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舞台「東京輪舞」 そういう「属性」の人間が感じたこと

はじめに、私はこの「東京輪舞」という舞台を、「推しが出る舞台を観に行こう」という、気軽な動機で観に行った。
観に行って、衝撃を受けた。
その衝撃は、一撃のパンチというよりは、じわじわと腹の中に落ちていくような、そういう浸透していくような衝撃だった。
いろいろな”人間”を考えてみて、それから、自分のことを考えた。
せっかくこういう舞台に出会えたのだから、そういう「属性」の人間が漠然と感じたことを書き記しておこうと思った。

舞台の感想はもうSNSの方で書き散らしているのでここでは舞台の感想、というよりは、自分のことの話なので感情の備忘録です。
セクシャリティの話。

「属性」という言葉が無性に悲しかったんだよな マイノリティであることというか、違うものという区別のための言葉だったのかもしれないんだけど、セクシャリティもひとつのアイデンティティでもあるので、だからジンさんの「こんなに素敵なことを誰にも言えないなんて」っていう、ショウコさんにとっては理解しがたい不誠実にあたることだとしても好きな人を好きなんだと言える「当たり前」を当たり前にできないとジンさんもわかっているからよりそれを「そういう属性」とくくられることがすごく悲しいことだと思ったんだよね わかろうとしてくれてはいるのだろうけれど、でもショウコさんにとって理解しがたいそれはセクシャリティや個人の嗜好ですらなく「属性」なんだ マカナとの出会いでそれはかわったんだろうか マカナとわかれたショウコさんは涙を拭っているように見えたけれど、どういう涙だったんだろう

幾度かの観劇を経て、幾度目かの感想を途中まで書いていた。
書くことで考えを整理している節があるので、ここまで書いて自分がなぜそう感じていたかをなんとなく理解し始めた。

東京輪舞、ありがたくも複数回観劇をさせていただいて、全体を通して人間のはなしだったけれど一幕はより刹那的な欲望の感じが強かったように思う。そして二幕は、ものすごくセクシャリティの話だったよなあ、と。

それでもって、どうして二幕のほうがより印象的でこうもいろいろと考えさせられたのかと言えば、私自身がセクシャルマイノリティに当たる自覚があるからだ。

私は性自認と実際の性別に違和を持たないシスジェンダーだが、交際については相手の性別を問わなかった。LGBTQにおけるまあBと言える。
さらに言うなら、たぶんどちらかといえばアロマンティック・アセクシュアルに近しい。これもおそらく人によるので明確にこうとは言えないが、ざっくり言えば恋愛にならんだけで、人に対する好意はある。恋愛感情を抱かない、あるいは、それが極端に希薄である。
「それ」という自覚を持つに至るまでの交際歴として、男女ともにある、という意味でおそらくバイセクシュアルなのだろうと思う。
そのあたりについて、おそらく自分がいわゆる「一般的」、「普通」ではない、という自覚がある。
だからといって、特別に変だ、と思うこともない。
そういう人間だっているだろうが、と思いながら生きている。
だけど、自分で思うことと、他人が感じることや価値観は、当然違う。

自身のセクシャリティについて、親しい友人は知っている、と言いたいが、明言していない友人もいる。親友に近しい友人である。
もう十五年以上の付き合いになる。今更彼らに、たとえ稀薄であっても恋愛感情を抱くことはほとんどないと言っていいが、およそ彼らがそういうものに対して(少なくともかつて)「気持ち悪い」と思っていたことを知っている。だから、今更だとしても、「もしかしたら嫌悪感を抱かれるのでは」という一抹の不安をぬぐえないまま今日まできている。
特段、今の付き合いから変に触れる必要もないとは思っているが、「そういや言ったことねえな」、と気づくと、おそらくそういうことなんだと思う。
逆に、言っている友人もいる。それはたぶん、付き合いの中で「このひとは”それ”を変だとは言わないだろう」という選定がある。ようは、人を選んでカムアウトしていた。
で、このSNSで公言したのはまあ、別に言ったところで……という気持ちではある。
まあ、舞台を見たことで感じるところがあったのは間違いない。

そういうわけであるので、たとえば劇中ショウコさんの感覚では、私の「これ」も「属性」なんだろうな、と思うと、まああのシーンはかなり刺さった。
まあ俳優として生きるジンさんとは土台まったく違うので同じとはとてもじゃないが言えないけれど、ようはセクシャルマイノリティである自覚があるというのはそういうことなのだと思う。
そしてこれは、おそらく年齢が上であればあるほど人には言いづらい。時代は変わるが、生きてきた時間の背景はかえられない。
なぜならたとえ直接的でなくとも、「気持ち悪い」と言われたことがある事実は消えないからだ。

