録」・「史料総覧」第八)。この合戦で備中国中は大いに乱れ、新見庄近傍きんぼう(近い範囲)の国人の多くが没落した。

3. 明応三年(1494年)十二月、細川政元ほそかわまさもとは足利幕府の管領職就任を機に、備中国内の被官人らに対し、備中守護細川勝久による右被官人知行分ちぎょうぶんの押領企図を許すまじとの警告を発した(「細川政元書状案」・「新熊野古文書」・『岡山県史編年史料編』所収)。新見与次郎にいみよじろうも政元の被官人の一人だが、一方備中守護被官人と考えられる者に多治部徳光・伊達・石蟹いしがの諸氏がいたようだが、たしかなことはわからない。 

4.明応五年(1466年)春には、薦ヶ巣城主とびがすじょうしゅ徳光兵庫頭とくみつひょうごのかみが、多治部氏と同盟を結び、備中守護細川勝久の後援のもとに、地頭新見国経にいみくにつねの領分を犯し、争いを生じた。 文亀元年(1501年)三月六日には東寺が新しく新見(藤原)蔵人国経を領家職代官とした。

そのほか、石井進いしいすすむ編『中世の法と政治』のうち末柄豊 すえがらゆたか「細川氏の同族連合体制の解体と畿内きない(特別区域)領国化」という論文に「備中大合戦で細川京兆家(守護代を後援)と備中守護家とが事実上の敵対関係に入った原因は、備中守護家被官の国人による同国内の京兆家被官の所領に対する押領」という指摘があったので、それを付記しておいた。

「わざわざメモまで用意してくれてありがとう、手間をかけたな」と隠居はねぎらってくれたが、表情はぶすっとしている。「なんだ、新しい材料は何もない。みんな わかりきったことばかりだ」と腹の中では思っているのかもしれない。 

「備中大合戦の原因は、備中守護家被官の国人による同国内の京兆家被官の所領に対する押領という末柄豊氏の見解は、具体的にいえば、多治部氏による押領をさしていると思います」

「末柄豊氏がそのように断定しているのか」 

「それは学者的良心から多治部氏とか新見氏とか国人の名前はあげておられませんが、前後関係から多治部氏押領という解釈でよいと思います」

「残念ながら、史実は小説家の大胆な仮説と学者の慎重な考証との間で宙に迷っているようだ」

 「たいへん勉強になりました」と私は言った。「少なくとも私には『新見太平記』の登場人物のイメージが浮か びあがってきたように思います」 「祐清、たまがき、福本盛吉、宮田家高、金子衡氏、多治部雅楽次郎・・・」

「主役は新見国経ですね。国経は文亀元年(1501年) に新見庄領家職代官に任命されていますが、備中大合戦で武功が認められたからではないでしょうか」 

「だが、国経がいつ、どこで、どんな武勲をあげたかはこのメモからはわからない」 


8)新見国経

史実が乏しければ、想像力をふくらませて、限られた史実の断片をつなぎあわせ、物語をでっちあげるしかない。 私は新見国経にいみくにつねを主人公とする大河小説の筋を夢想した。 

寛正二年(1461年)、江原八幡宮境内で神水をくみかわし結束を誓った土一揆の群の中に杠城の御曹司、当時十六歳の若き国経がいた。国経は塩山城の多治部雅楽次郎と意気投合し、義兄弟の契りを結ぶ。ともに力をあわせて足利幕府の勢力の及ばない惣国を建設しようと誓いあったのである。 

惣国の主には田所の金子衡氏かなごうひらうじをかつぐことにした。国経も雅楽次郎も大きな野心はあったが、自分から国主になりたいというわけにはいかない。金子衡氏を『三国志』の劉備玄徳としてかつぎ、自分たちは関羽と張飛の立場に甘んじる。そういうかたちで結束し、土一揆を成功させた。 

金子衡氏は「かかる日本国乱世の時分は、田舎も京都も、腕を以てこそ、所をも身をもち候時分に候」とうそぶき、意気軒昂いきけんこう(意気込んで奮い立つ)たるものがあったが、応仁の乱で多治部雅楽次郎に離反され、没落する。

