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ブルーランド回想録 n.5 【連載小説】


 私はそっと手を振っている。だれに向けてだろう。妖精たちの国の、低い位置にある植物の葉や茎が、足を踏み出すごとに絡みついてくる。つめたい砂漠。水晶のなかの。そして、眠られぬ夜の浅瀬で、やわらかな薄紙に包まれている氷砂糖…。

 目をひらくと、絵のなかの睡蓮が見えた。画集のページを切りとって壁に貼りつけただけのそれが、水のいろを揺らしながら、私を何処か別な場所へと誘うような気がした。絵ってそういうところがある。だから私は絵を見るのが好きなのかも知れない。
 次に会えるのはいつだろう。あおいさんは会いたいと思ってくれてるのかな。考えてみれば、彼女のほうから私に会いにくる手立てはない。そうだ…そんな簡単なことに今さら気づいた。制服のままベッドで伸びていた私は、ハッとして起きあがった。
 それなら、私のほうから会いにいくべきなのかな。だって、また話したいと言ってくれたから。

 ノートをとじて、私は鏡のまえに立った。どうしよう、すこしだけメイクしていこうか。ベッドの傍らにまるめられていたパステルブルーのスウェットに着替えながら、ちらっと時計を見る。まだ時間はある。私は卓上の鏡のまえに座って、机の引き出しからオモチャみたいな化粧道具たちを取りだした。あおいさんに会うからメイクがんばりました、みたいな…いかにもな感じにはなりたくないので…慎重に…ほんの少しリップをつけて、アイラインを引いて…目尻には、分かるか分からないかぐらいの淡いブルーをのせてみた。ここまでするとマスカラもつけたくなるけど…いや、やめておこう。メタモルフォーゼ…というほどのものでもない。そこには、ほとんどいつもどおりの私がいる。でも、もしかしたら、これを私だと思っているのは私だけかも知れない。だって、人はいつだって自分が見たいものしか見ようとしないし、感覚器官とそれに対する脳内の処理機能は個体それぞれに違っているというのを何かで読んだことがある。…よく分からなくなってきた。ため息をつく。鏡のなかの人は何者なんだろう。右手をあげてみる。私に似たその人が同じように手をあげる。でも、その手はどっちの手なの?鏡の国は、左右が入れ替わった世界ではない。それはきっと、鏡に向かって、すべての前後の奥行きが入れ替わってしまった世界なんだ。どう言えばいいんだろう…たとえば、現実世界の空間を、鏡に対して平行に限りなく薄くスライスしていく、それをすべて前後逆に並べかえてみたなら、鏡の中の世界ができあがるのだと思う。…って、そんなことはどうでもいいか。私と私によく似た鏡像は力なく右手をおろして、三秒間、しらけたようすで見つめあった。服、選ばないと。
 クローゼットをひらいて真っ白なコーチジャケットを引っぱりだし、胸のまえで合わせてみる。これはいつか兄が懸賞に応募して当てたもので、当人は一等のタブレット狙いだったために、行き場をなくしたジャケットは未開封のまま私のところへやってきたのだった。背中に青い文字で〈POCARI SWEAT〉と書かれているのがかわいいし、何より少し大きめサイズなのが気に入っている。椅子に引っ掛けてあったハーフパンツに履き替えてから、冷んやりとした肌ざわりのそのジャケットに袖を通して、とりあえず出かける準備はできたのだけど、何だかやたら安っぽく見えてひとりで苦笑いしてしまった。

 夜のはしっこを歩き始める。空は、どういうわけか明るく見えた。雲が低いせいだろうか。その混ざり切らないミルクのような色たちは、私にコンスタブルの風景画を思いださせたのだけど…でも、こんなことはつまらないことだ。現実を眺めて絵を思いだしたり、絵を眺めて現実を思いだしたりするみたいな、そういうことよりも大切なことが、たぶん、あるような気がする。
 ろくに前も向かずに歩いていると、いつのまにか駅前の明かりが見えはじめ、数分後、私はコンビニの扉をひらいた。あおいさんが私に気づいて、胸の前で両手を振ってくれる。私の心は地面から数センチのところで宙吊りになった。