とはいえ、ショウコさんがマカナと関係を持ったラスト、「(性自認女性であるショウコが)女と(性交渉を)した」という事実についてはあまり驚いていなかった印象がある。どちらかというと、マカナに対して「あなたは大丈夫だったの?」という問いかけが多い。それはジンさんというセクシャルマイノリティが身近にいたからなのか、本人の嫌悪感がなかったからのかはわからない。いや、明確にゲイセクシュアルと明言されたジンさんと一緒にいるのだから、同性愛に対する嫌悪感はそもそもないのか。
というか、「人間が嫌いだから」の言葉はどういう意味だったんだろう。ビジネスのためだけの結婚だったら、ジンさんの告白にだってあんなに激高する必要はなかったんじゃないか。いや、少なくともビジネスだったとして、「家庭を築いた責任」はそこには生じるだろうから、そう思えばショウコさんの怒りも納得はできるけれども。

そう思うと、前半一幕でのたとえばマカナとカイト、カイトとジャスミンは、わかりやすい「欲望」が明確にあった。それがたとえ生きるためだとしても、明確な理由があった。だから行きずりのまるで交尾と称されるようなセックスでも嫌悪感はなかったが、たぶんマサとサヨについては、そのこねくり回した「恋愛」という感情にさらにたとえば社会的地位というステータスやより自分に合うものを選定しているような感じがあって、私はそれに「愛」とかいうやつを見つけられなかった。あったのだろう、きっと。だけれど、私はそれを”理解”は出来ないから、だから苦手意識が先に来てしまって、何とも言えない気持ちになる。
いやまあマサのいいところ、あの舞台上では私いっこも見つけられなかったんですけどね……すまねえ……まあただ、顔は可愛い…なんせ推しの顔なので……顔以外はちょっと……わっかんないですね……

舞台「東京輪舞」で描かれたマイノリティの話は、たとえば彼らのいた小さな部屋の中では、個と個の話で、それだけを切り取って見た時に、彼らの愛の形として客観的に”考える”ことができるけれど、タツヒコやマキが言ったように「苦しかったんだろうなあ」という事象が数えきれないくらいあって、ジンが言うように「こんな素敵なことを誰にも言えないなんて」と思うことも数えきれないくらいある。あるんだろう。全部はわからない。
だけど、「当たり前のように言えない」と言う感覚は、たぶん共通しているんだろうな、と漠然と思った。
決して悪いことではないだろうと思うのに、誰かの糾弾を恐れて、大多数の「普通」におびえて、「じぶんは違うよ」と言えないのは、これはセクシャリティの話だけではないのだろうけれど。

なにがって、これはべつに診断だのなんだのをされるわけじゃない。
あなたはこうですよ、と他人に決められるものでもない。なんなら、自分自身で「こうありたい」と願って始まったものでもない。
「そう」だと気付いたから、「そう」なだけだ。
自分で持った違和感を、なんだろうなと考えながら、調べたりしながら、自分はこうなんだな、とおぼろげながら知っていく作業に近い。
おそらく、という前置きを多用しているのは、そういうことです。

これは自分の「属性」による主観であるので、ほかの登場人物にだって想像もできない苦悩があることだろう。
街中ですれ違う、見知らぬだれかがそうかもしれないように。

愛の在り方や、情事に至る関係性、ひととひとのはなし。

舞台東京輪舞で感じることはたくさんあったけれど、たとえばそういうセクシャリティで生きる人間の「恋愛」のはなしを、もっと「普通の恋愛」のようにできるようになればいいなと思ったし、「恋愛に至らないこと」も「あるのだ」とか、まあ、そういう、いろいろな人間を考えることのできる舞台でした。
推しの舞台を観に行く、という動機で観劇した舞台。
こんなにもたくさんのことを考えさせてくれて、本当にありがとうございました。
観に行ってよかった。
一つの舞台をこんなにたくさん観たのは初めてでした。
休憩含めてほぼ三時間という時間がいつもあっという間でした。
また何度でも観たい。

ありがとうございました。



いやほんとうに正直まだまだ舞台見たいけどね!???!?!?!!!!
再演待ってます!!!!!!!(まだ終わってない)

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