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プロ野球シミュレーション「最初から巨人江川」第5球「江川しか勝たん」

私にとって1975年で印象があるのは、先代の貴乃花が横綱に挑戦するも叶わなかったことと、あとは親戚のいる千葉県の習志野高校が甲子園で全国制覇したことでしょうか。

で、私の親戚が当時靴屋をやっていて、そこの学校の指定靴だかを卸していたらしく、なんか長野県の実家のほうに小包とともに習志野高校の甲子園優勝投手・小川淳司選手(元ヤクルト監督)のサインの書いてある色紙が送られてきました。

この年の甲子園で圧倒的な人気を誇ったのは、東海大相模高校の原辰徳選手(現巨人監督)でした。それで当時私は長野県ということなんですが、こともあろうに長野県代表に松商学園の1回戦の相手が東海大相模高校でした。原選手にホームランは打たれなかったものの普通に負けました。

原辰徳選手はこの時はまだ2年生だったのですが、人気はすさまじく、「アサヒグラフ」の甲子園特集でも優勝したわけでもなく表紙を飾っていて、習志野高校が少し気の毒に思えましたw

ただ、その時は原選手よりもすごいなと思ったのが、同じく東海大相模の2年生だった津末選手のほうでした。のちに原選手と同じく東海大学を経て日本ハムに入団しましたが、プロの成績では随分と差がついてしまいました。

甲子園の決勝戦の習志野高校の相手は、愛媛県の新居浜工業だったのですが、いまでも強烈に覚えているのは新居浜高に高校生ながら髭を尾崎紀世彦のように伸ばして出場していた選手がいたことです(私のおぼろげな記憶なのでどこまでどうだかはアレですが)。

確か序盤に4点先制されたところを、逆転して優勝したんだっけな。あ、この小説では結構ろくに調べもせずにうろ覚えで書いてあることもありますので、疑わしかったら調べてみてくださいw

ただこの年の3年生の甲子園球児はプロのスカウト的には「不作」だったんですが、甲子園に行けなかった選手で出世したひとが結構いたような。あ、一人は前の年に2年生で出場して甲子園を優勝した千葉県の選手だったかな。まあ、その話はちかぢかすると思います。

で、江川投手は法政大学2年生で、まさに無双の活躍をしていました。大学生のなかでも体つきも含めてスケールが全然違ってるようにみえました。この当時は六大学野球の法政大学の試合はだいたいNHKで放送されていましたね。あ、早慶戦は必ず放送されてました。最近はNHK見てないんだけど大学野球とか放送しているのかな。教育テレビとかならあるか。

では、シミュレーションに入ります。

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