「こ、こんばんは…」
「えへへ、いらっしゃいませ。来てくれてうれしいです…今日のメイク、素敵ですね…」上目遣いで言ってくる。
「…う…こ、これは…その…」めちゃくちゃ恥ずかしくなって、私は両手で顔を隠してしまいそうになる。
「あ…隠さないでください。すごく似合ってますよ」
「あ、ありがとうございます…えっと、その…あの、また、待ってても…いいですか…?」
「もちろんです…えへへ」

 私たちは前と同じベンチに腰かけた。今日のあおいさんは真っ白のチャイナシャツに黒のワイドパンツを履いている。シンプルなのにすごくかっこいい。どうしてなんだろう…サイズ感とか関係あるのかな。もし私がこの服装をしても、絶対こんなにかっこよくならない気がする。あおいさんはきっと、自分のことをよく知っているんだろう。見せ方が上手というのは、そういうことなんだと思う。
「あおいさん、今日の服装も素敵です…」
「わ、ほんとですか?うれしい…この組み合わせ気に入ってるんです。ほら…この服で髪をツインテにすると、カンフー少女みたいでしょ??うふふ」
 そう言いながら、彼女は両手で自分の青い髪をつかんでみせた。にこにこへらへら笑って、まるで強そうじゃないけど、それでも私に勝ち目がないことは明白だった。
「な、なんか…」
「…どうしたんですか?」
「その…最初のイメージと全然ちがうというか…私、あおいさんのこと、クールな人だと…思ってて…」
「ええ…!そ、それって、こうやってお話する前のこと…?」
「はい…」
「…じゃ、じゃあ、想像とちがって、がっかり…ですか?」彼女は不安そうなようすでもにょもにょと呟いた。
「…いえ、全然です。むしろ、逆というか…」
「そ、そうなんですか?…」
「はい…私は、すごくいいと…思います…」
「わぁ…よかった、子どもっぽくて嫌かなぁって…」
「…だいじょうぶです、そ…そのままでいてください」
「はい…!そうします!」
  私はあおいさんのことを何目線で見てるんだろう。近所のコンビニのあこがれの店員さん?…間違ってはいないけど、ちょっとだけ違うような気がする。経験値が低すぎるのか、いろいろ気にしすぎる性格だからなのか、何とも言えない気持ちになる。
「あおいさん…」うつむいたまま静かに呼びかけた。
「ん…?」
「その…今日はあおいさんに…服のことおしえてもらおうかなぁ…なんて…」
「え、そうなんですか?…わぁ」
「私、自分に似合う服装とか、いまいち分からなくて…もし、ご迷惑じゃなければ…」
「そんな迷惑だなんて!私でよければ、いろいろお話したいです」
「ほんとですか?お、お願いします」
「あいちゃん、今でもじゅうぶん素敵だと思いますけど…その、ゆるっとした感じ、私すきですよ?」
「ええ…ほんとですか?あ、ありがとうございます…」
「はい、だから自信もってください…あっ!」私の服をまじまじと観察していたあおいさんが、背中のロゴを見て声をあげた。
「…え?」
「これポカリのロゴ入りなんですね…!とてもかわいい!」
 これをかわいいと言ってくれるんだ。お気に入りを褒められて、私は素直にうれしかった。
「…これ、兄がキャンペーンみたいなのに応募して当てたもので…私にくれたんです…」
「わぁ、あいちゃんお兄さんがいるんですね…!いいなぁ、仲良さそうで」
「いやいや、全然ですよ…いつも喧嘩ばかりしてます…」
「それが仲良しなんですよぉ、私も喧嘩とかしてみたいです!」彼女はにこにこしながら言う。
「あおいさんは…兄弟は…?」
「私ひとりっ子なんです、だから羨ましいなぁ…」
 そうだったんだ。言われてみて初めて、あおいさんに兄弟や姉妹がいることを想像するのはむずかしいと気づいた。というより、家族がいるということすら何だか信じられないような…それほど彼女は浮世ばなれした雰囲気を漂わせている。
「ひとりっ子なんですね…」
「はい!…だから、年のちかいお友達ができてうれしいです…」
「え…そ、それって…」
「…わ、ごごめんなさい…!私また勝手に…」
