コードギアス復活のルルーシュ 感想

コードギアス復活のルルーシュ感想
35000字あります

・見るのは二度目、劇場ぶりなので数年来、ほとんど覚えてない
・コードギアスは好き嫌いではなく、わたしが知ってるアニメで一番面白いと思っているアニメ
・各メディアミックスはミリしら、本編小説のみ10年前くらいに読了ほぼ記憶なし、本編1期2期、映画本編と復活は視聴済み
・本編1期2期、映画本編、復活に基づいて書く

※ルルーシュとC.C.のペア、スザクとユーフェミアのペアについて触れます


 一度見て、また見よ〜と思ったことは覚えてたのでたぶん面白かったはず!と思って再視聴。二度目の復活の感想は一言で言うなら「めちゃくちゃギアス!」でした。

 コードギアス、わたしにとってはすっごく面白いけどいいところも悪いところも同じくらいあれもこれも…と挙げられるような作品で、だからわたしはシリーズで一番人気のキャラがルルーシュであることを「そりゃな!」と思っているし、そういう見方をしています。
 好き嫌いではなく、と前述しましたが個人的には「好き」です。面白いので。
 作品の傾向としては勢いが何よりあって、1話見終わった瞬間に次の話が気になってしょうがなくなるタイプのアニメだと思っています。
 そのため、あらゆる面の整合性という視点では少しツッコミどころのあるストーリーでもあるな〜と感じています。
 でも、全体で見ると面白さが圧倒的ですべて差し引きしても「これは歴史に名を残すべきアニメ」「最高!」「悔しいけどわたしの負け」と常々思うし、最初に復活を見た後もその気持ちは変わりませんでした。

 今回また見ようと思ったのは当時からいつかまた見ようと思っていたというのが一番大きいですが、こうして感想を文字に起こそうと思ったのは、当時の復活へのSNSの反応で特定のキャラへのヘイトや解釈違いではなく明らかな誤読からと思われる逃避的な感想を散見したからです。

 わたしの姿勢を明確にしますが、わたしは当時のキャラヘイトはファンの姿勢としては度を超えてひどく、誹謗中傷に値する唾棄すべき行為だったと思っています。
 そしてその当時ええ…と思うだけで自分の気持ちを整理せず、立ち位置をはっきりさせなかった自分へのリベンジが理由です。でも結果的な正誤問わず考えるのが好きだからというのもあります。

 ですがせっかくの感想を書く機会なので、特に気になったことを徒然的に書こうと思います。


 順不同

・全体的な感想について軽く
・なぜカレン一行はスザクとナナリー救出よりルルーシュ復活を優先させたのか
・「わがまま」と「諦めない」ことについて、付随して本作のルルーシュとC.C.の対比表現について
・虚無ルルーシュと奴隷C.C.について
・ルルーシュがL.L.と名乗ることを決めたことについて
・各人の変化について
・スザクについて
・C.C.について
・ルルーシュがゼロの仮面を取ってコーネリアたちに助力を乞うシーンについて
などなど

ではいきます。

*全体的な感想について


 まず全体的な感想としては「めっちゃギアス」「お祭り」「みんなが笑ってる〜!」「ルルーシュ我が道を行く男」「C.C.の笑顔」「スザク……」でした。

 ゼロレクイエムをやったって、それはラグナレクの接続を否定したうえでの計画なんだから人々が「話し合いというテーブルの上に着き続ける」わけないやん?と誰しもが思ったテーマを、ルルーシュの「明日が欲しい」という願いを軸に今の世界は本編と比べてこうなりましたよとわかりやすく描いていると感じました。
 キャラ各々が本編を経てどのように変化したか、それぞれ本編シーンをオマージュして差異を表現しているのももちろん、カレンがルルーシュに「ちょっと変わった?」と聞いたり、スザクとカレンが「君とこんな話をするようになるとは」と話したりと、本編の「明日」として描かれたシーンが一つ一つ印象的でした。

 ただ、味方側全員が全員ルルーシュのことを好意的に思っているのが良くも悪くもコードギアスだな〜とは思いました。
 扇が「今の日本があるのは君のおかげ」とルルーシュに謝っていたけど、今の平和があるのはスザクをはじめ超合衆国やWHAが尽力したからだと個人的には思うので、「僕はお飾り」だと思っているスザクも含め「やっぱりゼロはルルーシュじゃなきゃ」という空気一色なのはやりすぎだと思うし、なによりカレンたち先行隊がスザク・ナナリー救出よりルルーシュ復活を優先したことへの説明が一切なかったことはものすごく気になりました。

*カレンら先行隊がルルーシュの復活を優先させたことについて

 特にカレンら先行隊のルルーシュ復活優先は「まあキャラがそう思っているなら……」とご都合主義と思える範疇ではなく、設定として「超合衆国は感情を優先させるメンバーを重要な任務に起用していて、組織としての統率が取れていない」と取られてもおかしくない描写だと思うので、一言でも理由の説明があればなと感じました(カレン隊が普通?に感情を優先していたのならいらないですが)。

 例えば、

「行き先が大監獄なら、そこにスザクかナナリーどちらかはいる可能性が高いから調査するのに一緒に行動しよう」

「C.C.が大監獄に侵入するならスザク・ナナリーが大監獄にいた場合、スザク・ナナリー救出もルルーシュ復活も同時に行わないと警備が厳重になってしまって結果C.C.もカレン隊も動きづらくなってしまうので、ジルクスタン側がこちらの動きとして想定しておらず警備が敷かれていないだろうアラムの門から行こう」

「ルルーシュが復活してくれれば戦略的行動が取れるしギアスも使えるようになってスザク・ナナリー救出の可能性が上がるからアラムの門から行こう」

など……こんな適当な理由でもいいからなにかあればよかったと思います。

 ただ、これらのことは描かれていなくても展開からファンは予想できて然るべきだと公式側が想定しているならそれはもう「そうか……」と思うしかないとは思います。
 復活は元々、論理に寄せて話を理解(100%というわけではなく、ある程度)するには基準として「シャムナのギアスの仕様をルルーシュの視点から一発で理解できる」レベルの理解力が求められており、前述した「カレンら先行隊がルルーシュ復活を優先した」ことに気づいてそれを疑問に思うなら同時にこれくらいのことはわかるよね?と思われている可能性もなきにしもあらずです。

 コーネリア率いる特殊チームがシュナイゼルらに確認を取る前に独断でルルーシュの指揮下に入る決断をしたことについては、「人員をこれ以上増やせない」以上現場にあるものでやりきるしかないので戦力は少しでもあったほうがいいし、孤立した空間であるため指揮官である「コーネリアに判断が一任されている」と予想できるしその後連携を取っているのがわかるのでわたしは「まあそうか」と思えます。
 ただ、こうして自分を納得させる材料を自分で用意できてなお、見た瞬間の「スザクとナナリー救出は!?」という驚きはそれなりに衝撃的でした。

 そして、公式側が見る側の理解力を求めてるシーンは他にもあって、その最も代表的なものはおそらく「C.C.のわがまま」です。
 この復活でルルーシュの復活に次いで印象的だと言っても過言ではない「C.C.のわがまま」について、感じたことを詳しく書こうと思います。

*「C.C.のわがまま」について


「ルルーシュの復活はC.C.のわがまま」だというフレーズは復活においてとても印象的ですが、これをどう理解するかによって「C.C.のわがまま」に対する解釈が180度違ってしまいます。
 それは制作側の意図的な部分でもありますが、一方で本編を一通り見ているファンならこの言葉を額面通りに受け取る前に「ん?」と思うことができるフレーズであることも確かです。

「ルルーシュはかつて、シャルルからコードを受け継いだ可能性があった」
「しかしルルーシュはその後もギアスを使っていた。コードの問題が不確定なまま行われたのがゼロレクイエムだ」
「シャーリーは民間人で、どこもマークしていないので人目がつかないよう、ジェレミアが確保した場所で体を運びこんでもらった」
「そのあと、私はCの世界でルルーシュを再構築しようとした」
「私が不死身なのは、Cの世界側に構築された肉体を欠損部と入れ替えるからだ」
「問題は、ルルーシュがCの世界で神を殺したことだ。それによって私はCの世界に自由に入ることができなくなった」
「でも残っている部分もあるのだろう。いずれにせよ、ルルーシュの心は行方不明だ」
「ルルーシュの体を持った虚、心残りの成れの果て」

 これはC.C.がカレンにルルーシュの事情を説明したときのセリフをまとめたものです。まずここから、本編を一切見てなくても、

①「ルルーシュをCの世界で再構築しようとした」というセリフ
②「ルルーシュがCの世界で神を殺したことだ。それによって私はCの世界に自由に入ることができなくなった」というセリフ
③ルルーシュの体は生き返っているという事実

の3点から、「ルルーシュの再構築はCの世界でしかできず、C.C.はCの世界に入れないのに、ルルーシュの体は復活している」=『ルルーシュの体の復活にC.C.は関係ない』ということはわかるようになっています。

 加えて、本編でシャルルがV.V.からコードを奪ったシーンやC.C.がシスターからコードを押しつけられたシーンを見ているファンには、C.C.の

「シャルルからコードを受け継いだ可能性があった」
「しかしルルーシュはその後もギアスを使っていた。コードの問題が不確定なまま行われたのがゼロレクイエムだ」
「ジェレミアが確保した場所で体を運びこんでもらった」

というセリフから、『ルルーシュ死亡後、コードが継承されていればルルーシュを埋葬すると生き埋めになってしまうので、その前にコード継承の成否を確認するため遺体を運び出した』こともわかります。

 そして、『ルルーシュの体の復活にC.C.は関係ない』ことと『ルルーシュ死亡後、コードが継承されていればルルーシュを埋葬すると生き埋めになってしまうので、その前にコード継承の成否を確認するため遺体を運び出した』ことから、【ジェレミアが確保した場所に体を運んだ後、ルルーシュの体は復活したが心はCの世界から戻ってこなかったので、C.C.は世界中の門を巡り、Cの世界からルルーシュの心を取り戻すことを決めた】ことがわかるようになっています。

 そして、ここまで整理すると、本題の「C.C.のわがまま」は《Cの世界からルルーシュの心を取り戻すことを決めた》ことであることがわかります。

 つまり「C.C.のわがまま」とは《ルルーシュを永遠に虚無のまま生き埋めにするか心を取り戻すかの二択を、ルルーシュ本人そしてスザクやナナリー、カレンたちに黙って自分で勝手に決めた》ことです。

