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”SEOBOK”な問いと向き合う

最近プロスピ2021を買ってその中にオリンピックモードがあるのでよくやるのですが、昨日もアメリカ相手に38対1で勝つことが出来て、実際こんな試合になったら世界中どんな反応をするのだろうと、よく分からない妄想をしております。

さて、今回は先日見た「SEOBOK/ソボク」という映画の感想をベースにして生き方について書いていけたらなと思います。直接的に仕事の話ではありませんが、その根本となる「生き方」について文章に出来たらなと思います。

SEOBOK/ソボク

映画館というあの特別感のある空間が好きで、わりとよく一人で映画館にいき映画を見るのだが、先日は「SEOBOK/ソボク」という韓国映画を見に行ってきた。見終わった後に「良い映画だったな、また世界が広がった。」みたいな感覚を得るために、あんまり知らない映画を予備知識なしで見に行くようにしている。今回はまさにその感覚を得ることが出来た。

余命宣告を受けた元情報局員・ギホン。死を⽬前にし明⽇の⽣を渇望する彼に、国家の極秘プロジェクトで誕⽣した⼈類に永遠の命をもたらすクローン・ソボクを護衛する任務が与えられる。だが、任務早々に襲撃を受け、なんとか逃げ抜くもギホンとソボクは2⼈だけになってしまう。危機的な状況の中、2⼈は衝突を繰り返すも、徐々に⼼を通わせていく。しかし、⼈類の救いにも、災いにもなり得るソボクを⼿に⼊れようと、闇の組織の追跡は更に激しくなっていく……。 ー「SEOBOK/ソボク」オフィシャルHPより

簡潔に言うと、「SEOBOK/ソボク」は死なないクローン人間を題材にした、「死」について考えさせられる映画だった。

死なないクローン人間・ソボクの場合、銃で撃たれたり、車に引かれたりと事故では死ぬが、それ以外の老いや病気、つまり寿命では死なないため、クローン人間として実験室に閉じ込められていれば永遠に死なないという状況であった。一方でそれを護衛するギホンという男は病気により余命宣告を受けており、死が目の前に迫っていた。この両極端な二人の男の対比によって「死」というものがよりはっきりと浮かび上がってきていた。

生きるとは?

「人は、生きたいから生きるのか?死ぬのが怖いから生きるのか?」

作中こんな感じの(記憶は曖昧なものなので一言一句正確ではない。)台詞が”SEOBOK”な問いとして突きつけられてくる。

永遠の命をもたらす存在が目の前にいるからこそ、人がなぜ生きているのか、生きたいと思うのかという問いが生まれ、シンプルに突きつけてくる。幸いにも平凡な生活を送ることが出来ているので上記のような問いは日常生活の中では出てこない。だからこそ真剣に向き合ってみたい。

作中の中での上記問いに対する解は「死という終わりが存在し、怯えるからこそ人は生きたいと願い生き続ける」というような内容だった(かな?)。だからこそ永遠の命をもたらすクローン人間・ソボクは脅威であると。

つまり、死ぬのが怖いから人は生きているというのだ。私はこの回答にはあまり納得がいっていない。「死ぬのが怖いから私は生きている」と思ったことがないからだ。もちろんそうした意図しない人間の本質的な部分に対する本作の問いかけかも知れないが、やはり腑に落ちない。

「生ぎたいっ!」

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漫画「ワンピース」の中に、考古学者のニコ・ロビンが世界政府に捕まり、それを仲間のルフィ達が助けにいくと、捕まっていたニコ・ロビンが助けに来てくれたルフィ達を目の前にして、「生ぎたいっ!」と叫ぶ名シーンがある。私は「SEOBOK ソボク」も見ていてこのシーンが頭の中に浮かんでいた。

もちろん「死」は常に身近に存在し、その恐怖と闘いながら生きているかもしれない。ロビンも捕まったままだったら後は死を待つだけという恐怖がそこにはあったのだろう。ただ、それ以上に助けに来てくれたルフィ達ともっと生きていきたい、一緒に海に冒険に行きたいという思いが「生ぎたいっ!」という言葉に表現されているのではないだろうか。(本当のところは尾田先生のみぞが知る。)ロビンはこの瞬間はまさしく、「生きたいから生きている」状態なのだ。

であるならば、「人は、生きたいから生きるのか、死ぬのが怖いから生きるのか」という問いは二者択一的に考えるのではなく、生きるという行為の持つ二面性を表現していると考えるべきなのではないか。

人は「死」という誰しもに訪れる終わりがあるから、生きたいと思い、生き続けるからこそ、「死」という終わりが訪れる。つまり「死」と「生」は表裏一体の関係であるというのが、この問いが突きつける人が生きることの本質だと思う。

「人は、生きたいから生きるのか、死ぬのが怖いから生きるのか」という問いは「人は、死に向かいながらも、生きたいから生きている」と伝えているのだ。

”SEOBOK”な問い

「人は、生きたいから生きるのか?死ぬのが怖いから生きるのか?」

この問いが映画「SEOBOK/ソボク」の本題であるわけではないと思うが、この問いを”SEOBOK”な問いとして話を進めてきたのは、”ソボク”という存在の描かれ方がある種、二者択一な世界へのアンチテーゼのように感じたからだ。

特に生きることしか選択することの出来ない生き方には息苦しさを感じた。そのような極端な存在は最終的には人類の脅威としても描かれていた。どっちかではなく、どっちもあってどっちも良い、そんな世界観を「死」を題材にして伝えたかったのではないだろうか。少なくとも私はそんな感じがした。

映画「SEOBOK/ソボク」が全体を通して伝えたいのは、「人は、生きたいから生きる、死ぬのが怖いから生きる」という“ソボク”な生き方ではなく、「人は、死に向かいながらも、生きたいから生きている」という”SEOBOK”な生き方なのだ。

私はそんな”SEOBOKな生き方をしていこうと思う。

個人の見解

「SEOBOK/ソボク」という映画を見て感じたことを文章にしている。もしかした映画を見終わった後に感じた感覚が強すぎて、映画の内容全体が自分の中でその感覚ありきな物語に書き換えられているかもしれない。

でもそれで良い。

今感じていることを文章化しているだけなので。次に「SEOBOK /ソボク」を見たときは全く違う解釈をすることもあるだろう。そもそもそういうものだと思って映画も見ているし、noteも書いているので、たまたまこのnoteに出会って読んでくださった方もそんな感じで、楽しんでいただけると嬉しいです。

※あくまで個人の見解です。 こんな註釈が必要な世の中なのでね。

東京オリンピック2020も始まりました。賛否両論、“ソボク”な問いはここにもある。