多治部雅楽次郎は新見国経とも義絶ぎぜつ(縁を切る)した。義兄弟を誓った二人は、共に天を戴かぬいだたかぬ(殺さず)宿敵になってしまう。ほんとうの原因は何か?もしかしたらたまがきをめぐる恋のさやあて(意地立のケンカ)かもしれないが、たまがきの思幕しぼの対象は祐清であり、国経や雅楽次郎は相手にされない。

文明三年(1471年)、多治部雅楽次郎が新見庄又代官に抜擢され、新見国経に差をつける。国経は「おのれ雅楽次郎め!今に見ておれ」と口惜しがったが、しばらくは臥薪嘗胆がしんしょうたん(苦労を重ね)で、我慢するしかない。

文明十年(1478年)、応仁の乱が終結し新見庄の寺領が東寺に返還された結果、多治部氏は新見庄又代宮を罷免されたが、新しい代官の山田具忠に従わず、新見庄で押領を続ける。 延徳三年(1491年)備中大合戦はじまる。多治部氏は備中守護細川勝久方、新見氏は守護代庄元資に加勢して戦う。

延徳四年(1492年)、両軍が和睦して、備中大戦争は一応、終息したが、その後も小競り合いが続いた。文亀元年(1501年)、新見国経が新見庄領家職代官に任命された。

「このようにみると、備中大合戦をきっかけとして、新見国経が頭角をあらわし、多治部雅楽次郎よりも優勢になっていることがわかります。文亀元年(1501年)国経への新見庄領家職代官任命は、応仁の乱の論功行賞で文明三年(1471年)に多治部雅楽次郎が新見庄又代官に任命された事実と対応します」

「論功行賞を与えたのは誰だ?」

「文明三年(1471年)に多治部雅楽次郎が新見庄又代官に推薦したのは、備中守護細川勝久だったのに対して、文亀元年(1501年)の新見国経の代官就任は、典厩てんきゅう家の細川政賢ほそかわまさかたの推薦により管領細川政元が任命したものでしょう」 

「典厩家は細川氏の傍流ぼうりゅうにすぎない。細川政賢にそんな影響力があったのはなぜだ」

「その点については調べました。応仁の乱で東軍の総大将だった管領細川勝元は文明五年(1473年)に死に、当時八歳の細川政元ほそかわまさもとが家督をつぎましたが、八歳の子供では管領職をつとめるのは無理です。そこで、典厩家の細川政国ほそかわまさくにが後見人となり、政国の死後は息子の政賢が管領細川政元を補佐しました」

「ということは、実質的には細川管領家は典厩家の政国と政賢が支配する時期があったのだな」

 「ええ、それが新見国経に幸いしたのだと思います」 

「ふむ、その推理はあたっているかもしれないが、おまえさんの大河小説の筋書きには致命的な無理がある」 

「そうでしょうか」

 「国経が死んだのはいつだ?」

 「天文十一年(1542年)です」

 「すると、寬正二年(1461年)の土一揆で、十六歳だったとすれば、没年は九十七歳という計算になる。戦国時代にそれほどの長寿者がいたとは考えられない」


9) 細川の落人

新見氏は尼子の落人という先入観がこれまでの私にはあった。永禄九年(1566年)に月山富田城が落城して尼子氏が滅亡すると、その庇護ひご(庇って守る)を失った新見氏もまもなく滅んだという歴史的事実からはそう思わざるをえない。

しかし、いろいろ調べてみると、新見氏はむしろ細川の落人という気がしてくる。細川氏の庇護、もっと正確にいえば、細川典厩家の庇護を失ってから勢いが衰えているからである。

永正十四年(1517年)ごろ、成羽なりわ三村宗親みむらむねちかが新見庄へ攻め入って、西方を焼き払った。このとき、多治部氏も三村氏とともに宿敵新見氏を攻めている。新見氏は国経の弟侯三郎こうざぶろう善成寺ぜんしょうじで討ち死にしたほか身内が次々と殺され、西方は全面撤退、東方は杠城まで退却したと いう。