 決して、復活公開当時よく挙げられていた〈コードの問題が不確定だったルルーシュのコード継承を確定させ、勝手に復活させた〉ことではありません。これはカレンへのC.C.の説明が全て真実だった場合、解釈の幅による受け取り方の問題ではなく、確定事項です。
 そしてこれも後述しますが、ここでC.C.がカレンへ嘘をついている可能性はこの復活という映画の構成上限りなく低いです。
 なので、C.C.が〈コードの問題が不確定だったルルーシュのコード継承を確定させ、勝手に復活させた〉という読み取りはほぼ誤読です。

 しかし、C.C.の

「私はCの世界でルルーシュを再構築しようとした」

というセリフや、

「C.C.、これは、ルルーシュが望んでいたこと!?」
「約束が残っているからな、私には」
「そんなこと言って、勝手に!」
「……わかっている」

というカレンとの問答を見るに、C.C.(及び話の構成として)は意図的にカレンへ正確な経緯の伝達を避けていることも推測できるようになっています。

「私はCの世界でルルーシュを再構築しようとした」というのは正確に表すのなら「ルルーシュのコード継承が中途半端になっていて体は復活したが心はCの世界から戻ってこなかったので、Cの世界に赴いて心を取り戻そうとした」になります。ですが、C.C.はここで意図的に、ルルーシュの「何を」Cの世界で再構築しようとしたのかを明言していません。

 加えて、カレンの「そんなこと言って、勝手に!」という問いに対し、C.C.は「だったら虚無のまま生き返ったルルーシュが棺の中で永遠に生き死にを繰り返すのを放っておけというのか?」と言い返すことができました。これはカレンに対するいわゆるキラーワードで、これを言われてしまえばおそらくカレンは黙るしかありません。
 しかしC.C.はそうはせず、「わかっている」とカレンのルルーシュへの想いを受け取ることに徹しました。

 ぱっと見、というか、映画に入り込んでいて考える余地がなければ、C.C.は〈コードの問題が不確定だったルルーシュのコード継承を確定させ、勝手に体を復活させたが心まで復活させることはできなかったので心を取り戻そうとしている〉と受け取ってしまってもおかしくはない話運びです。

 C.C.は嘘をついているわけではないので話していることは全て事実であり冷静にまとめれば経緯を把握することはできますが、会話の中で瞬時に理解するのは、のちに「Cの世界とやら」と言っているCの世界に詳しくないと思われるカレンも映画に入り込んでいるファンも難しいのではないかということは推測できます。

 そして、C.C.の「約束が残っているからな、私には」というセリフから推測するに、C.C.は《ルルーシュを永遠に虚無のまま生き埋めにするか心を取り戻すかの二択から心を取り戻す選択をすること》を、『ルルーシュとの約束=ルルーシュの心を取り戻す「理由」がありその手段も残されている自分が動かなければならない』ことを理解していて、それをルルーシュ本人やスザク、ナナリー、カレンらに黙って「生き埋めにする=人の倫理に背く罪」と「心を取り戻す=ルルーシュの覚悟に背く罪」のどちらの罪を背負うか、さらにその罪を一人で背負うことを勝手に決めたことを「これは私のわがまま」だ、と言ったわけです。

 つまり、C.C.は「ルルーシュの心を取り戻したのは約束が残っている私のわがままだ、だからルルーシュを含めお前たちのゼロレクイエムへの志はなんら変わってはいないし、その覚悟は尊いままだ」ということにしたかったということです。
 このことをC.C.は「わがまま」と言っていますが、客観的に見ればこれは「貧乏くじ」です。

 C.C.、そしてスザクやカレン、ナナリーら、この映画曰く「ルルーシュの真意を知る」者たちにとっては(あの世界の一般人的には「ルルーシュなんぞずっと生き埋めにしていればいい」という意見の人がいてもおかしくなく、それは感情的に見れば妥当でさえありますが)、《ルルーシュを永遠に虚無のまま生き埋めにするか心を取り戻すかの二択》の天秤は「C.C.が勝手に選んだことがわがままになる」ほど釣り合ってなどいません。

 彼らが揃って「生き埋めしたままなんてできるわけない、その二択なら心を取り戻すしかない」というのは、誰でも容易に予想できます。でもそうなると、ゼロレクイエムや東京決戦で戦ったカレンらはどうなる?という問題が生まれます。
 カレンが咄嗟に「あれはゼロです!」と叫んだ決意は?ゼロレクイエムに臨んだスザクとルルーシュの覚悟は?ダモクレスでルルーシュが自分がいなくてももうナナリーは大丈夫だと信じた想いは?
 おそらくC.C.は、カレンと

「C.C.、これはルルーシュが望んでいたこと!?」
「約束が残っているからな、私には」

という対話や、

「ルルーシュは死ぬつもりだった、これは私のわがままだ」

というセリフを見るに、なによりルルーシュの意志を、そしてスザクらの意志を尊重したかったのだと思われ、そのために「ルルーシュがコードを継承しているかもしれない」ということを伏せて自分一人ですべてを背負おうとしていたのだと推測できます。
 そうすれば、ルルーシュの意志やスザク、カレンらの覚悟をそのままに、心を取り戻す選択をすることができるからです。

 もちろん、C.C.が「黙って勝手に決めて、勝手に行動した」ことは変わらないので、ルルーシュそしてスザクやカレン、ナナリーらはC.C.にそれを指摘する権利があります。
 逆に言えば、C.C.はそういうように「ルルーシュやスザク、カレン、ナナリーらにC.C.に責任を追及する権利を与える」ことで、きっとルルーシュがコード継承していると知ったら迷わずルルーシュを復活させようとしてくれる(さらに罪を背負おうとする)であろう彼らの平和への志を損なわせないようにしたということです。

「ルルーシュの真意を知る者たち」にとって「ルルーシュの心を取り戻すしかない」のが前提なら、この心を取り戻す役目は必ず「誰か」がやらなくてはいけません。

 だからC.C.は「約束が残っているからな、“私には”」「ルルーシュは死ぬつもりだった、これは“私の”わがままだ」と、「誰か=C.C.」であることを強調したわけです。つまり、この「誰か」は「罪を背負う者」であり「貧乏くじを引くことを決めた者」です。これが「C.C.のわがまま」の実態です。

 そう考えると、復活において、わがまま=自分勝手、自分本位という利己的なフレーズの裏側には、それと同じだけ忍耐や献身という自己犠牲的な一面があることも把握できます。
 これは、C.C.(及び話の構成として制作側)が意図的に誤謬させようとしている、〈コードの問題が不確定だったルルーシュのコード継承を確定させ、勝手に体を復活させたが心まで復活させることはできなかったので心を取り戻そうとしている〉という内容とは、文字通り180度意味が変わってきます。

 以上が、公式側が見る側の理解力を求めてる最も代表的なシーンは「C.C.のわがまま」であると私が思った理由です。

 制作側の意図として、この一連の話は、C.C.は〈コードの問題が不確定だったルルーシュのコード継承を確定させ、勝手に体を復活させたが心まで復活させることはできなかったので心を取り戻そうとしている〉と一旦感じて、そしてそれに「少し違和感を覚えて」、C.C.は《ルルーシュを永遠に虚無のまま生き埋めにするか心を取り戻すかの二択を、ルルーシュ本人そしてスザクやナナリー、カレンたちに黙って自分で勝手に決めた》のだということまで自力で辿り着き、その上で「C.C.のわがまま」の本質=「自分勝手なのと同じだけ健気で献身的な切なる想い」であると理解しなければいけません。
 長〜いですね。

 ただ、これは論理の話なので、全部すっ飛ばして直感的に、感情的に、「自分勝手なのと同じだけ健気で献身的な切なる想い」を「C.C.のわがまま」から読み取ることは可能です。
 序盤の虚無ルルーシュを献身的に世話する様子からは、本編を見たファンなら誰しもがまず「あのC.C.が!?ピザは!?」となることは必至です。論理の面が少しだけ複雑にしてある分、そのほかの描写からC.C.のそういったルルーシュへの健気な想いを直感的に読み取れるような構成にしてあると感じます。

 例えばですが、「ルルーシュにも黙って勝手に復活させちゃうなんてC.C.は相変わらずわがままだなゼロレクエイムもあるのに……、でも本編で勝手に振る舞ってたC.C.が一人で虚無ルルーシュの世話を献身的にするようになるなんて、ルルーシュのことがよっぽど大事なんだな。C.C.には約束があるし、C.C.が復活させるならしょうがないか」……みたいな感じでしょうか。論理的な理解をすっ飛ばしても、こう思えば「C.C.のわがまま」は好意寄りに受け取ることができます。
 ただし、そう思えればです。

 おそらく、これはわたしの完全に勝手な憶測ですが、復活公開直後、批判的な感想も散見されたのはこの辺りのことが深く関わっていると思います。
 直感的にC.C.のわがままを好意的に受け取ることができるには、あくまで「C.C.がルルーシュを復活させるならしょうがない」とある程度思えなくてはいけません。

 例えばゼロレクイエムや、ルルーシュとスザクの覚悟、ルルーシュが憎しみを背負って死にスザクが生という罰を受けて物語の幕が下りるというストーリー構成をなにより大切にしていたファンはそう思えない場合も往々にしてあると思います。
「C.C.のわがまま」を論理的に見たとしても、ストーリーの構成の整合性如何の前にそもそも「ルルーシュが復活するというストーリーが生まれたこと自体」納得いかないファンもそれなりにいるだろうし、C.C.がルルーシュのコード継承の可能性をみんなに黙っていたことなどは考えようによってはかなりの「自分勝手」で、これについては弁解の余地はたぶんないです。

 わたしは、仮にコード継承していたとしたらもうC.C.にもどうしようもないし、下手に可能性を挙げてゼロレクイエムを引っ掻き回すよりもコード継承していない可能性に賭けてルルーシュやスザクらの意志を尊重した方が良いと判断した……とかしか言えないですね。
 ルルーシュのギアス暴走にC.C.が気づいたのが異変を感じたからで、ルルーシュが集合無意識にギアスをかけたときC.C.に異変は起こっておらずルルーシュのギアスがコード継承可能な状態になっていたのに気づけたのはおそらく次にルルーシュがギアスを使ったとき=ゼロレクイエムの大枠を計画したのはラグナレクの接続回避直後のCの世界と考えると、C.C.がコード継承の可能性に気づけたのはゼロレクイエム計画後だと思われるので……。
 あとはコード継承の可能性を黙っていたことの影響を最も受けているルルーシュ自身が「色々言いたいことはあるが」で済ませているのでルルーシュとC.C.の間では“すでに終わったこと”なんだと第三者は納得するしかない、くらいでしょうか。

