メロディーのような何か

 夕食を終えてぼんやりとしていたら、ふと草の匂いを吸い込みたくなった。部屋を出て、歩いて数分の公園へと向かった。線路沿いのその場所には、小さな池と、草むらと、ちょっとした木立がある。昼間は半袖で過ごせるくらいの暖かい季節になってきたけれど、陽が落ちると冷んやりした空気が戻ってくる。長袖のシャツ一枚で出かけて、ほんの少し肌寒い…そんな夜だった。遊歩道を辿るとき、目的地もないくせにいつものように足早になってしまう。やりきれない気持ちになる。もっと余裕のある足どりで、植物にふれたりしたいのに。
 いつからか、植物たちのことを静かな生き物だと思うようになった。彼らのテレパシーみたいな交感手段は、空気中を無色透明に飛びかっていて、でもそれは電波のようなものとも違うから、人間には測ることができない。そういうことなのだろうと、なんとなく思ったりしている。ただの空想に過ぎないのだけど。私はベンチまできて腰掛け、息をついた。不思議な香りがあたりに満ちていた。それはきっと、何かしらの花の匂いなのかも知れないけれど、どこからやってくるのかは分からなかった。暗がりの中で、私はさまざまな種類の植物たちに囲まれていたから。

 たとえば、この世を勝ち負けで振り分けてしまうような価値観に目の前がぼやけてしまう。ポジティブとかネガティブとかいう言葉を良し悪しと結び付けていく文脈に気を揉んでしまう。自分自身、恥ずかしいほど短絡的な思考パターンをしているのに、素朴な二元論や社会通念を鵜呑みにしたような無自覚な表現を見かけると、上手く受け止められずに横を向いてしまうのはなぜだろう。あるいは、横を向いてしまうから上手く受け止められないのだろうか。いずれにしても、私はそういうことが不得手なのだと思う。そして、それで構わないと思いながら、内なる遠景を見つめ、気がつくと草の匂いをもとめている。それは不服をとなえたあとの憂さ晴らしみたいなことではなくて、ただわけもなく、私はそこへ落ちてゆくような気がする。
 その過程は、何というか、ひとつながりのメロディーのような感じとして私のなかに起こり、やがて何かを生み出すことに対する不信感のごときものとして、茫漠とした予感に行き着く。それは、いつか自分が芸術に別れるときがくるといった類いの、子どもじみた気取りのような予感だった。私はただ疲れていた。

 どんなに歩いても、木立を見上げてみても、夜は何も明かしてはくれない。そんなことは知っている。私はまた部屋のドアをひらいて、水道の蛇口をひねり、無色透明に見える水で手を洗い、眠りにつくために明かりを灯すだろう。ゆるやかに過ぎ去ってゆく光というのは、天井から吊り下がっているこれではないという意識が、メロディーを加速させて、私はどこか別なところへ連れていかれる。淡いブルーのような色が瞼にちらついて、何かに追われているように息をひそめる。私が世間を信じないように、世間は私にその秘密を明かそうとはしない。そして私は、このふたつの事柄にはどんな因果関係もないということを知っているから、無数に分割された欠片たちをひとつずつ拾い上げては、信用がおけるものであるかどうか見極めることを常に強制されているらしい。たしか…ずっと前に…まだ幼いころに描いていた絵は、こんなにも寂しいものではなかったはずだと思うのだけれど、もう忘れてしまったな…。
 
 何も心配しなくていい。この暗く沈んだような音色はいつまでも途切れない。私はもう何年も、良い絵筆と巡り会っていない。それが一体何なのかと問われても、私は答えることができない。

                  2024.5.5
 

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