このときの管領は細川高国ほそかわたかくにだが、高国が新見氏を支援した形跡はない。すでに新見氏は細川氏から見放されていたのではないだろうか。高国は細川氏庶流の野州家の出身だが、管領細川政元の三人の養子の一人になり、家督争いで勝ち残ったしたたかな男である。

 永正四年(1507年)、いわゆる「永正の錯乱」で管領細川政元が湯殿ゆどので家臣に暗殺された。それ以後、細川管領家(京兆家)の家督は永正四年から五年にかけて澄之、澄元、高国とめまぐるしく入れ替わった。

 永正五年(1508年)六月、細川高国が右京大夫うきょうのだいぶ・管領となり、大内義興おおうちよしおきが左京大夫《さきょうのだいぶ》・管領代となって、細川・大内の連立政権が成立している。その後、新見氏の庇護者だった典厩てんきゅう家の細川政賢ほそかわまさかたは永正八年(1511年) 船岡山の戦で細川澄元と呼応して細川高国・大内義興と 戦ったが、敗れて戦死した。新見氏衰亡の始まりはこの船岡山の戦だと思う。

「というわけで、新見氏はこれから尼子の落人ではなく、 細川の落人と呼ぶことにしましょう」と提案すると、 

「細川の流れは多すぎて、どこへどう流れているのかわ かりにくい。系譜を少し整理してくれ」とまた、宿題を課せられた。 

まことにわずらわしいことだが、細川氏の系譜もある 程度は頭に入れておかなければならない。

 1)京兆家(管領家)
頼春→頼之→満元→持之→ 勝元→政元→澄之(養子) →澄元(養子) →高国(養子)

2)備中守護家 
頼春→満之→頼重→氏久→ 勝久→之勝(養子)→之持・・・政春(高国の父) 

3)典厩家 
持賢→政国(養子)→政賢→ 尹賢→氏網 

4)野州家
満国→持春→教春→政春→ 晴国(政春の子高国は政元の養子 となり、京兆家をつぐ)

5)阿波讃岐守護家
賴春→詮春→義之→満久→ 持常→成之→政之 →之勝(義春)

6)その他
(両和泉守護家、淡路守護家、奥州家など) 

「名前を並べただけの簡単なメモですが、これでいいで しょうか」 

「ないよりはましだろう」

「少し説明しますと、多治部氏は備中守護家の被官、新見氏は典厩家の被官、それに新見庄代官をつとめた安富智安は阿波讃岐守護家の家老でした」 

「そこへ、野州家の高国が割って入りこみ、本家の家督を継いで、管領になったというからややこしい」 

「野州家は備中淺口郡あさくちぐん分郡守護ぶんぐんしゅご国ではなく、郡の守護)だったそうですから、 備中とは縁があります」 

「新見氏は野州家とよしみを通じることはできなかったのだろうか」

 「よくわかりませんが、親亀がこければ子亀もこける、細川典厩家がこけると新見氏もこけるという関係だった のではないでしょうか」

「いつまでも忠実な犬に甘んじていてはいけないという教訓だ」

「寄らば大樹の蔭(頼りにするのなら、大きな勢力のあるものを選ぶのが得策である)という教訓もあります」 

「そんな消極的な姿勢では、手伝い戦にばかり駆り出されて、戦力を消耗し、自滅してしまう。そう考えて自立への道を歩みはじめたのが安芸の毛利元就だ。新見国経も新見庄土一揆のときのような大きな志をたて、自らが独立した大勢力になろうとするべきだった」

 「今さらそんな繰り言(言ってもしょうがないこと)をいってもどうにもなりません」 

「ところで、平成五年(1993年)に総理大臣になった細川護熙ほそかわもりひろは細川氏のどの流れだ?」

「和泉両(大阪南部)守護家の末裔です。備中とは縁がありません」


10)小堀三間城 

その後、ひょんなことから、備後にも新見氏の城址があるという資料がみつかった。有栖川宮記念公園の中にある東京都立中央図書館の閲覧室には市町村が編集した郷土史が書架しょかにずらりと並んでいる。あらためて『新見市史』を読んだついでに周辺の資料を眺めているうちに 『上下町史』が目にとまった。