 話を戻して、そういったなによりもまず直感的な不満が先立ってしまうと、それをさらに深掘りして自身の感情と直面しつつ論理性を見出そうというのはかなり苦行であり、そもそもが娯楽であるものに対してそれを行う意義もそこまでありません(わたし自身これを書いている時点で人によるとは思いますが、一般的に考えて)。それに、ただ単純に大切にしていたものを土足で踏み荒らされるのは悲しいし悔しいことです。
 わたしがわたしのリベンジのためにこうしてネチネチと「C.C.のわがまま」に対する誤読と確定事項を明確にしていることもわたしの感情で、誰かの大切にしていたものを土足で踏み荒らしているかもしれないのは悲しいことです、人の感情の話なので。
 前置きで前述した、わたしが復活公開当初に見た、特定のキャラへのヘイトや解釈違いではなく明らかな誤読からと思われる逃避的な感想ももしかしたら根本的な構造は今わたしがしていることと同じなのかもしれないなとも思います、余談ですが。

 気を取り直して、先ほど後述すると書いた「C.C.がカレンに嘘をついている可能性は低い」ということについて詳述します。

 結論から言って、《C.C.がカレンに嘘をついている可能性が低いと考えられるのは、ルルーシュがコーネリアらに「お前たちにはもう嘘はつかない。その必要もない」と言ったから》です。
 この論は、復活において「ルルーシュとC.C.の精神性は対称的に描かれている」ことから始まります。おそらくこの「ルルーシュとC.C.の対称性」は本編のときから描かれていますが一から書くのは面倒なので省きます。

 復活での根拠は、ルルーシュ・C.C.両者とも「わがまま」で「諦めない」精神性の持ち主だと描かれているからです。

 C.C.についてはC.C.本人が「これは私のわがままだ」「私は諦めなかった」と、ルルーシュについてはギルフォードが「わがままな話だ」コーネリアが「我が弟は諦めの悪い奴だ」とセリフとして言うという、はっきりとした描写があります。
 これは「これは私のわがままだ」「わがままな話だ」と言うセリフが出たときのシチュエーションがルルーシュとC.C.で対称になっていることと、「私は諦めなかった」「我が弟は諦めの悪い奴だ」というセリフが出たタイミングがルルーシュが窮地に陥ったときと、その窮地を脱したときという一連の流れの上にあったものだということからほぼ事実だと推測できます。
 まず、「これは私のわがままだ」「わがままな話だ」と言うセリフが出たときのシチュエーションがルルーシュとC.C.で対称になっていることについて説明します。

 C.C.とルルーシュは、復活で「他人に自分のわがままを押し付け」ています。
 C.C.は「ルルーシュの復活」というわがまま、ルルーシュは「ナナリーを助けるためにコーネリアらに協力を頼む」というわがままです。

 そして、その「わがまま」を押し付けることになってしまう対象(=C.C.はルルーシュ、ルルーシュはコーネリアら先行隊)を大切に思う人々(=C.C.はカレンら、ルルーシュはコーネリアら先行隊)に対して、ルルーシュとC.C.は「せめて言い訳はせず誠実に語る」ことをしています。

 C.C.はスザクに対し「ルルーシュが生き返ったのはシャルルのコード継承による不可抗力だ、ルルーシュも私も関与していない」という言い訳もできたところを黙し、「ルルーシュは死ぬつもりだった。これは私のわがままだ」としました。
 ルルーシュは「生きていたというのは真だったか」というコーネリアに対し、「復活は俺の意志ではなくコード継承による不可抗力で、心が戻ったのもC.C.が勝手にやったことで俺は関与していない」という言い訳もできたところを黙し、「ナナリーを助け出したいけれど、自分一人ではできないから力を貸してほしい」と仮面を外して頼みました。
 ただルルーシュは直前に仮面をしたまま「それで、私抜きでうまくいくとでも?」とかコーネリアらのナナリー救出が課題となっている現状につけ込んだ発言がちょろっと出てくるのがなんともルルーシュですが……。

 ともかく、C.C.→カレン・C.C.→スザク、ルルーシュ→スザク・ルルーシュ→コーネリアらと、ルルーシュとC.C.両名が自身の現状・わがままについて他者に説明する場面がそれぞれ2回ありますが、この「せめて言い訳はせず誠実に語る」姿勢は共通しています。
 この《ルルーシュとC.C.両名とも自身の現状・わがままについて他者に説明する場面において「せめて言い訳はせず嘘をつかず、誠実に語る」姿勢が共通している》ということが、前述した「これは私のわがままだ」「わがままな話だ」と言うセリフが出たとき(“わがまま”という概念が主題になっているとき)のシチュエーションがルルーシュとC.C.で対称になっている、ということの説明になります。

 次に、「私は諦めなかった」「我が弟は諦めの悪い奴だ」というセリフが出たタイミングがルルーシュが窮地に陥ったときと、その窮地を脱したときという一連の流れの上にあったものだということについて説明します。
 C.C.はルルーシュを復活させる手立てについて、「絶望的で、針の穴ほどの光を探してずっと旅を……それでも、私は諦めなかった」と述べています。
 そして、次々と作戦が先回りされ窮地に陥ったルルーシュと「絶望的というわけか」「ああ」というやりとりをしています。

 つまり、「ルルーシュを復活させるため針の穴ほどの光を探してずっと旅をしていた」ときのC.C.の状況と、「次々と作戦を読まれ、「この状況では」と言ったとき」のルルーシュの状況は、「絶望的である」という面で対称になっています。

 そしてC.C.はルルーシュを復活させたことを「私は諦めなかった」と述べ、ルルーシュがなんとか持ち直し策を練り直して味方の体制を立て直すことができる隙を生み出したときにコーネリアが「知っておるだろう、我が弟は諦めの悪い奴だと」と述べています。
 つまり、この映画においてルルーシュもC.C.も「絶望的な状況でも諦めない」精神性の持ち主であると描写されており、ここでもルルーシュとC.C.の対称性が表れています。

 加えて、「私は諦めなかった」「我が弟は諦めの悪い奴だ」というセリフが出たタイミングがルルーシュが窮地に陥ったときとその窮地を脱したときという一連の流れの上にあったということは、この二つのセリフは明らかに意図的に被されたものだということもわかります。

 このことから、「これは私のわがままだ」「わがままな話だ」というセリフと「私は諦めなかった」「我が弟は諦めの悪い奴だ」というセリフでルルーシュとC.C.の精神性が表されている=「ルルーシュとC.C.の精神性は対称的に描かれている」ことは意図的であることが推測できます。
 なので、コーネリアらにルルーシュが「お前たちにはもう嘘はつかない。その必要もない」という姿勢であるなら、おそらくC.C.もルルーシュと同様の姿勢でカレンに接しただろうと推測できるので、C.C.がカレンに嘘をついている可能性は低いと考えられます。
 長かったですね……。

 まあ「C.C.がカレンに嘘をついている可能性は低い」というのは、前述した「C.C.のわがまま」とは《ルルーシュを永遠に虚無のまま生き埋めにするか心を取り戻すかの二択を、ルルーシュ本人スザクやナナリー、カレンたちに黙って自分で勝手に決めた》ことであり、C.C.が〈コードの問題が不確定だったルルーシュのコード継承を確定させ、勝手に復活させた〉という読み取りは誤読である、という考察の補強なので、ふーんそうなんだくらいに思ってください。
 次にルルーシュがL.L.を名乗ることを決めた経緯についてさらっと書こうと思います、考察です。今までの内容でもう書きたかったことは大方終わったのでさらっといきます。

*ルルーシュがL.L.を名乗ることを決めたことについて


 ルルーシュがどうしてL.L.を名乗ることにし、C.C.と一緒に行くことを決めたのかは本編も含めると色々書けますが面倒なので省きます。

 復活においての経緯は割と単純で、結論から言うと『ルルーシュは復活直後からカレンやスザク、ナナリーたちの世話になる気はなく、神楽耶からもらったデータの中にあった結婚式の動画を見たこととスザクとナナリーを助けるためにゼロを名乗ったことからC.C.との約束をどうやって果たすかの着想を得て、L.L.となることを決めた』のだと考察しました。

 まず「ルルーシュは復活直後からカレンやスザク、ナナリーたちの世話になる気はなく、」の部分ですが、これは復活直後、カレン、C.C.とした会話から推測できます。

「このあとだけどね、ローデュスって村から国境越えを……」
「ああ、そういうのはいいんだ」
「ルルーシュは公に救助されるわけにはいかないだろう」
「あ。そっか……」
「それに、やらねばならないことがあるしな。最短最速で敵を叩き、ナナリーを助け出す」

 これはそのときの会話です。
 ルルーシュはカレンの「ローデュスって村から国境越え」をしようという提案を「ああ、そういうのはいいんだ」と断っています。
 その後C.C.が「ルルーシュは公に救助されるわけにはいかないだろう」と補足し、ルルーシュはそれに対してさらに「それに、やらねばならないことがあるしな」と答えています。
 これはつまり「ルルーシュがカレンの提案は断ったのはナナリー救出だけが理由ではなく、公に救助されるわけにはいかないことも理由である」ということです。
 要するに『このときからルルーシュは自身の今後についてカレンら超合衆国はじめとした、“公”な人間の世話になる気はなかった』ということになります。
 これは推測ではなくほぼ確定事項だと思います、わざわざルルーシュに「それに」と言わせているという事実からして。

 そして「神楽耶からもらったデータの中にあった結婚式の動画を見たこととスザクとナナリーを助けるためにゼロを名乗ったことからC.C.との約束をどうやって果たすかの着想を得て、L.L.となることを決めた」という部分について書きます。

 本編でルルーシュはスザクを処刑から助けるためにゼロを名乗り、ナナリーが脅かされず暮らせる場所を作るために黒の騎士団を結成しました。
 復活でもルルーシュがゼロとなる経緯は同じで「スザクを助け、ナナリーを救うために、俺はルルーシュ・ランペルージとしてゼロに戻ろう」と言っています。

 要するに、ルルーシュは「目的:スザクを助けナナリーを救う」「方法:ゼロになる」という行動を一貫して取っている、ということです。

 それに神楽耶からもらった扇とヴィレッタの結婚式の動画ですが、この動画の中のみんなは楽しそうにしていて、ナナリーも「笑って」います。
 ルルーシュがスザクを助けナナリーを救うためにゼロになったこと、扇とヴィレッタの結婚式、この二つにC.C.との笑顔の約束を加味したとき、おそらくルルーシュの中では「そうか、扇とヴィレッタは結婚したのか」「もうヴィレッタはヴィレッタ・ヌゥじゃなく扇ヴィレッタなんだな」「みんな楽しそうだ……ナナリーも笑顔で……これが俺が創った世界か」「そうだ、俺はスザクを助け、ナナリーを救うためにゼロになった、なら、C.C.との約束を果たすには……」などのような考えがぼんやりと浮かんでいたのだと思います。

