夏目漱石「行人」考察 芳江は一郎と直の子ではない?(6) Hさんの手紙

1、Hさんの手紙でも一切ふれられない娘・芳江


(1)「三十七」の家族話

「行人」は終盤、一郎の友人・「Hさん」から二郎に宛てた長い長い手紙で締めくくられる。
この手紙は「塵労」の二十八章の途中~最終五十二章まで続く。一郎とHさんが二人で旅行している最中にHさんが記したことになっている。

そして例によって、この計二十四章に渡る手紙で知らされる一郎とHとの会話の中で、一度も、ただの一度も芳江についてはふれられない。
お貞さんには色々とふれているのにである。

しかも「三十七」においては長野家族について以下のようにあれこれ言われているのに、芳江だけが、なにもふれられない。

―― 私はその時始めて兄さんの口から、彼がただ社会に立ってのみならず、家庭にあっても一様に孤独であるという痛ましい自白を聞かされました。兄さんは親しい私に対して疑念を持っている以上に、その家族の誰彼を疑っている様でした。兄さんの眼には御父さんも御母さんも偽の器なのです。細君は殊にそう見えるらしいのです。兄さんはその細君の頭にこの間手を加えたと云いました。
(略)
―― ただ御参考までに一言注意して置きますが、兄さんはその時御両親や奥さんに就いて、抽象的ながら云々されたに拘わらず、貴方に関しては、二郎という名前さえ口にされませんでした。それからお重さんとかいう妹さんの事に就ても何も云われませんでした。

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

ここで、わざわざ「御両親や奥さんに就いて、抽象的ながら云々された」、二郎とお重については「名前さえ口にされませんでした」「何も云われませんでした」と書かれているのに、芳江についてだけは、口にしたのかしてないのかも、なにも記されていないのである。
わざわざ他の家族・血族には全員ふれながらだ。

たしかに「疑念」「偽りの器」云々といった文脈から、子どもについては「疑念」の対象ではないからふれていないとも読めなくはない。
しかし逆にその文脈でいえばたとえば、「兄さんにはまだ幼いわが子ですら疑う気持ちがあるということでした」とか、逆に「家族で疑念の対象でないのは芳江という幼い子一人だけのようでした」とか話があってもよさそうでもある。

私はここでも、夏目漱石が
「他の血族全員にふれられてるのに芳江だけ出てこないことに気づいてくれよ」
と言っているように聞こえる。

(2)芳江は一郎に「所有」もされておらず顔に邪念があるとされている

(Hさんの手紙によれば)「三十三」で一郎が他人の顔についてこう熱く語り出す。

 ―― 電車の中やなにかで、不図眼を上げて向こう側を見ると、如何にも苦のなさそうな顔に出っ食わす事がある。自分の眼が、ひとたびその邪念の萌さないぽかんとした顔に注ぐ瞬間に、僕はしみじみ嬉しいという刺激を総身に受ける。僕の心は旱魃に枯れかかった稲の穂が豪雨を得たように蘇える。同時にその顔――何も考えていない、全く落付払ったその顔が、大変気高く見える。(略)
 兄さんはその時電車のなかで偶然見当たる尊い顔の部類の中へ、私を加えました。(略)
 「君でも一日のうちに、損も徳も要らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ」


ここで挙げられた、「如何にも苦のなさそうな顔」「邪念の萌さないぽかんとした顔」「善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事」これらすべて、子どもの顔によくあること・子どもの顔についていかにも形容されそうな言い回しではないか。
しかしここでも、一郎はHや電車の中の他人の顔を例に挙げながら、我が子・芳江については全く一言もふれないのである。
またHも、「ならば芳江という娘さんの顔も尊いんじゃないか」とは言わないのである。

上記の言い回しを裏返せば、一郎にとって芳江の顔は
「苦がありそうな顔」
「邪念がきざしておりぽかんとしてない顔」
「善悪の意識があり天然の心をそのままでは表わしていない顔」
ということなのだろうか。

あるいは、一郎はそもそも芳江の顔を見たくないのだろうか。

さらに一郎とHは「三十六」、「四十七」、「四十八」において、「所有」云々を語り出す。

 兄さんは時々立ち留まって茂みの中に咲いている百合を眺めました。一度などは白い花片をとくに指さして、「あれは僕の所有だ」と断りました。(略)兄さんは又足の下に見える森だの谷だのを指して、「あれ等も悉く僕の所有だ」と云いました。
(三十六)