「いえ…!そんなあやまらないでください…!あの、ちょっとびっくりしただけなので…!」
 友達って、私のこと?これってほんとにそういうことなの?
「あいちゃん、…私とお友達、やだですか…?」
「ぜ、全然…やじゃない…です。う、うれしいです…」
「わぁ…やった!ありがとう!うれしいです!」
「…あ、あはは。よろしくお願いします」
 学校にすら友達がいない私と、友達になってくれるなんて。でも、なんとなく実感が湧いてこないというか…だってまだ知り合ったばかりだし…?いや、なんだろう、そういうわけでもないような…。
「はい!こちらこそです!…あ、服のお話してたのに…」
「え…あ、そうですね…あはは」私は我にかえって、とりあえず今はぐるぐると思案することはやめようと思った。
「あいちゃんはどんな感じ目指してるんですか…?服装の雰囲気とか…」
「…えーっと、その、はっきりしたイメージっていうのはないんですけど、ゆるい雰囲気のなかにもビシッと締まる部分があったらいいなーとか…」
「なるほど…うーん、たとえば、その服ならチョーカーつけてみるとか、足もとをおっきめのスニーカー合わせてみるとか、かっこいいかも知れませんよ?」
「わ、チョーカーって試してみたことないですけど、でもなんか良さそうです…あおいさん、やっぱりすごい」
「えへへ、あいちゃんチョーカー似合うと思うんです。あ…!これ、見てみてください!」あおいさんはケータイを取りだし、液晶画面を目にも止まらぬ速度で操作しはじめると、たくさんの画像が並んでいる画面をひらいて私に見えるように近づけてきた。それは様々なファッションコーディネートをまとめたアルバムのようなもので、ジャンル的にはバラバラなのに、モノトーンを中心とした色合いだったり、漂わせている空気感がなんとなく共通な世界観を感じさせる、ボーダーレスなセンス溢れる画像集だった。
「…こ、これ、すごいです」
「えへへ…〈服飾写真帖〉って名前つけて、気になったコーデをあつめてるんですよ」
「ふくしょくしゃしんちょう…かわいい、です。ていうか…ぜんぶ、めちゃくちゃ素敵です…」
「…うれしい。…ほら、このコーデとか、全体的にストリート系でまとめてますけど、髪をふたつくくりにしてて可愛らしい要素入れてるの、いいですよね」
「…はい、ちょっとしたことなのに、絶妙なはずし方で素敵ですね」
「あいちゃん、金属アレルギーとかありますか…?」
「いえ、だいじょうぶです」
「じゃあ、このチョーカーみたいなのとか、いいかも」
 見せてくれた画像には黒いリボンにワンポイントでハート型の金具が付いているチョーカーだった。
「かわいい…シンプルですね。こういうのなら、いろいろ合わせやすいかもです…」
「うふふ…ですよね」
「あの…そのアルバムって、私のケータイでも見れたりするんですか…?」
「はい!見れますよ!…えっと、ミュースケイプってアプリなんですけど、ユーザー登録しなくても閲覧だけならだれでもできるので…!」
「さがしてみます…あおいさんのアカウント…」
「ぜひぜひ!英文字で、えーおーあい、アンダーバー、えぬえー、アンダーバー、わいゆーてぃーえー…です」
「…あ、はい、えっと…えーおーあい…」あらためて、あおいさんの名前を意識してしまう。なゆた…いい名前。
「見れますか…?」私の手もとをのぞき込むようにして、彼女が身を寄せてくる。ふたりの肩が触れあって、なんだろう…この感触は、私には初めてのことだと思った。他人とこみ入った会話をすることはもちろん、こんなふうに肩が触れあうほど近づくなんてことは。…私はよく分からない、不思議な気持ちでいた。
「こ、これかな…わ、出てきました。すごい…」
「わぁ、うれしい。えへへ、あいちゃん、見てくれてありがとうございます」
「いえいえ…そんな、私のほうこそです…!あの…あおいさん…その…」
「…どうかしました?」
「その…もしよかったら…今度…お、お買い物とか、いっしょに行ってくれませんか…」
「ひょえ!ほんと!行きたいです…!わぁ、うれしいですお買い物とか!」