「約束を果たす」「結婚式」「名前を変える」「ナナリーが笑っている」「俺はC.C.に死ぬときくらい笑ってほしいと思っている」「俺はスザクとナナリーのためにゼロになった」「ならC.C.のために俺は……」みたいなことが頭をグルグルしていたんじゃないかと。
 結果、ラストでルルーシュはゼロになったときと同じように「目的:C.C.と笑顔の約束を果たす」「方法:L.L.」になるという行動を取ったのではないか、という考察です。

 ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアはスザクを処刑から助けるためにゼロを名乗り、ナナリーの居場所を作るために黒の騎士団を結成した→ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは世界と共に存在を捨てた人間なので、ルルーシュ・ランペルージとしてスザクを助けナナリーを救うためにゼロに戻る→C.C.との約束を果たすため、ルルーシュ・ランペルージとしてL.L.になる、という流れになります。

 つまり復活は、ゼロレクイエムでルルーシュ・ヴィ・ブリタニアとして死んだルルーシュが復活し、ルルーシュ・ランペルージとしてゼロに戻り、ルルーシュ・ランペルージとしてL.L.になった物語、とも言えるかもしれないと思っています。

 これは半信半疑ですが、本編からルルーシュとC.C.の関係は扇とヴィレッタの関係と対称的に、または対照的に描かれているんじゃないかとわたしは思っています。
 本編のルルーシュとシャーリーの関係とも重なっている気がするので、どちらかと言えばルルーシュとC.C.の関係とルルーシュとシャーリーの関係と扇とヴィレッタの関係がそれぞれ少しずつ、それぞれの関係を対称、または対照的に示唆しあっているのではないかなと感じています。
 本編で扇とヴィレッタの関係があんなにセンセーショナルでエモーショナル的に描かれたのは、本編ではルルーシュとC.C.の関係が大幅「共犯者」というシリアスでドライな面を主に描かれている反動、もしくは対比表現なのかなと……これは本編をじっくり見返して見ないことには半信半疑の枠を超えられませんが、ルルーシュとC.C.のその時々の状況が、扇とヴィレッタの変遷とやや重なっていると言えなくもないと感じます。
 特にルルーシュがC.C.に「死ぬときくらい笑って死ね、必ず俺が笑わせてやる」と言った約束初出のR215話の扇とヴィレッタ、ルルーシュとC.C.の状況の類似性は無視できないと思います。憶測の域を出ないことに変わりはありませんが。
 本当は扇とヴィレッタもテロリストと被テロ国家の貴族で、緊迫した敵対関係という非常にシリアスな面を持ち合わせているんですよね。

 以上のことから、『ルルーシュは復活直後からカレンやスザク、ナナリーたちの世話になる気はなく、神楽耶からもらったデータの中にあった結婚式の動画を見たこととスザクとナナリーを助けるためにゼロを名乗ったことからC.C.との約束をどうやって果たすかの着想を得て、L.L.となることを決めた』のだと考察しました。

 C.C.と一緒に行動しようと思っていた≠C.C.との笑顔の約束を果たそうと思っていた、なのでルルーシュが復活後いつからC.C.との約束のことを今後の展望の視野にいれていたかはわかりません。
 ルルーシュが復活時にわざわざ「ナリタを思い出すな」と言っていたので、もしかしたらC.C.との約束のことも復活直後から頭にあったのかもしれません。

 ナリタはルルーシュとC.C.が「ルルーシュ、お前はなぜルルーシュなんだ」「C.C.というのはやりすぎだ、人間の名前じゃない」というやりとりをしたシーンで、ルルーシュとC.C.の「名前」について話しているシーンです。
 なので、ルルーシュというキャラの思考はともかく、製作陣の意図としてはラストの「L.L.はどうかな、ダメかな」までの布石をこの時点から打っている感じでしょうか。

 本編からルルーシュをずっと「ルルーシュ様」と一貫して呼び続けていた咲世子と、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが世界から消えてもルルーシュを「陛下」と呼び続けていたロイドが、

「その呼び方、変えないといけませんね、いずれ」
「そうか、生きてるってバレたら大変」

という会話をしているのも「名前を変える」ことになるラストへの布石だと思われます。

 ただ、もしC.C.と別れて行動するパターンの可能性を考えていたなら1期15話のときのようにC.C.が去る前に立ち会えるはずなので、ルルーシュは今回C.C.が一人で行ってしまうことは考えになかったと思われます。
 なのでほぼほぼ復活直後から「公に救助されるつもりはなかった≒C.C.と一緒に行動しようと思っていた」というのは当たってるんじゃないかなとは思います。

 それと、前述した『神楽耶からもらったデータの中にあった結婚式の動画を見たことと…』が当たっていた場合、ルルーシュがスザクと話していた給水塔の下で同時にC.C.が二人の和やかな様子から「一人で旅立つこと=ルルーシュを置いて行くこと」を考えていたとしたら、ルルーシュはC.C.との約束をどうやって果たそうかぼんやり考えている一方C.C.は一人で旅立つ覚悟をしていた、という一つのテーマに続くまとまった表現として取れるかもしれません。

ルルーシュ「どいつもこいつも、俺のことは諦めろ!(俺はC.C.と行くから)」
C.C.「……(そうだな、私のわがままをこれ以上ルルーシュに押し付けようなんて烏滸がましいことだな)」

ルルーシュ「お前こそなんなんだ、人を勝手に引き戻しておいてほったらかしか、わがままな女だな!」
C.C.「???」

こういう視点で見るとコントですね。

*C.C.はなぜ一人で旅立つことにしたのか?

 ついでなので、ルルーシュがL.L.になることを決めた一方で、C.C.が一人で旅立つことを決めた経緯の考察も書きます。

 こちらもルルーシュがスザクを助けナナリーを救うためにゼロになった本編の流れを汲んでいるように、C.C.が一人で旅立つことを決めた経緯も本編からの流れを汲んでいると考えています。

 C.C.は本編で、「存在を永遠に終わらせる」という本来の契約(願い)を果たす契機を2回自分から放棄しています。
 一度目はR215話、ギアス嚮団殲滅後シャルルと対峙したときの

「お前に生きる理由があるのならわたしを殺せ、そうすればシャルルと同等の闘う力を得る」
「さようならルルーシュ、お前は優しすぎる」

のシーン、二度目はR221話、ラグナレクの接続のときです。
 R215話ではルルーシュを「さようならルルーシュ、お前は優しすぎる」と自分から突き放し、シャルルがコードを一つにしようとしたときもルルーシュの「死ぬときくらい笑って死ね、必ず俺が笑わせてやる、だから」という言葉に揺さぶられてシャルルのことも自ら突き放しています。

 R221話ではC.C.がシャルルとコードを一つにすればラグナレクの接続が完了しCの世界に還ることができたところを、ルルーシュとシャルル・マリアンヌのやりとりを聞き「シャルル、もうやめよう。烏滸がましいことだったんだよ、これは」と自らラグナレクの接続を否定しています。
 契約者マオに関しても、おそらく自らがシスターにされたようにコードを押し付けることもできたところを、C.C.はマオを置いてきたことを明かしています。

 このことからおそらく「C.C.は今までずっと、コードを継承できるにまでになったギアスユーザーがいても自ら契約を放棄してきた」ことが予想できます。
 そして、おそらくその理由が明かされたのがR221話です。

 C.C.はラグナレクの接続をやめようと思った理由を、「烏滸がましいことだった」からと言っています。
「ルルーシュたちが明日を求めているから」とか「今幸せだから」とか、なにより「ルルーシュが笑顔をくれると約束してくれたから」でもなくです。

「烏滸がましい」とは、身の程をわきまえない、とか不相応である、とかそういう意味の言葉です。基本的に「何か」があって、それに対して「自分」の立場を表す言葉になります。
 C.C.は「何」に対して「自分」は「烏滸がましい(=身の程をわきまえていない、不相応である)」と思ったのでしょうか。

 それはそのまま考えれば、契約やラグナレクの接続の影響を受ける対象、イコール今までの「契約者」や「世界中の人々」です。
 つまりC.C.は「契約者」や「世界中の人々」に対して、「自分」が「契約を果たしてもらう・ラグナレクの接続をする」ことは「烏滸がましいことだ」と思っているということです。

 C.C.がシスターからコードを受け継いだ経緯、そしてラグナレクの接続でのルルーシュとスザク、シャルルとマリアンヌの会話から推測し、C.C.が「気づいてしまったんだ、お前たちは自分が好きなだけだと」と言ったことも加味すると、C.C.にとって「契約を果たしてもらう・ラグナレクの接続をする」ことの本質は『押し付け』です。

 C.C.が「シャルルとマリアンヌは自分が好きなだけだと気づいてしまった」ということは、このラグナレクの接続の計画に賛同した経緯においてC.C.は「自分が好きなだけではなかった」ということです。 
 C.C.はおそらく「自分が好きなだけではなかった」から、ルルーシュと同じように「ルルーシュとナナリーを送り込んだ日本との戦争をやめなかった」ことに対して疑問を持っていて、それが引っかかっていて計画を渋っていたからシャルルとマリアンヌは「C.C.を説得」しなければならなくなっていたのだと思います。

 要するに、C.C.は「自分が好きなだけではなかった」から「世界中の人々」に対して「自分(C.C.)」が「ラグナレクの接続をする」ことは「烏滸がましいことだ」と思ったというわけです。

 回りくどく書きましたが、フランクに表現すると、C.C.は基本的に「人が好き」なんだと思います。

 結局誰にも自分のコードを押し付けることができなかったことや、ギアス嚮団殲滅時悲しそうな顔をしていたこと、嚮団の研究員にもC.C.様と慕われていたこと、カレンがブリタニアに捕虜として捕まったときの様子、「自分が好きなだけ」なシャルルやマリアンヌと対立した、という意味でもこれはほぼ合っていると思います。
「好きだった」マオを結局射殺してしまったことから、その好きな気持ちは歪んだ形で表出されていたとしても、その気持ち自体は本当だと思われます(マオの件は明らかにルルーシュの対称表現ですね、「好きだったよ、マオ」と言ってマオを射殺したC.C.と「たぶん、初恋だった」と言ってユフィを射殺したルルーシュ)。

 つまりラグナレクの接続を拒否したC.C.の心情を推測すると、「自分の死にたいという願いを叶えるために世界中の人々にラグナレクの接続を押し付けるのは烏滸がましい」みたいなことを思っていたのだと思われます。
 C.C.は今まで、火炙りやアイアンメイデン、ギロチンなど想像を絶する酷い扱いを受けてきたのにも関わらず、「世界中の人々」に対して「烏滸がましい」と思えるような人間なのは確定事項です。
 そしてこのC.C.の思考回路はおそらく復活でも変わっていません。

 結論から書くと、復活でのC.C.の心情は「自分の願いを叶えるために、ルルーシュやスザク、ナナリー、カレンらにルルーシュとの約束を押し付けるのは烏滸がましい」と思っていたと推測されます。