―― 兄さんは物静かな屋敷から、谷一つ隔てて向うの崖の高い松を見上げた時、「好いな」と云って其処へ腰を卸しました。
「あの松も君の所有だ」
 私は慰めるような口調で、わざと兄さんの口吻を真似て見せました。

(四十七)

 薄の根には蟹が這っていました。小さな蟹でした。親指の爪位の大きさしかありません。それが一匹ではないのです。しばらく見ているうちに、一匹が二匹になり、二匹が三匹になるのです。仕舞には彼処にも此処にも蒼蠅い程眼に着き出します。
「薄の葉を渡る奴があるよ」
 兄さんはこんな観察をして、まだ動かずに立っています。

(四十七)

「先刻君は蟹を所有していたじゃないか」
 私が兄さんに突然こう云い掛けますと、兄さんは珍しくあははと声を立てて愉快そうに笑いました。

(略)
「君は絶対々々と云って、この間むずかしい議論をしたが、何もそう面倒な無理をして、絶対なんかに這入る必要はないじゃないか。ああいう風に蟹に見惚れてさえいれば、少しも苦しくはあるまいがね。(略)
(四十八)

これら、百合・森・谷・松・蟹について「所有」しているとしながら、芳江については所有しているとも、所有していないとも語られないのである。あるいは「あれは僕の所有ではなく直の所有だ」とも、全く語られないのである。
特に「四十八」の「ああいう風に蟹に見惚れてさえいれば、少しも苦しくはあるまいがね。」の対象は、蟹よりも幼い娘のほうが似合いそうと思える。しかし一郎にとって芳江はその対象ではないと。

むろん仮に実の親子だとしても、不仲なケースはあるだろう。しかしそれならばそれで、一郎が「僕は蟹なら所有できるが我が子は所有できない」と語り出すとか、Hが「君は蟹を所有するようには芳江さんという娘を所有できないのか」と聞くとか、たとえマイナスな方向でもふれることはあってもよさそうだ。
しかし、プラスの文脈にせよ否定的な文脈にせよ、芳江については全くふれられない。一郎も、Hも。

(3)死ぬか、精神病むか、宗教か― 芳江はどうなる?

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんは果してこう云い出しました。その時の兄さんの顔は、寧ろ絶望の谷に赴く人の様に見えました。
「然し宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食い留められそうだ。なればまあ気違だな。
(略)

(三十九)

一部読者では「一郎の三択」といわれる語りである。
ここでも例によって、もしその選択をしたら残された芳江はどうなるのか?については全くなんにもふれられない。例によってHがふれることもない。

以前の記事でふれたが母である直も、自死について考えているとしながら、その場合に芳江がどうなるか・どうするつもりかについて全くふれなかった。(「―― 死ぬ事は、死ぬ事だけはどうしたって心の中で忘れた日はありゃしないわ。だから嘘だと思うなら、和歌の浦まで伴れて行って頂戴。屹度浪の中へ飛び込んで死んで見せるから」(「兄」三十七)
そしてこれを聞いている二郎も、直に芳江のことを聞くことも、心で想起することもなかった。一郎に対するHのように。

Hからの手紙の内容をこの観点からまとめる。

・一郎の家族については、芳江以外全員一度はふれられている。芳江だけふれられない
・「邪念のない顔」の話の中で、芳江がそうだとも違うとも語られない。
・百合や蟹は所有しているが、芳江は所有だともそうでないともふれられない
・自死や精神を病むことや宗教を気にしながら、その場合に芳江がどうなるかは全く気にされない
・モハメッドやマラルメやシモンズや香厳について云々されているが、芳江については一言もふれない

上にも書いたが、別に実の親子だからといって愛情があるとは限らないだろう。しかしそれならばそれで、愛情がわかない・仲が好くないことについて一言ぐらいあってもよさそうではある。
しかしその方向でも、全く何一つ、少しも言及されないのである。

つまり、芳江は直と一郎の実の子ではないと。

推測するに、直側の親族からの養子だと。

ではなぜ、一郎夫妻は養子を取らなければならなかったのか?

これについてふれていきたい。

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