見出し画像

【169日目】良い方向

ご隠居からのメール:【良い方向】

>なんだか色々と良い方向に行きそうだね。
ーーパンデミック体験中の身としては、なかなか楽観的な見方はできそうもないね。立木などの件については柚木脇治恵さんの電話番号を記して、直接話してくれと弟宛の手紙には書いた。

電話番号はお互いに知っているようだ。つまり、立木の件についてはすでに交渉していたが、具体的に進まないので、藁をもつかむ思いで長男の介入ないし調整を期待してオレに電話をかけてきたのが実情だったかもしれない。

>信谷さんの裏山は、昔から木々は生えていなかったのだろうか。
ーー杉やヒノキは生えていなかったと思う。はげ山ではないが、雑木林だった。


返信:【Re_良い方向】

信谷さんに息子さんがいて、長谷部のDNAが継がれていることは良いことだ。あの土地を継いでもらったら心強いけど、そんなわけにはいかないのかな。

先日、実家に帰ったときにも話したけど、友次郎さんと、イシさんに子が生まれず、津弥つねさんを養子にとったということは、大原氏に長谷部氏の血が流れているという可能性があるよね。

屋号が「おおはら」というのも偶然ではないはず。意味があって江戸時代に苗字の代わりに語った屋号だ。そんなことを考えながら伯耆の大原氏を調べると「大原安綱おおはらやすつな」という国宝の刀を作った山伏で刀工の名前がでてきた。

長谷部氏と大原氏の関係が繋がっているのは、我が家のご先祖様だけではないようで、いちばん古くは、長谷部信連と大原安連は、同じ時代に金持氏を頼り、金持神社に伯耆安綱を輩出したと言い伝えが残っている。

国宝「へしきり長谷部」をつくった長谷部国重くにしげと大原安綱は師弟関係の可能性があるかもしれない。

津江の日田市には、大原八幡宮があり、長谷部信連のぶつらの子、長谷部義連よしつらが大友氏の家臣として流れ着いたといわれる土地がある。長谷部氏は津江でも繁栄し津江、日田市にも高瀬村という名の村が存在する。

他にも、亀山社中に長谷部卓爾たくじという、海援隊に属した志士がいる。萩に転封となった毛利家・家臣の長谷部氏末裔かと思ったが、越前藩士のようで、調べると幕末にかなり活躍している。

その長谷部氏は、明治5年大久保利通が福井で主催した博覧会に大原安綱氏の刀を出品している。国宝級の刀を長谷部氏が持っているというのは、偶然だろうか。

最後に、見田氏も伯耆の鍛冶職人の刀工だ。大原氏と繋がっていてもおかしくなさそうだ。たたら製鉄のおかげであのあたりは、当時、日本有数の軍事産業拠点だった。

伊勢神宮に国宝刀「童子切安綱どうじぎりやすつな」を収めた安綱と、武勇で有名な信連が同じ伯耆日野に住んでいたのであれば、接点があったかもしれない。

なんの確証もない、こじつけ話ばかりだけど、こんなことを想像するのも歴史の面白いところだと思う。


<<<次回のメール【170日目】大原氏と長谷部氏

前回の話【より道‐56】歴史が刻まれる聖地_それぞれの「厳島神社」>>>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?