 だから本編でもそうしたように、自分から一人で旅立つ=ルルーシュを突き放しました。
 本編で誰かにギアスを与えながら結局契約を自ら放棄することを繰り返してきたC.C.は、復活でもルルーシュを復活させながら結局約束を自ら放棄しようとします。
 C.C.は「人が好き」=「ルルーシュやスザク、ナナリー、カレンらみんな好き(酷い扱いを受けてきていながら世界中の人々を好きでいられるC.C.が、世界の明日のために尽力しているスザクらを嫌いなはずないと思われる)」で、そんな大好きな人たちが楽しそうにしているのにその中に自分が割り込んで約束を『押し付け』ようなんて烏滸がましいことだ、と思ったということです。

 月虹影のコックピットでC.C.が言った「すまなかった、お前に『押し付け』る気はない。お前はここで引け、さよならだ」は明らかにR215話のオマージュ……どころかおそらくR215話でのC.C.の本心そのままです。
 本編1期25話ガウェインコックピット内、R215話黄昏の間、R221話ラグナレクの接続、復活月虹影コックピット内、復活ラスト出立時は、それぞれ物語の構図として幾つかのワードが重なっていたりオマージュされていることから相関関係にあると思われます。

 1期25話でC.C.が「お前はナナリーを」と言ってルルーシュがC.C.を置いてナナリーを探しに行くのと、復活ラストでC.C.が「は?ナナリーは?」と言ってルルーシュが「ナナリーはもう一人で立派に生きられる」とナナリーの元へいかずC.C.と一緒に旅立つことにしたのも明らかな対比表現ですし、1期25話「お前が魔女なら俺が魔王になればいいだけだ」と復活ラスト「L.L.というのはどうだ、ダメかな」も対称表現ですね。

 復活内では、本編では散々言われていた「魔女」というワードが一度も使われていないのも意図的だと思われます。
 色々書きましたが、以上の理由でわたしはC.C.がラストで一人で旅立つことを決めたのだと考察しました。

*キャラの本編からの変化について


 復活では他にも書ききれないほど本編のオマージュ、対比表現、「明日」を基準とした各キャラの本編からの変化があります。わたしが個人的に気になったこともさらっと書きます。

 まず虚無ルルーシュとC.C.がアラムの門に入って行くところからC.C.が門の前に戻ってくるまでの描写は、明らかに本編でのC.C.がルルーシュにギアスを与えた1話のシーンをC.C.の視点からオマージュしたものです。
 これは「ギアス譲渡シーンのC.C.視点」だと意識して見ればわかるので説明は省きます。
 1期、2期、復活ともに、「“死んでいた”ルルーシュがC.C.にギアスを与えられ、C.C.の「死」、他者への「死」のギアスを以ってその“生”を始める」という構図は一緒です。
 これはもう「ルルーシュの物語」=「ルルーシュの“生”」が始まる通過儀礼的描写だと思われます。
 次にルルーシュがコーネリアたちに仮面をとって助力を乞うところのシーンについてです。

*ルルーシュが仮面を取ってコーネリアと対話するシーン

 わたしはルルーシュとスザクが仲違いせずに一緒に世界を変えていくIFルートに行くにはどうしたらいいか、という一つの答えがこのシーンだと思っています。

 理由としては、最初にルルーシュとスザクが再会したとき、スザクは自身が取り押さえたテロリスト(だと思っている人間)がルルーシュだと気づいたとき、ルルーシュが「ブリタニアをぶっ壊す」と言うまでブリタニアを憎んでいることを知っていながら、「僕だよルルーシュ、スザクだ」と自身がブリタニアが一兵卒であることをヘルメットを取って明かしたことが挙げられます。

 つまり、この時点のスザクはテロリストであってもそれがルルーシュなら友好的に接してくれるということです。
 ゼロとして初めて接触したときもスザクはクロヴィスを殺したことに関しては、ルルーシュの「これは戦争だ、敵将を討ち取るのに理由がいるか?」という返しに理解は示しています。
 ここでスザクが引っかかっていたのは「間違った方法で手に入れた結果に価値はない」という自身の考えにゼロの「結果的には誰も死んでいない(から別にいいだろう)」という考えがそぐわなかったからです。

 要するに、ここでルルーシュがスザクの言葉を鑑みて考えを改めるとしていれば、ルルーシュはスザクと手を取り合えていたかもしれません。
「でも、ありがとう。助けてくれて」とお礼を言ってくれるくらいには、この時点ではまだ「考え方は認められないけど彼には彼の守りたいものがあってそのために戦っているんだろう」という感じで思っていてくれたのかなと。

 そして、スザク救出のため初めてゼロとしてカレンらレジスタンス(後の黒の騎士団)と電車内で接触したとき、カレンが「ふざけるな、口だけならなんとでも言える!顔を見せられないような奴のいうことなど信じられるか!」と言っています。
 このカレンのセリフは復活でのコーネリア(超合衆国の黒の騎士団)と合流のシーンと対比表現になっていると思われます。
 コーネリアもナリタで「好かんな、常に何かを盾にして身を守る男」と言っています。
「仮面」を取らず、「力」を見せてやる、そうすれば「少しは」信じられるだろうとカレンらに言ったルルーシュが、復活ではコーネリアらに「仮面」を取って「自分だけではナナリーを助けられないから、お前たちの力を貸してほしい」と言えるようになっています。
 そして、ルルーシュが仮面を取ったシーンで「スザク」と「カレン」が微笑み、コーネリアは最終的に「ルルーシュの指揮下に入る」ことを承諾します。

 以上のことから、わたしはルルーシュがスザクを処刑から助けたときに「俺だスザク、ルルーシュだ」と仮面を取って正体を明かし、正直に「このままではナナリーが政治の道具か陰謀の餌食になってしまう、でも自分だけではナナリーが安心できる世界を作れないからお前の力を貸してほしい」と言えばよかったんじゃないかなと思いました。

 ルルーシュは本編で何度もスザクをあの手この手で勧誘していますが、結局同陣営になれたのはブリタニア皇帝着任時だけで、ゼロレクイエムでは心は同じ方向を見つめていても体裁的な立場は「ゼロ」と「悪虐皇帝」という世界で最も対極に位置する立場になってしまいました。
 それが復活では、ルルーシュとスザク、コーネリアらは心も立場も「ナナリーを助ける」と一致団結することができました。

 その後ルルーシュがスザクに「屋根裏部屋で話そう」の合図をし給水塔で話すことになる流れも、その後学園で再会し「屋根裏部屋で話そう」の合図をして屋上で話す本編のオマージュだと思われます。
 本編では腹の探り合いがそこから始まりますが、給水塔ではお互い比較的素直に話せています。
 1期屋上シーンは向かいあって話し、2期屋上シーンはルルーシュがスザクに背を向け電話の向こうでナナリーが声を震わせながら嘘を吐いていて、復活ではナナリーが笑う結婚式の動画を一緒に見て話している、という表現の変化もルルーシュとスザクの関係性の変化をそのまま表しているようにも思えます。
 スザクの「安心したよ、無事で」と「君が生きていてよかった」も対称表現かもしれません。
 ここの給水塔のシーン、もう一つ気になることがあるのでそのまま続けます。

 復活では一つのキーワードである「諦めない」ですが、ここのルルーシュとスザクの会話でも出てきます。

「どいつもこいつも、俺のことは諦めろ」
「君が目の前にいるのにそんなふうに思えるか」
「俺はかりそめだ」

の部分です。
 端的に言って、ここでルルーシュはスザクに対して「自分のことは諦めろ」といい、スザクは一度は「君が目の前にいるのにそんなふうに思えるか」と思いを伝えますが、ルルーシュの返答に結局答えに窮してしまっています。
 ここと微妙に対比になっているのがルルーシュとC.C.の月虹影コックピット内の会話です。
 端的に言えばおそらく、「ルルーシュに対してルルーシュを諦めなかったと言い切ったC.C.」と「諦めたくない気持ちはあれど答えに窮してしまったスザク」の対比になっています。

 この復活は、「わがまま」、「諦めない」ことが一つのテーマになっています。

 ルルーシュが「わがまま」で「諦めない」人間だと描写されている以上、そのルルーシュを“納得”させるにはそれよりも強い思いを貫き通さなければなりません。
 このあと「すまない、お前に押し付ける気はない」とゼロを“押し付けなかった”C.C.と「君がゼロをやるべきだ」という言葉を撤回しなかったスザクも逆の対比になってるのかもしれません。
 この後、C.C.に鼓舞されたルルーシュはゼロとして持ち直しますが、スザクは「じゃあなスザク、それ返すから」とルルーシュにゼロを返されてしまいました。

 要するに、スザクは給水塔で「ルルーシュ、君のことは絶対に諦めない」と宣言しなければならなかったのかなと思います。
 ゼロのことは難しいですが、ルルーシュかスザク、どちらかに“押し付け合う”のではなく二人で一緒にやろうと言えればよかったのかなと推測します。

 ラグナレクの接続でのルルーシュ・スザクとシャルル・マリアンヌとのやりとりや前述したC.C.とルルーシュのやりとりを見るに、コードギアスで“「自分が好きなだけ」の「押し付け」”は厳禁です。

 なので、スザクも「わがまま」になって「諦めない」で、ルルーシュとC.C.がそうしたように、その「わがまま」を押し付けることになってしまう対象を大切に思う人々に対してせめて言い訳はせず誠実に語ることをすればよかったのだと思います。

 これにはまずスザクの「ゼロは一人であるべき」「君がやるべき」「僕はお飾り」だという固定観念をどうにかしないといけないのですが、作中でスザクはシャリオに「純然たる浅陋」と言われているので難しいかもしれません。
 コーネリアの「二人のゼロか」の意味をもう一度吟味できたり、シュナイゼルやカレン、ロイドあたりが助言してくれればいいのですが……。

 後、ルルーシュはC.C.からちゃんとコード継承の条件を聞いており、C.C.がコード継承の可能性を想定できた以上、ルルーシュがその可能性に至れないというのはおかしいと思うので、スザクはそのあたりに気づいて「でもルルーシュ、君ゼロレクイエムを計画してた時点でコードを継承している可能性には思い至ってたよね?わざと黙ってたんだからそれ相応の協力はするべきじゃないのか」とかぐいぐい行けたらいいと思います。

 しかし、ゼロレクイエム後の世界はラグナレクの接続を否定した明日の世界である以上、誰も彼もが平等はあり得ません。
 ゼロレクイエムはスザクがゼロに人生を捧げ、ルルーシュは憎しみを背負って死ぬ計画でしたが、もちろんその「スザクがゼロに人生を捧げたということの意味(重さ)」と「ルルーシュが憎しみを背負って死ぬことの意味(重さ)」がゼロレクイエム当時のままであり続けることもあり得ません。

