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「埼玉」の由来の地への旅

哲学カフェのある回において、フリートーク中にこんな話が出た。

―忍城は石田三成の水攻めに耐え抜いた“浮き城”―

忍城のことを調べてみると行田市にあるという。熊谷の近く、という以外全くイメージの沸かない土地であったが、ざっとGoogleマップで調べてみると、昔ながらの街並みなど、色々と面白そうなものがあることが分かった。そこで、1月下旬に行田に行ってみた。

高崎線で熊谷まで行き、そこから秩父鉄道で行田市駅へ向かった。高崎線にも行田駅があるものの、こちらは行田市の南端にある。忍城などの観光スポットからは遠く、観光には不便なのだ。

行田市駅に降り立つと、レトロ感満載のホームと待合室が出迎えてくれる。引き戸を引くときのガラガラという音、待合室にあるベンチ(こういう長いタイプのベンチはなかなか見ない)、レール材を活用した屋根。数十年前の世界にタイムスリップしたかのような感すら受ける。こういう駅に来れることはなかなかない。貴重だ。

忍城へ向かいながら、街を散策すると、いくつもの足袋蔵に出会う。行田は足袋で栄えた街であり、現代でも足袋の生産量は全国一であるという。最盛期は多くの足袋蔵が並ぶ街であったそうだ。減ったとはいえ、まだまだ多く残っている。蔵によって建材がまちまちなので、個性豊かな蔵を見て回れる。蔵めぐりだけでも、一日過ごせそうに思える。

忍城址へ行く。本丸跡には行田市の歴史を学べる郷土博物館がある。忍城、足袋を中心とした街の歴史が丁寧に紹介されている。再建された三階櫓からは行田の街並みを一望できる。昔も今も10~20mそこそこの高さから街並みが見渡せる風景。そこには都市の喧騒はない。ゆったりとした時間を満喫できる風景である。

忍城址を後にし、次は「埼玉県」の由来となった埼玉(さきたま)古墳群へ向かった。古墳群がある、ということは古代から行田は大きな街であった、ということである。古墳群に行くと、再建されたものも含めて8基の古墳がある。そのうち、丸墓山古墳と稲荷山古墳、そして前玉(さきたま)神社(浅間塚古墳)は登ることができる。

丸墓山古墳から見た風景

また、埼玉古墳群、その他周囲にある古墳群から出土した品々を見学できる博物館もある。ちょうど、特別展で個性豊かな埴輪が多く展示されていた。日本では唯一、馬の背に旗を乗せたような埴輪(下記リンク参照)、というものもあった。この埴輪は朝鮮半島の影響を受けているということらしい。その埴輪がなぜ本州のど真ん中といってもよさそうな行田の地でのみ出土したのだろう?そして、埼玉には古代から朝鮮半島との関係が見られる場所が他にもある。高麗(こま)だ。遠く朝鮮半島からやってきた人々がどういう因果か、埼玉の地に流れ着き、定住し、そこで特徴的な文化が花開いたのかもしれない。それにしても、なぜその埴輪は行田でのみ見つかったのか…。解せない。

古墳に戻ろう。丸墓山古墳は埼玉古墳群の中でも最も高さのある古墳である。また、石田三成が水攻めをしたときの拠点でもあるという。丸墓山古墳へ向かう道は、当時の名残「石田堤」が転用されていた。堤の両端には桜が植わっていた。春には桜のトンネルの奥に古墳が見えるのだろう。

丸墓山古墳に登ると、忍城址の三階櫓と同様に周囲を広く見渡せる。東側を見ると筑波山まで見える。三成は荒川と利根川の水を氾濫させ忍城一帯の街に流れ込ませたという。平坦な土地に残された1000年前の遺構(それも墓)が戦国時代には恰好の「高台」として戦陣となる。そして、その後は別の目的で活用され、古墳の形を失ったものの、歴史的価値を認められ、再建され今に至る。歴史とは何とも不思議なものだ。

古墳群を見て回るうちに夕暮れが近づいてきた。古墳近くに木々が立ち並ぶ丸墓山古墳よりも、周囲を一望しやすい稲荷山古墳から日の入りを眺めることにした。1000年以上前の人たちも、忍城周辺に暮らしていた人たちも同じような夕暮れを見たのだろう。ある時は希望をもって、またある時は水攻めという絶望の中、そしてまたある時は宗教的な祈りを込めて。

日の暮れた行田の街は、日曜日ということもあったのだろうか、18時にして眠りについたかのようであった。寝静まったかのように静かな街に、忍び足で入線してくる熊谷行きの電車に乗り込み、街を後にした。

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