見出し画像

敗戦を挟む77年の重み ブログより再録「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」

77年目の「終戦記念日」です。
明治維新から77年後の敗戦。
富国強兵・殖産興業を掲げて、欧米列強に追いつくべく、現在のロシアと重なる「力による現状変更」に邁進した77年から、無条件降伏を挟んで、曲がりなりにも戦争をせずに歩んできた77年。
その重みを想います。

10年余り投稿を続けた「ウェブリブログ」が閉鎖されるのを機に始めた、このnote。ブログに投稿した記事の中から、投稿から間をおいても、しばしば閲覧されている記事をさかのぼってピックアップし、再録しています。

今日は、敗戦にちなみ、シベリア抑留に関する記事をご紹介します。
2019年9月29日付の、「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」と題する記事です。

以下再録

シベリア抑留者の遺骨収集をめぐる問題で、厚労省の数々の問題が報じられる中、辺見じゅん氏の「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」を読みました。

昭和61年、読売新聞社などが主催した「昭和の遺書」の募集に応じて寄せられた沢山の遺書の中に、山本幡男さんの遺書がありました。
旧ソ連に抑留された日本人が、死を前に祖国の家族にあてた遺書でした。
本文、母宛て、妻宛て、および子供たち宛てに分けられた、ノート15ページにわたる遺書は、いかなる文書の持ち出しも禁止するソ連当局の目をかいくぐるため、数人で手分けして暗記することによって、故国の妻の手にもたらされました。
その遺書は、二年数か月に及ぶ、分担暗記という尋常ならざる努力に見合う価値のある遺書でした。

本作品は、「昭和の遺書」の選考者としてこの遺書に接した著者が、抑留者たちへの丹念な取材をもとに、過酷なシベリア抑留生活の実態を、抑制された筆致で描いたノンフィクションで、1989年に発表され、大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞しています。
以前ドラマで見た記憶があり、調べてみたら、1993年夏に終戦48年特別企画として、寺尾聰の主演でドラマ化されています。
でも内容は殆ど忘れていたので、新鮮な気持ちで本書に向き合うことができました。

収容所での極寒と飢えと重労働に苦しめられて尚、尊厳とユーモア、必ず帰国するという希望を失わず、その博識と豊かな人間性、感受性を生かして、アムール句会などの文化的活動を行い、多くの収容者に希望を分け与えた山本幡男さんの後半生と、彼の遺書がどうやって日本の遺族に届けられたか
が描かれます。

ソ連側の、俘虜(戦争捕虜)に対する国際法に反する非人道的取り扱いは、
知識としては知っていましたが、ひどすぎて、改めてゾッとしました。
そして、日本人同士の吊し上げや密告の横行には、悲しい気分になりました。
その一方で、フランクルの「夜と霧」を思い起させる、「シベリアの青い空」の美しさに心を動かすというエピソードもあります。

終戦後、ソ連軍に抑留された山本幡男さんは、かつて社会主義運動に参加した当人が、その社会主義国の収容所に囚われるという皮肉な運命に投げ込まれ、戦時中、満鉄と特務機関にいた経歴から「戦犯」とされて、シベリアの収容所を転々とします。
身体的にも精神的にも苛烈きわまりない収容所生活の中で、飄々と穏やかな性格を保ちながら、不屈の精神力をもって「ぼくたちはみんなで帰国するのです。その日まで 美しい日本語を忘れぬようにしたい」と仲間をいつも励まし、ソ連軍の監視の目を盗んでアムール句会を主宰するなどして、抑留者たちの「生きる支え」となりました。

ネット上の本書の感想にこんな一節がありました。
この通りなのだと思います。
「極限まで追い込まれた人が最後に頼る光、それが物語の力。
 句や短歌、詩の短い形式に凝縮された屈託と希望。
 現実の客観視が虚無の闇を和らげ、
 無限の緊迫に僅かな隙間をもたらす。」

山本さん自身は、帰国の悲願叶わず現地で病死しますが、終戦から11年余り後、同じ収容所にいたという男が山本家を訪れ、最初の遺書を手渡します。その後相次いで計6通の遺書が届きました。
収容所で文字を書くとスパイ行為とみなし没収する、ソ連軍の徹底した検閲を逃れるために、仲間たちが約4500字に及ぶ遺書を手分けして一字一句漏らさず暗誦したり、メモ書きを服の縫い目などに挟んだり、糸巻きに偽装したりして持ち出し、山本氏の死後2年以上も覚えていて、日本に帰還後、書き起こして、それぞれ故人の妻へ届けたのです。
いかに彼が慕われ、そして彼の人間性がどれ程多くの人々に影響を及ぼしたことか。

5番目に遺書を届けることになる瀬崎さんは思います。
「これは山本個人の遺書ではない、ラーゲリで空しく死んだ人びと全員が祖国の日本人すべてに宛てた遺書なのだ」と。

戦後、シベリアに抑留された俘虜は約60万人、うち7万人以上が故国の土を踏むことなく亡くなったといいます。
正確な数字は今も分かっていません。
せめて、私たちにできることは、この遺書に込められた山本さん、抑留者たちの思いを受け継ぎ、語り継ぐこと。

最後に、山本さんの子供たちへの遺書から、一節を引用します。
「君達はどんなに辛い日があらうとも、
人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ
進歩的な思想を忘れてはならぬ。
偏頗(へんぱ)で矯激な思想に迷ってはならぬ。
どこまでも真面目な、人道に基づく自由、博愛、
幸福、正義の道を進んで呉れ。
最後に勝つものは道義であり、誠であり、
まごこころである。」

以上、再録終わり

この夏も、戦争にかかわる様々な番組を視聴し、本を読みました。
ロシアによるウクライナ侵略という、現代の出来事とは信じがたいほど古典的な戦争を、SNSやドローンなどを駆使した現代ならではの方法で目にしながらの、77年目の夏。
単純に割り切れない心を持て余しつつ、やっぱり平和を、(某A氏の唱えていた偽物ではなく)本当の意味での「積極的平和主義」を希求したいと思うのでした。
現代を生きる私たちには、過去の蛮行に対する責任はなくても、蛮行を忘れない責任、蛮行から学ぶべきことを学び伝える責任、未来の世代に地球を受け渡す責任が、あるのですから。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?