 ルルーシュはC.C.と一緒にいられるのにスザクはユフィと死別したのはなんで、ルルーシュとスザクが罪と罰を分け合って成されたゼロレクイエムなのに、スザクはゼロをやり続けたままルルーシュだけそれを覆して生き返った上に自由に旅に出れるのはなんで……当たり前の感想ではありますが、「ラグナレクの接続を否定し、明日を求めた世界」はそういう世界なのだと思うしかないのでしょう。

 でもだからこそ、復活以降のスザクの「明日」は他の誰でもなくスザク次第なので、どうかスザクがその考えを少しでも柔軟にし、せめて「ゼロは一人じゃなくていいんだ」と思えるようになりますように、祈っています。

 スザクの考えが柔軟になりますように……と思うたびユフィの「その頑ななところも!」という言葉が蘇ってくるのはもうなんとも言えません。
 というかスザクのことに関しては本編から「ルルーシュ、君の嘘を償う方法はひとつ」「本当に正義の味方になってみろ、ついた嘘には最後まで……」とスザクが“正義の味方「ゼロ」を最後まで貫くことをルルーシュの償い”として提案していたのがなんでゼロレクイエムでルルーシュがそれをスザクに背負わせてるんだろう……みたいな……。

 ちなみにラグナレクの接続の時、ユーフェミアのことをシャルルでさえ「ユフィ」と呼んでいたのに、自分の理想を語るときは「ユーフェミアだって」と言い、スザクが「ユフィもこんなことは望んではいなかった」と言ったときは「ユフィに会わせてあげるためにここに連れてきたのに!」と言ったマリアンヌは本当に恐ろしい人間ですね。
 自分は決して愛称で呼んだりしないのに、スザクを籠絡しようとするときだけスザクに寄り添う風を装うために咄嗟に「ユフィ」と言えるマリアンヌ……Cの世界でルルーシュの心を取り戻すときもシャルルの影らしきものはありましたがマリアンヌはいませんでした。虚無ルルーシュがあんなに怯え、あのC.C.でさえびびるのもわかります。

 それとシュナイゼルも第二次東京決戦時はスザクに「生きろ」ギアスがかかっているのを知っているので、あそこではスザクがそのまま勝てるならそれでよし、負けるなら「生きろ」ギアス発動でフレイヤ投下で、どのみちシュナイゼルは得しかないのでスザクが勝とうが負けようがどうでも良かったし、トウキョウ租界の人たちのこともどうでもいいと思っていたことになります。
 これは、負ける=「捕虜になる」ではなく「死」であることが確定でなければ成り立たないので、ルルーシュとスザクの友情が決裂したことも利用していたことになりますね。
 なのでスザクはシュナイゼルのことも一回ボコっていいと思います。

*ナナリーについてのあれこれ

 スザクはルルーシュに「一緒にゼロやろう」と言えればよかったんじゃないかと書きましたが、ナナリーは「お兄様、一緒に暮らしましょう、昔みたいにまた……お兄様だけが罪を背負うことはありません!私も、同罪なのですから」で断られているんですよね。
 これはもう、ルルーシュは本編のときから元々将来的にナナリーと一緒に暮らしている想定はしていなかった、ということなんでしょうか。

 ルルーシュ、本編時から自分がいなくても大丈夫なようにスザクをナナリーの騎士にしようとしたり、ナナリーだけでも……と考えたり、ナナリーと一緒に暮らすことは考えていなかったのは繰り返し描写されています。
 ルルーシュは1期の時点でユーフェミアからナナリーはルルーシュがいれば他に何もいらないと言っていたと聞いているし、ダモクレスでもナナリー自身から「お兄様と二人で暮らせればそれでよかった」と聞いているのに最後までその願いを聞き入れることはありませんでした。
 ルルーシュにとっては「暗殺に怯え続ける未来」からの「支配には抗うことは必要」で、たとえ「ナナリーとの暮らし」を天秤にかけることになっても、どうしてもそれを見過ごすことはできなかったのだと思われます。
 ナナリーは「ルルーシュと二人で暮らせればそれでよかった」けれど、ルルーシュは「ナナリーと二人で暮らせればそれでよかったとは思えなかった」というすれ違いはダモクレスではっきり描かれています。

 ただ、「ナナリーは一人でもう立派に生きられる、そこに俺がいたら邪魔になるだけだ」と言っているので、「ナナリーのそばに俺がいたら邪魔になるだけ」だと思うようなことがなければ、ナナリーと一緒に……とまではいかなくても、ナナリーのところを拠点としてギアスのかけら集めをする、くらいの展開になっていた可能性もあるかもしれません。
 つまり、ナナリーは「一緒に暮らしましょう」と言わず、逆のことを主張できればよかったのかもと思います。

 ここ、給水塔のスザクと対称、月虹影コックピットのC.C.と対比ですね。

「ゼロは君がやるべきだ」→ルルーシュはゼロをやらず旅へ
「一緒に暮らしましょう」→ルルーシュはナナリーと離れて旅へ
「お前はここで引け」→ルルーシュは諦めず策を練り直す

 ルルーシュ、すごく天邪鬼みたいになってますね。
 多分、ナナリーについてはナナリーは「私もお兄様と同罪だから一緒に暮らしても問題ない」みたいな言い方をしていますが、ただナナリー自身がルルーシュと一緒に暮らしたいだけなのをルルーシュは見抜いていて、それが「ナナリーのそばに俺がいたら邪魔になる」=ナナリーが“お兄様”から自立する妨げになってしまう、と思ったということに加え、これもスザクの「ゼロは君がやるべきだ」同様、ナナリーの「一緒に暮らしましょう」は物語の構造的に“「自分が好きなだけ」の「押し付け」”になってしまっていた、ということなのかもしれないと推測します。

*ルルーシュという人間についてのあれこれ

 復活、ルルーシュは「じゃあなスザク、それ返すから」スザク「ゼロは君がやるべきだ」ナナリー「お兄様、一緒に暮らしましょう」と、本編では薄味のものを少しずつ時間をかけてじわじわと感じられるような構成になっていたルルーシュ、スザク、ナナリーの三者の微妙なズレが二時間弱の短い時間……というか上記のセリフやそのときの表情に濃縮して詰め込まれているのはわたしには割と劇薬でした、「ああ、そういえばそうだった……」みたいな飲み込み難い納得感がありました。

 あやふやな記憶ではありますが、復活公開当初、ルルーシュが責任もスザクもナナリーも置いて旅に出ていってしまうのは性格改変?という内容の感想を散見したのですが、わたしはゼロレクイエムからしてそういうものだと思っていたので性格の辻褄が合わないとかは思いません。

 ルルーシュがここで「責任」をとってゼロをやり、スザクとナナリーと一緒に暮らして旅に出ず留まっているような人間だったら、そもそもゼロレクイエムで世界の政治を放棄してスザクとナナリーを置いて死のうとしません。

 ゼロレクイエムは、スザクの「やるのか、どうしても」もナナリーの「私はお兄様と二人で暮らせればそれだけでよかったのに」も黒の騎士団もブリタニアも何もかもを置いてルルーシュが我が道を貫き通すエンドです。
 ゼロレクイエム、ずっとルルーシュの「責任」だった仮面をスザクに渡していたし、スザクも「やるのか、どうしても」と言っていたし、ナナリーも「お兄様だけでよかったのに」と言っていたし、実は復活ラストはルルーシュの生と死が逆転しただけでゼロレクイエムのオマージュなんじゃないでしょうか。

 C.C.の約束の話に戻りますが、もちろん、ゼロレクイエムはルルーシュが何もかもを置いて我が道を貫き通すエンドであるならば、スザクやナナリーや黒の騎士団同様、C.C.のことも置いていったことになります。
 ルルーシュは一度、C.C.との約束を果たすことを放棄しています。
 ただ、なにを置いても貫いたゼロレクイエムを経て復活したとき、ルルーシュの中でやり遂げられなかったことでもあったのだと思います。
 C.C.との笑顔の約束が、スザクの「やるのか、どうしても」とナナリーの「私はお兄様と二人で暮らせればそれだけでよかったのに」と違うところは、それがルルーシュから持ちかけた自身の望みであるということです。
 構造としては、元々ルルーシュの中に、

・スザクを助ける(処刑から助ける)
・ナナリーを救う(居場所を作る)
・マリアンヌの死の真相を突き止める
・C.C.が笑顔でいられるようにする
・生徒会のみんなとまた花火をやる
・世界を壊し、世界を作る(ゼロレクイエム)

などなどのやりたいことリストがあって、復活時にルルーシュの中で区切りがついていなかった(新たにやるべきこととして増えた)のが、

・スザクを助ける
・ナナリーを救う
・C.C.が笑顔でいられるようにする

の3点で、復活内で・スザクを助ける・ナナリーを救うを「ゼロ」になって達成し、最後に残った・C.C.が笑顔でいられるようにする、を「L.L.」になることでこれから達成しようとしている、というエンドだったのだと思います。

 ルルーシュがゼロレクイエムをやったということは、基本ルルーシュはスザクよりもナナリーよりもC.C.よりもまず「自分のやりたいことをやる」ことがなによりの人間だということです。
 けれどもそれと並行して、ルルーシュは本編を通してC.C.のことを自身の心と不可分の存在としていったのだと思われます。
 これは、スザクとユーフェミアの関係を参照するとわかりやすいと思います。

 1期20話で、スザクはユーフェミアに「ユフィに扉を開けられた」としながらも、ユーフェミアに「死なないでスザク」と言われても自身の「人を救うことに殉じることで自分が救われたい」という願いをなにより優先しました。
 しかし、「ユフィ」はスザクの中で大きな存在となり、ルルーシュとナナリーがいるところとはまた別の、スザクが一等慈しむ者が住む心の場所にユフィは存在することになります。それはユーフェミアが亡くなってなお変わらないことは本編の描写そのままです。

 このスザクとユーフェミアの関係と同じように、ルルーシュもC.C.と本編で関係を築いていったということです。1期20話の「死なないでスザク」のスザクとユーフェミアはR223話のルルーシュを思いとどまらせようとするC.C.と本質的な構造は同じですね。
 多分、1期20話のスザクとユーフェミアの流れを、ルルーシュとC.C.はR215話→R223話でやってるのだと思います。役割的には半分以上男女逆になっているところがあるので少し掴みにくい感触はありますが。

 復活ラストのルルーシュとC.C.のやりとりは1期23話のルルーシュとユーフェミアの会話を少し想起させますし、R2の物語の構造自体壮大なルルーシュ版行政特区日本からのせめて哀しみとともにです。

