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ブルーランド回想録 n.2 〈連載小説〉


          ✴︎✴︎✴︎

 学校の帰り、突然降り出した雨が街を沈めてゆく。そんな景色を電車の窓からぼんやりと眺めていた。こんなことはよくあることだ。そして、こういう時にかぎってカバンのなかに傘がないなんてことも、私にとってはよくあること。
 改札口を出て、雨の降り込んでこない場所から地面に打ちつける雨粒を眺めていた。駐輪場では、だれのだか分からない倒れた自転車のハンドルが、水滴をしたたらせながら雲間からの日差しを反射させている。屋根の反対側は晴れてるのかな。すぐにやむ雨だと思った。
 ふと人の気配がしてちらりと後ろを振り返ると、女の子がカバンのなかをごそごそとしていた。私はびっくりしすぎて息が止まりそうになった。なぜなら、そこにいたのは、青い髪のあの子だったから。振り返った格好の私と、手もとから目を上げた彼女とが向き合う。
「あ、傘、持ってますか…?」
それは、ささやくような篭った声だったのだけど、どういうわけか雨音に掻き消されることなく、むしろすぐ耳もとで聞こえているみたいな不思議な声だった。
「あの、あの…コンビニの…お店の…」
 必死で言葉をつなぎあわせる。
「えへへ、そうです。うれしい、覚えてもらえてるんですね…あ、これ使ってください」
 そう言って彼女は折りたたみの傘を差し出してきた。
「え、いや…でも、そんなの悪いです…」
「いいんです、濡れちゃったら大変ですから」
 あたりには誰もいない。私の目線よりすこしだけ低いところにある彼女の顔。ほんの数秒、視線が合った。眠そうな、きょとんとした眼差し。え、こんな人だっけ…。どうして声をかけてくれたんだろう、困ってるように見えたのかな。
「私は今からバイトなので…平気です」
 たしかに彼女の働いている店は駅にくっついているから、雨に濡れる心配はないけど…。
「えっと、はい…じゃあ…お借りします。すみません」
「いえいえ、返すのいつでも大丈夫ですよ。平日の夜はだいたいシフト入ってるんで、またお買い物ついでにでも」
前髪から透けて見える眉を八の字にさせながら彼女はそう言い終えると、背を向けてパタパタと駆けていった。

 すぐに止むと思っていた雨は、思ったより長く降り続いた。貸してもらった折りたたみ傘は、黒地に可愛らしいオバケの絵が散りばめられている。こんなのどこで見つけてくるんだろう。前も見ずに傘の絵柄を見上げながら歩きだす。そういえば、さっきの彼女は普段着だった。真っ黒な、細かなレースで縁取られた襟のブラウスを着ていて、たぶんキュロットのようなものを履いていたっけ。とっさのことでよく覚えていないけど。とにかく、いつものコンビニの制服姿からは想像できないような彼女の趣味が垣間見えたことで、私は少なからず動揺していた。何だろう、この気持ちは…。そんなことをぼんやり思い巡らしながら雨のなかをとぼとぼ歩いていると、すれ違いざまの自転車の傘とぶつかりそうになって、よろめいたはずみで歩道の脇の溝に片足を突っ込んでしまった。ぼーっとしていると、時々こういう目に遭う。ため息をついて、オバケを眺めて、私は今にも走り出しそうな気持ちを抑え込んだ。
 家について、玄関先で開いたままの傘をハンカチで拭く。
「あら、帰ったの。連絡くれれば迎えにいったのに」後ろから母の声がする。
「んーん、大丈夫だった」
「傘、だれかに借りたの?よかったわね」
「うん…」

 お風呂場で足を洗ったあと、私はスパイになったつもりでキッチンへと向かう。任務はおいしそうなお菓子を見つけること。とりあえず冷蔵庫から牛乳を出してきてグラスに注ぐが、すぐには飲まない。こうしている間にちらりと戸棚のほうを確認するのである。ドーナツを見つけると、できるだけ音を立てずにショートパンツのポケットに忍び込ませ、何気ない顔をして私は自分の部屋に帰還した。任務遂行。
 出窓に腰掛けてドーナツを頬張りながら、外灯の光のなかにちらつく雨粒をぼんやりと眺める。
 どうして他人というものが、そこらへんにうろちょろしているのだろう。誰もが様々な思いや経験を詰め込んだかたまりとして、見ず知らず同士毎日すれ違い、うごめいている世の中という場所のことを思うと、私は何だか恐ろしくなってしまう。こんなことでは世の中を渡っていけないのかな。というより、そもそも世の中を渡っていくということ自体、私にはよく分からないのだし、そんなことが出来るようになりたいと思ったことは一度もないような気がする。無意識に焦点をずらすと、目の前の窓ガラスの表面に雨のしずくが幾つも流れてきて、そのまるいレンズの中に歪んだ景色が閉じ込められている。幾つも幾つも、水滴の数だけ増殖していくパラレルワールドたち。…どうかしてる。私は明日することさえ決められずに、ただ言葉にならない感情に満たされていた。
 ふとクローゼットを開いて、そういえば黒いブラウスって持ってなかったなと思う。しかたなくブルーのサテンのシャツを取り出して羽織ると、鏡の前でポーズをとってみる。生意気な表情をしてる。自分でもそう思う。
 
