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明るいのか暗いのか をただ問う

目下、娘こだぬきの絵画教室の付き添い中。この絵画教室については、付き添いの2時間たぬきちは暇なので、よくnoteを書いている、否、打ち込んでいるので、投稿記事にもよく登場している。

今日はいつもと違って平日に参加していることと、もうすぐ教室主催の絵画展(最寄り駅の展示スペースで)があるせいか、教室は生徒さんでいっぱいだった。

娘ともう1人の小学生以外は、人生の余暇を楽しんでおられるような方ばかりで、この時間も習いに来ているというより、作品を完成させに来ているということだろう。皆さん、習う必要ももうないほど熟達されており、先生もアドバイスもほとんどしていない。

たぬきちも普段絵を描くが、ここでいう「絵を描く」という行為とは全く違うなと思う。多くの人が模写をしているということもあるが、1番の違いは、「色を作っている」ということ。

娘などはチューブから出した色をそのまま、キャンバスに載せているが、
周りの人は題材をじっと見つめ、その色を再現している。模写ならばその題材、心象であればそのイメージの再現度の全てがこの色作りで決まっていく。

たぬきち自身、普段そのような描き方はしておらず、あるもので、できる範囲でなんとなくやっているので、ここにいる創作者達とは似て非なる行為なんだなと思う。

そんな創作者達に囲まれて(まさにたぬきちが生徒さん達のちょうど中心の席に陣取っていて)、たぬきちはスマホを繰っている。誰もたぬきちになど目もくれず、ご自身の作品と向き合われているので、ここに1人異質なウォッチャーが、同じように文章という創作活動に勤しんでいるとは誰も思うまい。

前回、付き添っていた折、大人の生徒さんが先生に「明度」について指摘されていた。色がある時は、色相の違いで、一見明度の差がついているようだが、頭の中で色を省いて考える必要がある。そうすることで、より明度の差を認識できる。そこが狂うと違和感になるのだそう。

今日もまた別の生徒さんが「明度」について指摘を受けていた。おそらく、熟達してきた人々にとっても、より難しいのは「明度」の再現のようだ。そう思いながら、こっそりこちらも勉強させていただきました。

AIアートとか、chatGPTとか、人が人たる所以であった「創作」はもう人だけのものでは無い。いつか人の創作物がAIを越えられなくなった時、それでも人は創作し続けるのだろうか。その時、人が創造した成果物に価値があるのだろうか。

価値があるとかないとか。そんなことじゃなくて技術の習得とか再現性とかそういうのことの達成を楽しんでおられるのだろうなどとぼーっと皆さんを眺めていた。

今までの世界では、成果物が対価になることに成功があった。対価にならない時代が始まって、それでも人は描きつづけるのか。「絵描きになりたい」と夢見る娘の横で、たぬきちはそんなことを考えている。

ただ、たぬきちは今までの人生で気づいていることがある。「人は好きなことしか結局できない」と。

「好きなことだけやって生きていけるわけが無い」と強く信じて生きてきたが、結局好きでもないことは続くはずもなく、1番簡単でいて実は確実な指標は「好き」か「嫌い」かだ。

そして、今まで強く信じてきた価値観は、ことごとく破壊されはじめている。それなら、今たぬきちがどんなに考えたって答えはないわけで、それこそchatGPTにでも相談しようか。

どうせ選ぶのが人生なら、「嫌」な方ばかり選ぶより、「好き」な方を選ぶ方がいいし、その中で答えを見つけていけばいい。

今、創作者たちは岐路に立たされている。でも人は、それをせずにはいられないだろうとも思っている。

人生の荒波を幾多も超えてきたであろう大先輩達が、ただただ描く姿は「こんなことしたって意味が無い」とか「これはモノにならない」とかそう言った「色」を削ぎ落とし、「残りの人生で何をやるか」とただただ純粋に問うて「創作」を選んだことが伺える。

目や心が奪われやすい「色」を削ぎ落とした時に本当の「明度差」がわかる。「明るい」のか「暗い」のか「好き」なのか「嫌」なのか。

好きなものがあるなら、それを大事にすべきで、それに意味があるとか、ないとか、考えること自体には意味などないんだろう。

最近落ち込んでいた心が少し晴れた。意味が無いと思いながら進むのは、辛いものだ。好きだから、やりたいからやっているのだ。

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