 これらのことを鑑みると、復活のエンディングでスザクがアーサーとひっそりとユフィのことを想って慰霊に訪れているシーンは、スザクがゼロを続けなければいけないことを思うと一層悲壮感や理不尽感が増す絵面である一方、ルルーシュとC.C.がともに行くラストを描くなら、同時に描かれて然るべきシーンでもあると思います。
 だからこそ「だったらユーフェミアを生き返らせてくれ」と言いたくなるのですが、それはもう本編でスザクがそのままルルーシュに伝え終わっているのでただ粛々とスザクはユフィを想うしかない現状がそこにあるのです、理不尽ですね、そしてそれがコードギアスという物語の構造だと解釈します。

 ルルーシュ、スザク、ナナリー、C.C.、ユーフェミアの五者の構造はおそらく、ルルーシュ・スザク両者とも根本的な人格形成はルルーシュ、スザク、ナナリーで過ごした枢木神社でのひとときが基盤になっていて、その後分たれた期間の個々の経験が17歳のルルーシュとスザクを組み上げていき、その17歳のルルーシュとスザクはそれぞれ、C.C.とユフィに出会い理解され愛され、彼女らを心の不可分とすることを決めたということなのだと思います。

 そしてナナリーはずっと「ルルーシュと二人で暮らせればそれだけでよかった」のでダモクレスまで「目を背け続けて」いましたが、世界を見つめることにし、ルルーシュと戦い、結果敗れゼロレクイエムを迎えました。
 わたしはナナリーのことは本当にわからないのですが、ナナリーの目が開いたのはルルーシュと二人で暮らすという日常(理想の世界)が崩壊し、ついにナナリーが「ルルーシュという人間」と対峙する時が来て、ナナリー自身もこうなったからには以前のままの自分ではいられないと思ったからなのかなと思っているのですが、どうなんでしょうか。

 そしてこれは本当に根拠も理屈もない仮説なのですが、「C.C.」というキャラクターは、本編ルルーシュのヒロインである「カレン」「シャーリー」「神楽耶」「ナナリー」が持つ「ルルーシュのヒロインとしての要素」の総本山的な役割を担っていたのかもしれないなと感じます。

 逆に言えば、「カレン」「シャーリー」「神楽耶」「ナナリー」は、「C.C.」という「ルルーシュのヒロイン」であるキャラクターが本来一人で担うべき(担っている描写をされるべき)役割(感情・劇的な描写・関係性)をそれぞれより深掘りして担当しているのでは?ということです。
 もちろん、全員に個々のエピソードがあり、それがそれぞれにしかないものであることは変わりません。

 ただ、

カレン…「ゼロとしてのルルーシュを守り、叱咤し支えてくれる存在」
シャーリー…「偽りの世界の中でルルーシュの本当である存在」
神楽耶…「ルルーシュの本質を理解する存在」
ナナリー…「ルルーシュが守り慈しみたいと思う存在」

という属性を全てC.C.が持ち合わせているというのは気になっています。
 そしてさらにC.C.は「ルルーシュが本音を話せる存在」「ルルーシュの生を始めてくれた存在」でもあるわけで……悩みます。

 スザクとユーフェミアが本編である意味あんなに「完璧」だったのは、ルルーシュ側で「C.C.」「カレン」「シャーリー」「神楽耶」「ナナリー」と分担して描かれていた、ルルーシュとキャラの関係性が紡ぎ出す「話を盛り上げるための劇的な画」を生み出すための深掘りを、ユーフェミアはスザクに対しほぼ一人で担っていて、それが画として明確に描写されていたからなのかなとも思います。
 そして、本編では「スザクとユーフェミア」と同格として描かれているのが「ルルーシュとC.C.」です。
 つまりスザクにとってのユーフェミアは、ルルーシュにとってはC.C.なわけです。
 ユーフェミアはスザクのヒロインとしての総本山も何もほぼ唯一無二といっても過言ではない(ナナリーもスザクのヒロインだと思います)わけですが、そのユーフェミアと対応しているのがC.C.であるならば、「ルルーシュのヒロイン」が集約されているのがC.C.であるのは自然なことだと思います。

 本編でC.C.はルルーシュの「共犯者」である面がものすごく割を占めて描かれていました。
 しかし一方では「カレン」「シャーリー」「神楽耶」「ナナリー」がルルーシュのヒロインとして持ち合わせていた要素は、少しずつ抽出されC.C.ナイズドしてC.C.とルルーシュのストーリーとして描かれています。

 これは「物語」「ストーリー」以前の話で、コードギアスの構想段階・骨組みの話なので、実際に出来上がった物語について「カレンもシャーリーも神楽耶もナナリーも全て、C.C.というヒロイン、ひいてはC.C.とルルーシュの関係性の示唆のために存在している」と主張したいわけでは全くないので、それだけは誤解しないでいただければと思います。
 実際に出来上がった物語を正面から見るしかない視聴者であるわたしから見えるものは限りなく少ないので、これは憶測以前のあやふやな疑問の域を出ることはありません。

 復活ラスト、本編のゼロレクイエムで心が苦しくなればなるほど一見「はあ?」となる気持ちもわからないではないですが、逆にゼロレクイエムを重く見ている人ほどしっかり向き合うと見えてくるものがあるシーンだとわたしは思いました。
 実際にスザクとナナリーの現状はそのままでルルーシュだけ旅に出られて有言実行できてしまっているからルルーシュに目が向いてしまうだけで、「責任」という視点で見ればルルーシュもスザクもナナリーも発言の本質は大差ないように思えます。

 ただ、ルルーシュはC.C.によってルルーシュ・ヴィ・ブリタニアを失いながらも生を取り戻し、スザクはルルーシュによってゼロでありながらも枢木スザクを取り戻し、ナナリーは昔みたいには戻れなくとも世界からルルーシュを取り戻し、C.C.は契約は相変わらず果たされずとも約束は果たされ始め、どう見てもゼロレクイエム時点からは好転しているので、わたしは「明日は今日より良くなる、そうだろルルーシュ」と思うことにしました。

 後、復活で「変化」についてを強調して描かれていたのはコーネリア、ロイド、ラクシャータあたりでしょうか。
 特にロイドは個人的にはとても変化を感じました。

 1期の頃はスザクのことをパーツだと言っていたのに、今ではゲドバッカに乗ろうとするスザクの体調をいの一番に気遣うようになりましたし、撃たれたセシルのことも誰よりも心配していて明らかに功績を上げることよりセシルの安否を気遣っていました。
 きっと中央に戻りたがっていたのも、セシルは「わかっていますよ、そういう人だってことは」と言っていましたが、ニーナの「スザクのためじゃないんですか?」の方が図星だったのではないかなと思います。
 黒の騎士団が上陸作戦を開始したときのセシルとの会話は、

「じゃ、これでちゃんとした処置ができるね」
「すいません、功績上げ損ねちゃいましたよね」
「いやいや、これでまた紛争地に行けるかもしれないじゃない、気分はもう最高におめでとう」

でした。
 研究を心配するセシルと人間(セシル)を心配するロイド、と立場が本編と逆転しています。
 ロイドは変わらず研究が好き、けれどもそれだけじゃなくなった、という変化だと受け取りました。

 コーネリアとフォーグナーの戦いも、明らかにナリタのルルーシュvsコーネリアのオマージュですが、ナリタでは「投降はせぬ。皇女として最後まで戦う」と言っていたコーネリアが、フォーグナーに戦いの美学を強要することなく国を憂う部下の気持ちを察し「やめよ」と言えるようになっています。

 ラクシャータもかつて黒の騎士団でルルーシュのギアスが発覚し今後の処遇について話し合うことになったとき「私パス」と面倒事は放棄していたのに、今回は自らシュナイゼルに「私には話せないこと?」と尋ね問題解決に乗り出しています。

 カレンとスザクに関しては、スザクが復活内で唯一、声を出して笑ったのがカレンとの会話なのがもう……本編を思えば感無量です。
 カレンはスザクに「私にとってゼロは記号じゃないから、スザクにそう名乗られると困っちゃう」と言っています。
 この一言だけで「ああカレンは一緒に戦ってきたゼロのルルーシュが大切でそれは譲れなくて、でもスザクがゼロとして頑張っているのも知っているから「スザクのゼロはゼロじゃない」とも思えないし思いたくもなくてどう接していいか迷っているけど、でも確かにスザクのことはとても心配している」のが伝わってきます。
「困っちゃう」のは、カレンが「スザクのことをちゃんと考えている」からです。
 二人はナイトメアという共通のニッチな話題で盛り上がれるし、自分の領分は大事にしつつ等身大でぶつかっていけるカレンなら、不器用で頑張りすぎてしまって周囲から少し孤立しがちなスザクともうまくやっていけるんじゃないかなと思わせてくれるシーンでした。
 1期の19話とかも見るに、カレンとスザクは持ちつ持たれつの友達になれそうな気がするんですが、どうなんでしょうか。

 そしてルルーシュですが、彼に関してはカレンが「ちょっと変わった?」と尋ねている通り、特に変化にフィーチャーして描かれています。
 まず、咲世子が「今回の関係者、処理しなくて良いのでしょうか」と言っている通り、以前ならギアスをかけてきた人々は情報漏洩などのリスクを鑑みてか文字通り処理してきたところ、ルルーシュは「自由にしてやれ」と返しています。

 このことから、ルルーシュは「自分が殺そうと思ったら躊躇なく殺すが、そうじゃなければできるだけ犠牲を出さないようにする」ようになったのだと思われます。

 完全に不殺精神になったわけではないところが、カレン曰く「ちょっと」というわけです。
 ギアスについても同じようなスタンスに変わったのかもしれません。
 変化の塩梅はロイドと同じ感じでしょうか。
 一度シャムナの無限新生に諦めかけたが持ち直したのも、1期のブラック・リベリオン、2期の第二次東京決戦を考えると最後まで逃げずに戦い切ったといえるでしょうし、2期のvsシュナイゼルではシンクーに「味方を犠牲にすることが前提とは!」と非難されていたのが、ハシュベスの戸惑いでは「生きろ、それが全てである!」と味方の無事を何より優先できるようになっています。
 わかりやすいですね。

 C.C.についても軽く触れておくと、C.C.は以前は「死という果実を得るためにルルーシュを利用していた。ルルーシュが生き残ることだけを優先して」と言っていましたが、今では真っ先にルルーシュに「スザクやカレン、コーネリアたちを見殺しにすることになるぞ」と進言しています。
 ここもブラック・リベリオンでナナリーが連れ去られたことを「お前の生きる目的なのだろう」とルルーシュに伝え、黒の騎士団よりもルルーシュの生きる目的の保護を優先していたときと比べると顕著ですね。

*扇要というキャラクターとファンと公式について

 最後に扇ですが、これはどう判断していいか迷います。
 扇はルルーシュに裏切ってしまったことを謝っていますが、これは扇の変化というよりは、本編放送当時のファンの反応を反映したもののように見えました。

