見出し画像

ブルーランド回想録 n.4 【連載小説】

         ✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎

 どこかに大きな隔たりがあって、その向こう側へ行けずにいる。どこへも辿りつかない夜を、またひとりで歩きだす。物語はそもそも時間とともにある。かといって、時間が進行すれば、いつもそこに何某かの物語が付随してくるというわけではないらしい。つまり、おそらく、そこに人間がいなければ、叙事だろうが叙情だろうが、そういうものを紡いでいくことにはならないのではないか。たとえば、ピーターパンの冒険に出てくるネバーランドという場所があったとして、もしそこに子どもが一人もいなければ、夢物語は先送りされるということになりはしないか。いつかやってくる子どもたちを待ちながら…。そして、そうしている間にも、時間は飛び去っていくことをやめないだろう。
 この世に人間が存在しようがしまいが、そんなこととは関わりなく時間は過ぎていく。でも、時間が過ぎていくということを思うのは、どうやら人間だけらしい。何だかよく分からないけれど、人間が意識しなくても時間はあって…でも過ぎ去る時間というものは人間の中にしかない、ということ…?だから何だという気がしなくもないけど。

 何となく、今夜はコンビニへは行かず、部屋でじっとしていた。それなのに、結局あおいさんのことばかりが気になって、ゆうべの会話のことを思い返して、コーヒーを淹れて、なんとなく心細くなって…小さなビスケットをガラスの小皿にならべることで気持ちを紛らわせた。バイト…そろそろ終わる頃かな。壁にある時計を見て、ビスケットを見て、次に自分の爪を見た。ネイルもっと上手になりたい。ほとんど白に近い淡いブルーのうえに、細かなラメをかけてある爪は、照明にあてて動かすときらきらと輝いた。きれい。これはなかなかよくできたほうだ。
 ふと気になって、メタモルフォーゼという言葉を調べてみる。変身するというようなことらしい。その言葉から、子どもの頃に読んでもらった絵本の記憶がよみがえってくる。それは子うさぎがいろんなものに姿を変えながら逃げていくというような話で…逃げていくたびに、お母さんうさぎが追いかけてくるのだけど、それも何だか楽しくて、わくわくしながら絵本のページを眺めていたっけ。そこに描かれていた絵は今思えばとてもシュールな、空想の世界を柔らかく視覚化したようなものだった。私も何か、私じゃないものになりたい。でも私は変身できない世界に生きていて…というよりそもそも、私は私自身が何者かをまだ知らずにいるのだから、別のものになろうにも、その手続きにさえまだ進めない状態なのかも知れない。…いやいや、この理屈は何だかしっくりこないな。変身は本体があってのことなんだとは思うけど、もしかしたら、そうじゃない考え方もあるのかな。やがて、ゆるやかな眠気がやってきて、考えはそれより先へは進まなかった。
 こんな私と話をして、あおいさんはどう思ってるんだろう。そうだ、もし次に話す機会があれば、服のことをを訊いてみようかな。私だってお洒落に興味がないわけじゃない。でも、いまいち自分に似合うものが何なのか分からないまま、なしくずしに無難なものを着ている感じだから…。きっとあおいさんなら、たくさんのことを知っているはず…。黒いブラウスの襟が、彼女が着ていた服の…それが、黒い蝶みたいにゆっくりと翅を動かしている…本棚から何ヶ月も前に手に入れたファッション雑誌を引っぱりだして…ベッドのうえで広げてみる。私の目は…自然と黒い服をつかったコーディネートを追いかけて…しまう…黒を素敵に着てみたいけど…私に似合うのかな…たくさんの想像のきっかけが…ページをめくるたびに…現れては消えてゆく…掴みきれない遠くの景色みたいに…。
 何かが揺れたような気がした…。
 私は…上の空で…ふたたび時計のほうへ顔を向けたのだけど…何時なのかを確認する気力はもう…なかった。どちらの針も文字盤の左側に…あった…気がするから…きっと…まだ…眠りにつくような…時間ではないのだろう……
 目をとじて……
 しばらく………
 溶けていく…時計の…
 残像を追った……………

