夏目漱石「坊っちゃん」⑨ 「坊っちゃん」は坊っちゃんの遺書である(2)

「坊っちゃん」が、「坊っちゃんの遺書」であることについて、前回の投稿の続きから

6、「七」で急に自殺の話

繰り返すが主人公である坊っちゃんの語り口は快活なので、物語の雰囲気は全体的に明るい。私も読んでいて坊っちゃんの流暢なおしゃべりが聞こえてくるようだった。

しかし、そんな坊っちゃんが、唐突に自殺について考える場面が出てくるのである。
坊っちゃんは四国に赴任してすぐ、同僚教師「山嵐」に紹介された家で下宿する。しかしその下宿の爺さんが坊っちゃんに偽物の骨董品をしつこく売りつけようとし、坊っちゃんが断り続けていると、爺さんは坊っちゃんについて虚偽の悪口を山嵐に吹き込み、山嵐と坊っちゃんが口論になる。
坊っちゃんはその下宿を引き払い、元の下宿を出て違う下宿を探して移った。
そこで坊っちゃんは急に考え出す。

こうして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を縊(くく)っちゃ先祖に済まない上に、外聞が悪い。
(「七」 ※著作権切れにより引用自由)

この後すぐに坊っちゃんは清のことを考え出すので、物語中、自殺についてふれたのはこの一節だけである。

ここに、私は妙な違和感を覚えた。

状況としても、確かに下宿のことや同僚との口論で、憤りはたまっているだろうが、「生きてる」ことすら断念し首をくくるろうかと考えるほどの悩みとは、とても思えない。
坊っちゃんは、快活な口調で語り、また赤シャツを殴るという活発な行動をしていながら、実は自分の人生について、元から既にあきらめていた気持ちがあったのではないだろうか。だからこそすぐに首を~などという発想が出たのでは。

そして、他でふれたように坊っちゃんの状況はその後も、自殺について考えていた四国滞在時よりも、清の死去や転職により、さらに悪化したものになっている。

なお、まったくの余談ですが、ふと、世をはかなもうと考えてしまった際に「あの世でご先祖に合わす顔がないな」と考える気持ちは、私はわかります。これは決してこの世の人達に対して気持ちがないというわけではなく、本当にふと、あの世のご先祖のことを思ったのです。

7、清の遺言がおかしい

(1)まるで早期の死去を願うよう

物語の末尾でふれられる、清の坊っちゃんに対する遺言。これが少し変だ。

まず、ここは理解できる。

死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺に埋めて下さい。
(「十一」)

ここまではわかる。しかし、これに続く遺言には違和感がある。

御墓の中で坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

清が坊っちゃんに対して発した最後の言葉、おさらく清が人生で最後に発したであろう言葉は、
御墓の中で坊っちゃんの来るのを楽しみに待っております
なのです。

年老いた人が若い人に贈る遺言として、少し違和感をおぼえないだろうか。

たとえば坊っちゃんにもっと幸せになってほしいとか、今後はこういった人生を送ってほしいとか、こんな奥さんと結婚してほしいとか、健康に気を付けてとかいう言葉ではないのである。ましてや坊っちゃんに長生きしてほしいでもない。
坊っちゃんの今後や未来について清は、一言もふれていない。
逆に、あなたが亡くなってお墓に来るのを「楽しみに」待っております、というのですある。
悪意的に言い換えれば「あなたが亡くなるのが楽しみです」となる。
これがまだ、何十年も連れ添った老夫婦で互いにもう先は長くないことを理解している人同士であれば、このような遺言もわかる。うら覚えだが横山光輝のマンガ「三国志」にも、劉備玄徳が戦いに明け暮れた人生の末に亡くなる際、既に死んだ義兄弟の張飛があの世から呼びかけていると語り、「張飛め、早く来いとせかしよるわ、、、」とつぶやいて亡くなる場面があった記憶だ。この時劉備玄徳は63歳である。
しかし坊っちゃんは、四国赴任時点においてまだ20歳代前半である。

まるで清が坊っちゃんに対し、私のいるあの世まで早く、なるべく早く来てほしいと頼んでいるようではないだろうか。
ちょうど坊っちゃんが四国に行ってしまうのを悲しんでいた清が、坊っちゃんが1か月で教員を辞めて突如東京に戻ったのを、理由もなにも聞かず
あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。(「十一」)
と喜んだように。

清がわざわざ、このような言葉を最後に残したということが、その後の坊っちゃんの人生は、あまり長くないことを清が(無意識にせよ)推測している、あるいは清の死後、すぐに坊っちゃんは清のもとくるであろうと想像している暗に示しているのでは、そう思った。
前の記事でふれた清が坊っちゃんが子供の頃から「何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合せだと無暗に」言っていた(「一」)事実と合わせるとさらにそう感じるのである。

(2)坊っちゃんのツッコミなし

また、坊っちゃんがこの清の遺言について、なにもつっこんでいないのである。
これまで坊っちゃんは清の言葉や手紙に漫才のボケとツッコミのように突っ込んでいたのだが(例・坊っちゃんの四国赴任が決まりほしい土産を聞かれた清が、「越後の笹飴が食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。(中略)「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。(「一」))、それがこの遺言に対してはなにもない。
これまでの坊っちゃんならたとえばその遺言を聞いて、「婆さんまるで俺が早く死んでほしいみたいな遺言だな。」ぐらいの反応があってもよさそうだ。
しかし坊っちゃんもこの清の遺言を、そのまま受け入れているのである。自身が墓に入るのを「楽しみに待っております」と言い、未来や健康について一切なにもふれていない遺言を。

8、最後がお墓の場所

もう一度、「坊っちゃん」の最後の一節を示す。

死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺に埋めて下さい。御墓の中で坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
(「十一」)

小説「坊っちゃん」は、「だから清の墓は小日向の養源寺にある。」この言葉で締めくくられる。
これにも、少し違和感を覚えた。
あえて「小日向の」「養源寺」と、具体的な地名と、お墓のある寺の具体名を、わざわざ示す必要はあるのだろうか。末尾はたとえば「だから清の墓を家の菩提寺に建ててやった。」でもいいような気がする。むろん詩的・文学的表現としては味気ないが。

そこをあえて、①「具体的な地名」と、②「具体的なお寺の名称」まで、わざわざ明示しているのである。

しかもその具体的明示が、この「坊っちゃん」という小説の、最後の、最後の一言なのである。

主人公は自身の四国での赴任先については、どの県なのかすらも示していない。それが清のお墓についてだけは、かなり具体的に特定している。
またそもそも、主人公が東京のどこで生まれ育って、家族や清と暮らしていたのかも、具体的な地名は示されていない(なお両親の死後に生家を売却した後「神田の小川町(おがわちょう)に下宿していた。」ことはなぜか明記がある)。自身の生家について、大まかな地名すら示していない主人公が、お墓の場所だけは、随分と具体的に示している。

これは主人公が、このお話の読み手に向けて、自分の死後、どこにあるどのお寺に埋葬すればよいかがすぐわかるように、わざわざお寺の名称と具体的地名をあえて特定して書いた。
そう私は解釈した。

さらには、亡くなってしまえばもう自分が清の墓参りができない。だから誰か「小日向の養源寺」まで行って清のお墓参りをしてほしい、との坊っちゃんの思い、それも込められているのではないか、そう感じた。

つまり、この「坊っちゃん」というお話は、坊っちゃんの遺書なのでは、と。


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