ニューイヤー 2024/01/04

 おせちを重箱に詰めていたら、ゆっくり起きてきた父親が「これじゃオードブルみてえじゃんか、どれ俺が綺麗にして盛り付けてやる」と余計なことをし始めた。せっかく早起きして素敵な日を演出しようとしても嫌味を言われてはやる気も削がれてしまう。正月らしからぬ殺気が湧いてきたのですぐに菜箸を置き、「あけましておめでとう!あっ彼女から連絡きたので」と断りにくい方便を残し、冷蔵庫からビールを数本くすねつつ部屋に退散した。余計な衝突を避けることが私の実家での過ごし方、もとい父親との接し方である。反論を飲み込んで尻尾を巻くのはけったくそ悪いがそうするのがベストなのだから止むを得ない。彼が話の通じる人間であったことなどこの25年間でいっときもなかった。嫌な思い出に浸りながら、部屋でひとり香るエールとヱビスを飲んだ。上等なビールを用意してくれていることは実家に帰る有力な理由の一つである。ゲームをしたり動画を見たりしながらぼーっと過ごしていると姉がやって来て、何なのあいつ、私明日帰ることにするね、と苦々しい表情をして言った。私もそうしたかったが明後日に高校時代の友人と会う約束をしていた。
 夕方、地震があった。新潟の実家は立っていられないほど揺れたが、内陸であるから津波の心配はなかった。際どいところに置いていたお皿が一枚落ちたが幸い割れなかった。唯一の被害は庭先のメダカが一匹だけ放り出されていたことで、気づいてすぐ水鉢に戻したものの一度冬眠から覚めたメダカは激しくエネルギーを消費するせいで生存確率が著しく下がるという。世話していた叔母は悲しんでいた。
 富山や石川のあたりを経由する予定だった帰りのバスは止まり、別の手段を探す必要が出てきた。4日には修士論文を提出する必要があり、すでに完成しているとはいえ、それまでには大阪に帰る必要があったのだ。姉の懸命なリサーチのおかげで東京行きの新幹線を確保、私はそこからさらに大阪へ向かう夜行バスを予約して遠回りに帰阪することとなった。予約確定の頃には出発時間が迫っており、飛び出すようにして実家を出た。結局父親に対するわだかまりは解消されず、私と姉を送りだす車に父親は乗らなかった。我々が突っぱねたわけではないが、彼が乗るに乗れない雰囲気が家族の間に流れていて、全員が何を話せば良いか分からぬまま「論文間に合うといいわねえ」「結構揺れたよねえ」と母の気遣いだけが聞こえる車に揺られた。
 駅に着くと案の定慌てた民衆でごった返しており、我ら姉弟もその一部となって改札を通った。見送ってくれた母に手を振りつつ、姉が「はぁ〜〜」と深い息を吐いた。こんな正月は嫌だからせめて旅情だけでも醸し出そうとビールに日本酒、ホタルイカの干物などを買い込んで新幹線に乗り込み束の間の宴会を楽しんだものの、新幹線は当然ダンゴになっており、熊谷や大宮のあたりで何度も停車した。赤ちゃんが大泣きし、大人がしきりに窓を覗く居心地の悪い時間が続いた。上野駅で降りて在来線に乗り換えて東京駅に着く頃にはもう気力が絶えていた。遅延の影響であと一時間もすればバスが来る。せめて、せめて生ビールの一杯でも……!と東京駅一番街に降りると今度は国際観光客の皆さんがごった返しており、数少ない営業中の店に長蛇の列を成していた。どれも一時間そこらで解消されるとは思えない。仕方なく八重洲バスターミナルの方角を目指し、いつだかに座り込んだ無料のイスとセブンイレブンを目指した、が、年始でシャッター街と化した東京駅地下はどこにいっても不服そうな外国人だらけで、セブンにすら列ができていた。イスになど座れる由もない。絶望の果てにゆらゆらと地上に出、非常階段の下のようやく寒風をしのげそうな隙間で30分ほど過ごした。そのうちに青春ドリームライナーがやって来て、何がじゃいと思いながらアイマスクと耳栓を装着し眠った。

 本日1/4、無事修士論文を提出し、夜には友人と飲む予定もある。ここからだ。私の新年はここから始まる。絶対に良い年にする。

 あけましておめでとうございます。

 


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