 いつものように、夜は音もなくやってきて、小さな本をひらいて、私にいくつかの物語を語って聞かせる。ひとつ前のページに違和感をおぼえてめくってみると、青い花びらが挟まっていた。私は不思議な気持ちになった。それが、あおいさんだということが分かったから。私もこんなふうに姿を変えて、彼女の夢に現れてみたい。巻き貝のなかで水の音をきいて、ちょっとだけ、目をとじてみた。
 気がつくと外国の絵葉書みたいな景色が目の前にひろがっている。とても広々とした庭園のような場所で、いろんな形に剪定された木々が点在していたり、小さな川に石造りの橋が架かっていたり。朝霧なのか、その空間は白くかすんでいて、橋を渡ったずっと向こうのほうに、何かの塔のようなものが見えるのだけど、それはもうぼんやりとしたシルエットだけになってしまっているのだった。ゆっくりと芝生の上を歩きだす。呼吸をするたびに、胸のなかに冷んやりとしたものが入り込んでくる。少しずつ、私はこの空間に侵蝕されていくような気がした。大きなサイコロのような木のそばを過ぎ、とくに意図もなく、その先にある円錐形の木へと近づいていった。その木の陰に何かがあるような気がしたのか、それもはっきりとはしないけれど、ただ足が自然とそっちへ向かったのだった。近くまできてひょいと向こうをのぞくと、地面の上に真っ白なティーカップのセットが置かれていた。なんだろう…だれかここでお茶会でもしてたのかな…。心のどこかにさざ波が立つような感触にとらわれ、私はいつだったか港町のアンティークショップで見たウェッジウッドのカップのことを思いだしていた。たしか、ショーケースの中で真っ青なビロードの敷布の上に飾られていたそれは、窓からの光だけによって細やかな装飾を浮かびあがらせていた。かつてはだれかの手で大切に扱われていたのだろうか。印象派の絵みたいな女の人が、光の差し込む室内で、ポットやカップを戸棚の中に仕舞うさまをイメージしてみる。ゆっくりかがみ込むあいだに、ビロードは露に濡れた芝生に変わって、私は足もとのカップをそっと手にとった。中には淡いブルーの花びらが入っていた。本のページに挟まっていたものかも知れないし、そうでないかも知れない。それは初めて訪れた見知らぬ街で、慣れ親しんだ何かを見つけた時のような気持ちを起こさせた。私と景色とのあいだに記憶のフィルターが差し込まれて、目の届くかぎりのあらゆるものたちを染色していく。瞬く間に、初めて見るはずのこの場所が、微かな郷愁を纏った優しげな景色に変わってしまった。そして私はなぜか、此処に自分の痕跡を残してはいけないような気がして、手に持ったカップをそっと元の位置に戻した。あたりを見まわしても人の気配はない。クワイエットという単語が思いだされる。いつかの英語の授業で習った言葉。サイレントでもいいのかも知れないけど、何となく此処はクワイエットって感じがする。白い霞はさっきよりも濃くなっていて、おかしな形をした木たちの輪郭もぼやけてしまっている。何だろう。怖くはなかった。怖くはないのだけど、まるで神隠しみたいな気がした。
 感情が大気中の素粒子をなでるみたいな、音とも言えないような微かな震えがあたりを満たしていて、私の聴覚はそれをキャッチするためだけにあるのかと思う。人間の耳が感知できる音の範囲は限られているというのを聞いたことがある。周波数だっけ…何とかヘルツみたいな。きっと私たちは、知らないままにいろんな音に囲まれて生きているのだろう。想像することもできないけど、たぶん…科学はそういう様々な現象のからくりに法則性を見つけて、世界のことを説明してきたんだろう。それならば、それでいい。私は小さな川に架かる橋の途中に立ち止まって、いつまでも水面を見つめていた。
 この世界を説明しようとすればするほど、また新しく説明のつかないことが増えていく。知ったふうな物言いで生意気だとは思うけど…そう的外れではないと思う。

                 〈つづく〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?