その『上下町史』に小堀三間城という新見氏の居城が紹介されている。小堀村の粗高あらだかは六百二十一石あるいは 『広島県七百九十五石だったともいう(『西備名区』『広島県史』『六郡史』)。

府中市上下は田山花袋たやまかたいの小説『蒲団』の主人公横山芳子のモデルといわれる岡田美千代の出身地で、私は以前から興味を抱いていた。小説では横山芳子は新見出身となっている。花袋が上下出身の主人公をなぜ新見出身としたかについてはさまざまな説がとなえられているが、花袋は福山から人力車に乗って上下を訪れたことがある。

岡田美千代の父親と書画骨董、歴史伝説などについて四方山話よもやまばなし(雑談)をしているうちに、もしかしたら新見氏の居城が上下にあったことが、話題に出てそれが花袋の記憶に残ったのではないだろうか。

 「『蒲団』のモデルに関する新説として注目されるかもしれません」と私は強調したが、隠居は興味を示さない。

 「そんなことより、新見氏について『上下町史』には何と書いてあるか、早く報告しなさい」 

『上下町史』にも例の「備後国人衆十八人の傘連判」の引用があり、「同傘連判状には小堀三間城主新見能登守元致にいみのともりもとまさも名を連ねている」として、新見氏について次のように解説されている。

 新見氏について、『姓氏家系大辞典』によれば、出自を定かにできない。
『備中府志』(巻二)・『西備名区』(巻五五)によれば、足利家より新見四郎兵衛尉祐信にいみしろうひょうべいゆうすけが備中にて領地を給与され、井村の楪の城(楪城。現新見市上市)に住したことに始まるとしているが、『角川日本地名大辞典(岡山県)』では、祐信は治承四年の源頼政の挙兵に呼応して城を築いたとある。

ついで、『西備名区』では、もと備中新見城主 (現岡山県新見市)であった新見能登守親員ちかかずが明応年中(1491年-1502年)、成和河村と合戦をした後、小堀村に移り、城を築いて(小堀城)住したという。

親員の嫡男の六郎親清ちかきよは新見へ帰住し、次男の左衛門尉春信はるのぶは父の小堀城を継承し、大内家に従い、のち毛利の旗下に入り、尼子勝久・山中鹿之助幸盛播州上月城の合戦に大功をあげ、尼子方との雲州陣には船手の将をつとめた。

三男の能登守は尼子方に従い、雲州へ移った。春信の子息太郎左衛門尉は関ヶ原の合戦後に徳川家に仕え、旗本の新見能登守は太郎左衛門尉の子孫といわれている。『備中府志』によれば、天正年中(1573年-1592年)に、春信は毛利家に属して退転したとあることから、上下の地から新見氏は退去したことになる。 

該当箇所のコピーを読み終わったところで、隠居は渋い顔をした。その理由は新見氏一族の人名が『上下町史』と『新見市史』と照合できないからだろう。たとえば、明応年中(1491年-1502年)に小堀村に城を築いたとされている新見能登守親員の名前は『新見市史』にはない。

明応年中というと、備中大合戦の頃である。その頃、 杠城を拠点として大合戦に参加したのは新見藏人国経だから、新見能登守親員は新見藏人国経でなければならない。

もし国経と親員が同一人物だとすれば、彼は備中、備後の二城の主ということになる。備中大合戦には安芸の毛利弘元(元就の祖父)も参戦しているが、その時点で は新見氏の戦力は毛利氏に匹敵した。もしかすると天下 をとることも夢ではなかったのではないか?