「や、やった…ありがとうございます。なんか、ひとりじゃどういう店見たらいいか分からなくて…」
「私がご案内しますっ、おまかせください!」
 めっちゃテンションあがってる…よろこんでもらえてよかった。こんなふうに自分から誰かをおでかけに誘うなんて、もしかしたら初めてかも知れない。だいじょうぶかな私。すごく大胆なことを言ってしまった。緊張するけど、でも、それ以上になんだかとても楽しみ。
「あの、えっと…連絡先…交換しませんか?」
「ふぇぇ、する…します。それ私も思ってました…うれしい」
 私たちは…少なくとも私は…ふわふわした気持ちでおたがいの端末をこつんと触れあわせて、見えない糸でつながった。これではなれた場所にいても、いつでも言葉を交わすことができる。そんなことをあらためて意味があることのように思う。
「…アイコン、くもちゃんなんですね」
「あ、くもちゃん知ってるんですか?かわいいですよねぇ」
「はい、あおいさんのイメージに合ってると思います」
「ふふ…ありがとう。あいちゃんのアイコンは…なあに、これ?」
「これは…モネの静物画です。メロンの絵なんですけど…」
「すてき…やっぱりあいちゃんは芸術の趣味のひとですね…あこがれちゃいます」
「いや、そんな大げさですよ…」
「んーん、すごいんです、あいちゃん。今って十七歳ですよね?」
「あ、はい…そうです」
「前にお話した時も思ってたんですけど、十七でこんな趣味の女の子、私は知らないです」
「はは…いいんですかね。その代わりまわりのみんなの趣味には全然ついていけてません…」
「そんなの気にしなくていいですよ。自分の好きなことをまっすぐに極めるのは素晴らしいことです」
「ありがとうございます…なんか、そんなに肯定されると、調子に乗っちゃいそうです…」
「ふふ…いいと思いますよ」
 あおいさんと話していると、冗談みたいに自己肯定感が上がっていく。こんなにも自然なやりかたで人を前向きにさせることができるなんて。私がちょろいだけなのかな…。それでもいっか、私はまだ十七なんだし、ちょろくて当然だもん。
 夜は静まり返っているのに、私の胸はとても高鳴っていた。あおいさんはやっぱり眠そうな目をしているのだけれど、それでも話し声の調子や身振りから、はしゃいでいることがわかった。美少女なのに、そのことがほとんど気にならないこの謎の魅力は一体なんだろう。
「あ、そういえばこのまえ言ってた本、持ってきたんです…」
「え、ほんとですか」
「はい、これです…どうぞ」そう言ってあおいさんは文庫本を差し出してきた。
「ありがとうございます…大事に読ませてもらいますね」
 何げなく最初のページをひらくと、栞が挟まれていた。それは小さな青い花びらを、透明にラミネートして、リボンをつけたものだった。
「こ、これ…!」
「あ、それは、ちょっと自分でつくってみたものなんです…」
「ええ…すごい…素敵です、きれい」
「えへへ、うれしいです…」

 それは夢の中に現れた花びらとすんなりつながって、まるで魔法みたいな気がした。この気持ち、伝えてみたいけど…きっと上手くいかない気がする。私の中で重ね合わせになった夢と現実は、小さく震えていた。
 どうして此の世には私の窺い知ることのできない世界があるんだろう。いつのまに、それは存在していたのかな。そして、どうして、私は今こんなことを思っているんだろう。公園は静かだった。時々、犬の散歩をする人影が、遊歩道のあたりに見え隠れしている。外灯の明かりが届かない暗がりでも、ぴかぴかと光る首輪だけがちらついていて、そこに犬がいるんだなと分かる。どうしてだろう。何故だか、この景色をずっと憶えていることになるような、そんな気がしていた。不思議な気持ちになって、視線を足もとに戻すと、自分の靴と、あおいさんの靴が並んでいる。ゆっくりと隣を見ると、あおいさんが不思議そうな眼差しでこっちを見つめていた。

                 〈つづく〉

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