 ルルーシュがシャムナの無限新生により窮地に陥って作戦が滞り持久戦になったときも、ルルーシュ頼りにならず各々考えてどうにか持ち堪えていたのは、ほぼルルーシュ頼りだった本編のブラック・リベリオン、第二次東京決戦からの「黒の騎士団としての変化」になっていると思いますが、「各々考えて」いたのは扇ではなくゼロへの連絡手段を確保した玉城です。

 個人的に言えば、わたしは扇はルルーシュに謝る必要はなかったと思います。
 本編でルルーシュが黒の騎士団の面々を駒だと思っていたのは事実ですし、ルルーシュがナナリーを何より優先したときには団員たちを見捨ててきたのも事実です。

 そして扇は扇なりに黒の騎士団の団員たちのことを考えて行動してきたはずです。
 であれば、ルルーシュを裏切ったことでシュナイゼルに利用されてしまったことを悔やむなら、謝るべきはルルーシュではなく黒の騎士団の団員たちだと思います。
 自害して謝罪の代わりに……というのも、ヴィレッタと息子を思えば軽率であると言わざるを得ません。

 実際に団員たちに謝った設定があるかどうかではなく、「映画の中で描写されるべき」だったのはどちらかといえばルルーシュへの謝罪ではなく団員たちへの謝罪だったんじゃないかなとわたしは思っています。

 わたしはこの扇のルルーシュへの謝罪のシーンを見たとき、「はい、これが当時のファンを反映したものです」と公式に叩きつけられた気がしました。勝手な思い込みではありますが、少し悲しかったです。
 ただ、公式はちゃんとファンの反応を見ていて、本当にファンの求めているものを追求する気もあれば茶目っ気を出す気もあればガッツリ儲ける気もあり、何より自分たちが本当に描きたいと思ったことは描き切るということが復活ではっきりしたと思います。
 公式に言及したのでついでに書きます。

*「L.L.はどうだ?だめかな」というセリフがプロポーズであるということについて

 詳しくは知らないので完全なる憶測ですが、公式の「ルルーシュのL.L.はどうだはプロポーズ」発言は、前述した考察を踏まえ、結婚しようと直球で言ったわけではないけれどL.L.になることを決めた着想元には「結婚式」「C.C.との約束」も含まれており実質プロポーズみたいなもの、なのでプロポーズと表現したのだと思っています。

 後はC.C.のギアスが「愛される」ことだったことや、お前が魔女なら俺が魔王になればいいだけだと言ったことや、死ぬときくらい笑って死ね必ず俺が笑わせてやる=C.C.が死ぬときに笑えるような人生にしてやる(R215話でわざわざルルーシュとC.C.に「人生」についてを討論させたことを鑑みると、C.C.が死ぬときに笑っているような世界を、ということではなく、C.C.に笑えるような人生を俺が、という意味だと思います)、ということをそれぞれ加味すると、それぞれの要素が編まれてできるものは……ということだと感じました。

 それと、復活ラストのC.C.の心情をラグナレクの接続のときのやりとりから考察しましたが、少し逆のこともしてみようと思います。

 復活ラスト、C.C.はルルーシュを置いて一人で旅立ちますが、直前のカレンとのやりとりの様子やルルーシュ・スザク・ナナリーのやりとりをじっと名残惜しそうに見つめていたことから、ルルーシュに未練があったことは予想できます。
 であれば、もしかしたらC.C.はラグナレクの接続を否定しましたが、まだ「死ぬこと」については未練があるんじゃないかなと思いました。
 ラグナレクの接続を否定した理由も「烏滸がましいことだ」からであって、「死にたい」という願いが変わったかどうかは伏せられています。
 ラグナレクの接続と復活ラストの構図が重なってるとすると、復活ラストでルルーシュに未練があるなら、ラグナレクの接続のときも「死ぬこと」に未練があったかもしれません。

 だとすれば、復活後L.L.とC.C.はギアスのかけら集めに旅に出ますが、本編から推測するに基本「生きたい」ルルーシュとはいつか反発するときが来るかもしれないとも思います。
 ルルーシュは基本的に「生きたい」人間なので不老不死も割り切っていけそうですが、もしC.C.が「死にたい」という思いを捨てきれていないのなら不老不死を割り切れていないことになります。
 なのでL.L.とC.C.はいつかコードの処遇を巡って対立してしまう日が来るかもしれないなと少し思います。

 でもこれもスザクと同様L.L.とC.C.の歩み寄る努力次第ですし、コードギアスで描かれたペア……スザクとユーフェミア・シャルルとマリアンヌ・扇とヴィレッタなどを見るにすでに思いが通じ合ったペアが仲違いする描写はないので、公式の価値観としてはL.L.とC.C.はもう仲違いする次元にはないかもしれませんが……なんとも言えません。

 ちなみにわたしは、ルルーシュは「生きたい」、スザクは「理想通りに死にたい」、C.C.は「死にたい」、ナナリーは「理想通りに生きたい」だと思っていて、カレンのことは「自分のことをレジスタンスだと思っている女子高生」で、C.C.は「自分のことを魔女だと思っている少女」だと思っています。

*虚無ルルーシュについて

 最後に虚無ルルーシュについて少し書きます。
 わたしは虚無ルルーシュのときの特徴的な行動が、本来のルルーシュの根底の人格なのかなと疑っています。

 虚無ルルーシュの性格で特に顕著だった、ビビりについて焦点を当てて書きます。
 これは前述したルルーシュとC.C.の対称表現が理由の一つになっています。

 復活でC.C.がカレンにルルーシュ復活の経緯を説明しているとき、C.C.はずっともこちーを抱え、もこちーの耳を触りながら話していました。
 復活ラストのもこちーがC.C.の心情表現のシンボルとして使われていたことを見るに、おそらくこの行動は不安な心の表れだと推測できます。
 C.C.はカレンを真っ直ぐに見据え、今までのときのように高圧的に振る舞っていれば楽だったところをただ淡々と話していました。
 ギアスを与えられる前の奴隷だった頃のC.C.も、環境要因も大きいことは予想できるものの作中屈指のビビりであることは描写されており、これは完全に憶測ですがこのときのC.C.はルルーシュの心を取り戻せる可能性が絶望的だったことや「私のわがまま」だと全てを背負おうとしていたことなども含めて、相当心細い心境であったことは想像できます。
 それに加え、カレンにそれを誠実に逃げずに話すというのは、今まで言いたくないことは言わずにのらりくらりと躱してきたC.C.にとっては人並み以上に勇気のいる行為だったのではないでしょうか。

 そして、この場面と対称になっているルルーシュ側のシーンが、コーネリアらにナナリー救出の協力を要請するシーンです。
 復活でルルーシュはコーネリアらにゼロの仮面を取って話しました。
 このシーンのルルーシュは見た目は毅然として話していましたが、C.C.のシーンと対称になっているとすると、ルルーシュも相当心細かったことになります。

 二つ目の理由は、シャルルの本来の性格がビビりであると思われることです。
 これはほぼ確定で、Cの世界にあった幼いシャルルと幼いV.V.の絵画に描かれていたシャルルが、V.V.の後ろに隠れてめちゃくちゃビビっていたからです。

 本編を見る限りおそらくルルーシュ・ナナリー兄妹は、見た目の遺伝はルルーシュはマリアンヌから、ナナリーはシャルルから、根底的な性格の相似はルルーシュはシャルル、ナナリーはマリアンヌになっています。
 本編でV.V.もルルーシュのことを「君はシャルルに似ているから」と言っています。ということは、シャルルがビビりである以上、ルルーシュもビビりである可能性もあるということです。

 C.C.が「せめて言い訳はせず誠実に語る」とき高圧的な態度を捨てて相手の目を見据えて話しているなら、ルルーシュの攻撃的で高慢な態度もビビりな心を隠すためか、その裏返しとして表出したものかもしれないと考えられます。
 一応ルルーシュも、仮面を外した後の態度は煽るような言い方をしたり攻撃的な態度を取ったりはしていません。

 この「ルルーシュ本当はかなりビビり説」の根拠はこの通りまだ薄いのでこういう可能性もあるんじゃないかな?くらいの感触ですが、虚無ルルーシュがルルーシュの根底の人格に寄せて描かれているというのは、虚無ルルーシュが「ビビり」「面倒見がいい(カレンの頭を撫でている)」「好奇心旺盛(川の流れや万華鏡を見つめている)」「一極集中型(ナナリーのニュースを見ているときはC.C.の話を聞いていない、カレンにナイフを向けられてもすぐ万華鏡に戻る)」などを見るに、本編のルルーシュの性格と相似している部分もあるのでそれなりに当たっている可能性はあると思います。

*復活総括


 ルルーシュはスザクになにも伝えず相変わらずスザクとナナリーの意見を聞くだけで叶えずに自己満足してるしスザクはユフィの魂が優しい光を湛えていたことを知らないしスザクの努力をスザク自身が軽んじてしまっているしC.C.が傷つくことを心配してるのはルルーシュだけだしC.C.も「長く生きすぎて先延ばしにするのが当たり前になってるんじゃないの」と言われても結局なにも言えなかったし扇はあの様子でヴィレッタと息子がかわいそうだし、ルルーシュがいや〜俺かりそめなんで〜って言ったときそれ絶対もうゼロやりたくないだけでは!?ゼロの話題早く切り上げようとしているところを見るにルルーシュ故意犯だよね!?ってスザクを思えばやるせなくて、でもルルーシュは肩の荷が降りたようにホッとしたような顔をしているしスザクは枢木スザクとして笑ったしC.C.はカレンと話せたしカレンの涙はルルーシュにやっと届いたしコーネリアはフォーグナーに「やめよ」と言えたしジノは自分のやるべきことを見定めて邁進しているしニーナはもうとっくに自分の答えを出してるしジェレミアとアーニャは「ジェリーが怒る」の一言でのどかで充実したオレンジ農家ライフを送っているのがわかるしヴィレッタと扇の息子は穏やかで幸せそうでニュースキャスターの型通りの報道からでさえナナリーが慕われているのがわかるしナイトメアが平和利用され始めてるのもわかるしルルーシュに一番最初に気づいたのは咲世子でカレンはやっぱり世間話の天才で、キラキラしているところを挙げたらキリがなくて……何よりとても面白くて、「言いたいことは色々あるけど、」って思った瞬間「言いたいことはいろいろあるが、ただいま」とルルーシュに先んじて言われていたことに気づいてKOでした。
 コードギアスに勝てない。

最後の最後に

 コードギアスの人間関係は言葉よりもキスよりも、二者が互いに伸ばし合う手(銃や剣も含む)の様子がなによりその瞬間の関係を端的に表していると思われます。
 外伝系にも共通してるようなので、基礎的な描写なのだと思います。

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