「せっかくの情報だが、出典とされている『備中府志』 や『西備名区』は一級史料とみなすことはできないだろうね」と隠居はぼやいた。

「『西備名区』は文化五年(1809年)刊、著者は馬屋原重帯まやはらしげよ(1762年-1836年)、『備中府志』は元文二年(1737年)刊、著者は川上郡平川親忠ひらかわちかただ。かなり後代の編者が語り部による言い伝えを文書にまとめたものでしょう」

「語り部の記憶は時代を経るにつれて人名などが不たしかになり、もとの名前とは違うものになる」

 「しかし、人名はともかく、小堀三間城という新見氏の居城址があることはまぎれもない事実でしょう」 

「では、早速、備中備後広域古城調査団を編成し、杠城と小堀三間城の城址を調査してきてくれ」


11)長牛之助

広域古城調査団の編成とは話が大げさになってきたが、私には調査団に参加して行動するほどの気力はない。とりあえず隠居には適当な返事をしておいて、催促されたら「小堀三間城の調査なら新見市の地元関係者に依頼しておきました。調査結果の報告は今しばらくお待ち下さい」と答えることにした。

無責任のそしり(誹謗)をうけるかもしれないが、仕方がない。その代わり、隠居にはもう一つのささやかな発見について報告した。それは新見と上下を結びつける歴史的人物の存在である。

その人物の名前は長牛之助(丑之助)という。牛之助については以前に、幕末の備中松山藩で財政改革に成功し、老中板倉勝静を補佐した山田方谷の経歴を調べた時、方谷の母方の祖父信敏のぶとし十代の祖であることを確認している。

牛之助はすごう谷(新見市菅生西谷)の豪族で、鉄の採掘を行い、多くの富を蓄えていたと『新見市史』に記されている。また、『新見市史』に添付された「西谷氏家系図」によると、牛之介の先代信治は、新見庄地頭職新見氏一派新見玄蕃丞の被官として菅生の地をあてがわれ、これを牛之介に譲った。牛之助は天正六年(1578年)五月には播州上月城の合戦に秀吉方として参陣し、武功を表して感状を授かった。その後、長氏を西谷氏に改名し、西谷氏は江戸時代には菅生の庄屋をつとめたという。

さらに、長牛之介の父、長野又左衛門信治のぶはるの祖父は長大蔵左衛門元信となっている。つまり、牛之助の曾祖父が長大蔵左衛門元信だが、この元信は例の「備後国人衆十八人の傘連判」に連署した一人である。驚いたことに、上下の翁山城の城主だ。

翁山城は上下川の南岸、標高538mの翁山を城塞化した山城で、JR福塩線上下駅に近い。そして翁山城の北東約6・5メートルに小堀三間城がある。杠城と塩山城との間の約13キロの半分の距離である。これだけの近距離にあり、しかも、連判状に連署した同志だから、新見氏と長氏とは親密な関係を結んでいた可能性が強い。

とすれば、又左衛門信治は新見能登守親員(実は国経?)の嫡男の六郎親清(実は玄蕃丞?)が新見へ帰住するとき、上下から同行し、苗字を長野氏に変えて、新見氏に仕えたと考えられないだろうか?

小堀三間城の新見氏は傘連判状に名を連ねる長氏とは同盟関係にあり、また、信治が長氏の次男か三男あるいは庶流だったとすると、新見玄蕃丞が新見に帰住するとき、臣従を決意し、同行したと考えられないこともない。

「『西備名区』でいう嫡男の六郎親清はおそらく新見玄蕃丞でしょう」と私が自分の推理を述べると、隠居は、

「はて、そうかな?」と首をかしげた。「牛之助は播州上月城の合戦に秀吉方として参陣し、武功を表して感状を授かったというが、それが事実なら牛之助の主君、新見玄蕃丞も秀吉方で戦っているはずだ」