「ねえ、お母さん、あい帽子ほしい」
「どうしたの?帽子持ってるでしょ?」
「んーん、持ってないやつ。ストローハットが欲しいの。今年はストローハットかぶりたい」
「麦わら帽子??お洒落でいいわね」
「ほんと?趣味あうね。リボンがついててさー、顎の下で結べるやつがいいんだ」
「あなた似合いそうよ」
「やった、次のお小遣いもらったら探しにいこ」
「でも、リボン付きのやつなんて見かけないわね、どうせなら帽子と別にリボン買ってきて縫い付けたら?」
「え、それ最高。それがいい」
「そんなことよりあいちゃん、ドーナツ食べたでしょ?」
「ふふ、バレてた?」
「夕飯の前には食べちゃだめって言ってるのに…もう」
「いいじゃん、晩ごはんもちゃんと食べるもん」

 食事を済ませて窓の外を見ると、雨はもう上がっていた。時はいつのまにか経っていて、その分だけわたしはまたどこかへ連れていかれる。行き先なんて全然分からないし、そこがどんな場所なのかも知らない。誰もそんなことを知らせてはくれない。時々息を吐いて、無色透明の自分になることを思う。何かをしていても、何もしていなくても、時間は水のように流れ去っていく。あの子のことを思う。傘、返しに行かないと。つまり、それって、また会って話せるってことだよね。店員と客っていう関係とは少し違うから、なんだかちょっとそわそわする。何だろう、もしかしたら、うれしいのかも知れない。他人と接することに臆病なはずの私なのに…。そう、私には友達と呼べる相手がいない。クラスメイトとは普通に会話するし、ごく稀にだけどノートを貸してもらうこともある。でも、それは私が学校を休みがちで、授業の遅れを心配してクラスの委員長が気を遣ってくれてのことだろうし、結局は表面的な付き合いだけで、踏み込んだやりとりをすることはない。それはきっと、私自身がそういうものから逃げてるからなんだろうけど…えっと…何の話だっけ。傘を返すんだ。爪を眺める。スモークブルーのネイルしていこうかな。あの子に、見てもらいたい。

          ✴︎✴︎✴︎✴︎

 まだこの地上に朝を出迎えたり、夜を慈しむ者のいなかった、遠い日の、遠い陸地の出来事として、その来歴は長い年月をかけて精霊たちの手筈により人間にもたらされた。
 星たちにはどんな名前もつけられていない。どこにも行きつくところのない時は流れてゆき、それは二度と戻らない。というより時間は存在しないも同然だった。瑞々しい木立のあいだを銀色の風がスルーしていく。ちいさな火花が、時々、水の底とか、乾ききった砂地の奥底で音を立てているけど、それが一体なんの意味があるのかってことは、だれにも知らされてはいない。まだ何処にもだれもいなかったから。つまり、それは客観的な実体として感得されたことがないということ。それは悲しみを知らないということ。それは透明なものを見ようとすること。何億年も後にやってくる小さな異変。簡単な推移と複雑な…結合?
 どうしてこの場所には風になびく旗がないんだろうか。いつかだれかがポケットに忍び込ませることになる宝石の原石たち。燃えあがる生物。名づけられることもなく発生しては消滅する、季節を伴わない多くの変化。やがて青い果実をもぎとる嵐がやってきて、世界の秘密を分かち合うための出鱈目な言葉が授けられた。誰にとっても意味のあることなんて、ひとりぼっちの誰かにとっては意味のないこと。いろいろなものを抱え込んでふらふらの記号たち。冷たい太陽は何度でも今日という日を思い出させてくれるだろう。潮風がはこんでくるありきたりな予感。いくつもの呼び名を持つこの感情たち。はるか遠くにある雲たちの見てきたものを。空の向こう側の世界を。綿菓子をちぎっては口にふくむときの高揚感。フラッシュバックする夜の呼吸。
 身じろぎもせず、目を閉じていると、何かが過ぎ去っていった。今こそそれを〈季節〉と名付けてもいい。目を覚まし、繭の外へ出てみる。花の香りがした。まだ冷たい陸地のうえを陽の光がなでてゆく。まばらな雲たちが影を落としていくつかの島々を美的に装飾していくのだけど、それはひとつとして同じままに留まることはなく、儚い一瞬の美しさとして誰の記憶にも残らない。何故ならまだこの世には美学者といわれる人々が存在しないから。彼等はもっと、この世が終わりに近づいてから初めて現れてくるのだった。五感が衰え、何もかもが過ぎ去って戻らないということを知って、あわてて人々はそれを保存しようと思い立つだろう。眼はすでに何も見てはいなかった。存在の確かさや、幽玄さについて解析してみたところで、それはただ言葉の曖昧な響き以外に、この世に何ももたらしはしない。心の動きが窒息し絶命する瞬間、それを永遠に引き延ばすための窮余の策として、美学が生まれた。無論、そんなことは自然の側にしてみれば、知ったことではなかったのだが。
 人類はみじめだった。

 何か別の感情に移行している途上の悲しみ。窓は何のためにある。その体が小さく揺れている。時に左右されない心がある。文明は人をいらいらさせる。眠りについた悪漢の手元に置かれた拳銃。同期するオシレーターの光。どれだけの。

                 〈つづく〉

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