「その通りだと思います」 

「ところが、次男の左衛門尉春信(元致?)は播州上月城の合戦で、毛利方として大功をあげたという。兄弟が敵味方に別れて戦ったことになるが、どう考えればよいだろう?」

「それは戦国の世のならいです。関ヶ原の戦で信州上田城の真田昌幸の兄が徳川方の東軍に味方し、弟の幸村が西軍で戦った例を考えてくだい」

「新見国経には三人の息子がいた。三本の矢だ。そして 尼子にも毛利にも加勢し、どちらが勝っても家が存続するようにしたのに、生き残れなかった」 

「でも、左衛門尉春信の子息太郎左衛門尉は関ヶ原の合戦後に徳川家に仕え、旗本の新見能登守は太郎左衛門尉の子孫だそうです」 

「旗本の新見氏といえば、万延元年(1860年)の遣米使節けんべいしせつ新見豊前守正興しんみまさおきが有名だが、新見の読みは<にいみ>ではなく<しんみ>だよ」 

「それは旗本になるとき、<にいみ>の読みをわざわ ざ<しんみ>に変えたのではないでしょうか。左衛門尉春信は毛利方の武将ですから、徳川幕府に遠慮したのでしょう。菅生の長氏が西谷氏へ改姓したのと同じことだと思います」

「そうだろうか?」

「新見豊前守正興は旗本の三浦氏から養子に入っていま す。この三浦氏の先祖は美作勝山藩の殿様です。尼子氏全盛の頃から新見氏と三浦氏は深いつながりがあり、それが幕末まで続いていたのではないでしょうか」 

「新見氏が日米親善に貢献した可能性があるとは驚いた。 まあ、一つの仮説としては面白いが、歴史学会では相手 にされないだろう」


12)ゆずりは軍記

『新見太平記』を探す努力は、結局、徒労に終わった。調査打ち切りの了解をもとめると、隠居は一応、承諾したが、その代わり、大河小説を書いてくれと途方もない要求をした。 

滝沢馬琴たきざわばきんは二十八年かけて『南総里見八犬伝』全九十 八巻、百六冊を完成した。それに対抗して、『備北新見八牛伝』を執筆したらどうだ。時代はほぼ同じ頃だから参考になるだろう」と隠居はこともなげにいう。 

「無理ですよ、そんなこと」 

「近頃の若いものは、たるんでいる。チャレンジしよう という気概がない」 近頃の若いものといわれても、私はすでに老齢年金の受給者である。隠居に比べると若いことはたしかだが。 

「老眼で目がしょぼしょぼしているのに、今さら馬琴のように戯作三昧げさくざんまいというわけにはいきません」

 「馬琴は目が見えなくなってからでも口述筆記で執筆を続けた」

 「今どき、口述筆記なんか誰も引き受けてくれるものですか。かんべんしてください」 

「では、井伏鱒二いぶせますじ『さざなみ軍記』のようなものでもよいことにしよう」

「井伏鱒二の小説では『山椒魚』が私の若い頃からの愛読書ですが、『さざなみ軍記』はまだ読んだことがありません」 

「これを貸してあげるよ」。隠居は文庫本を渡してくれ「あまり長いものではないから、おまえさんでも書ける

「はあ」 

「兵乱に追われて、都を落ちのびた平家一門の衰亡を書き記した平家某という少年の日記で、その記録の一部を作者が現代語に訳して出すという形式になっている」

「なるほど、軍記を現代語に訳すという手口ですか」 

「永禄十年(1567年)、城を退いて流浪する新見氏 一族のうち国経の孫か曾孫にあたる十六歳の少年の日記という形式にするんだ。題名は『ゆずりは軍記』でよいだろう」 

「お引受するという約束はできませんが、一応、読ませていただきす」 自宅へ帰ってから、巻末の解説(河盛好蔵かわもりよしぞうによる解説)を読んで驚いた。『さざなみ軍記』は、昭和五年、作者の井伏鱒二が三十歳のとき、「逃げて行く記録」として最初の部分が発表されてから九年後の昭和十三年にようやく完成した。

しかも作者は作品の内容としては、戦陣にある少年が、心身ともに次第に成長して行く過程を精密に描くことを志し、それを表現する文体には、作者が遍歴して来た文体を意識的に再用する、言いかえれば少年の成長につれて作者の文体も成長して行くという困難きわまる技法を用い、この前人未踏の手法に見事に成功したという。とてつもなく悠長かつ壮大な話で、私には無理だ。 

誰か私の代わりに『ゆずりは軍記』を書いて、荒屋敷の隠居を黙らせてくれ。


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