日常・日常・非日常(思い出) 2023/09/22

 携帯用のBluetoothキーボードを買った。今まで出先の文字入力はスマホでぽちぽちするかやけに重たいMacBook Airを持ち運ぶかしていて、それがまあ煩わしく、作業から逃げる口実にもなってしまっていたのだが、これにて逃げ道を塞いだという訳である。塞がれたから、これを書いているという訳である。

 コールセンターのバイトが来週で契約満了となるため、新しいバイトの面接を受けた。イヤホンをしながら働ける環境を求めてホテルの客室清掃を選んだ。少しだけ経歴を詐称したり好青年に擬態したり要領良い奴みたいな質問をしたりしていたら「じゃあね、こちらとしても来てくれたらありがたいんで、来週末からね、よろしくね」と、激務で窶れたおじさんに言われた。わざわざ片道30分かけて出向いたのに10分で終わってしまい、このまま帰るのもなんだなぁと、付近の見知った暖簾をくぐった。
 カウンター席に通され、迅速に提供された生中を飲みながらメニューを眺めていると、秋刀魚が100円で提供されていた。意味がわからないがありがたく注文しよう。あとはハマチのお刺身と、おっホタテがやけに安いじゃないの。じゃあこれと、あらら手羽唐揚げなんてのも素敵でさぁね…って50円!?大丈夫か本当に。ありがたくいただくけども。あとなんかさっぱりした小鉢欲しいな。ポテトサラダ、筑前煮、うーんもう少しさっぱりしてる奴が欲しい…あっお通しですか、この中から選んでいいんすか!じゃあなめ茸おろしをいただきます。言うてる間にお酒無くなったからもう一杯ビールかなぁ。注文と。さてさて私はこの隙に日記でも書きますかね。
 本当にこうです。
 その居酒屋で、一人の女性店員が、おそらくまだ仕事に慣れていないようで、若干注文を溜め込んでしまっていた。私には急ぐ由も無いので良いのだが、せっかちなタメ口ジジイと高圧的な店長は彼女を許さない。「ビールまだぁ〜?」「おい注文溜まってんで!はよして」など、容赦なく責め立てている。かわいそうに。居心地悪いしそろそろ帰るか…とお会計ボタンに手を伸ばしたとき、背の高い黒髪ウルフの男が「おはようございまーす」と出勤してきた。通ったあとにきつめのフレグランスが漂う。「おっ〇〇ちゃんお疲れ!今日どう?忙しい?」と先ほどの店員さんに声をかけて状況を把握するや否や凄まじい手さばきでドリンクを作り、運び、帰りにはお済みのお皿をお下げし、再び作り、ものの数分で全ての仕事を片付けてしまった。「すんません!まだエプロンつけてないんすけど生2つです〜遅なって申し訳ないす」などと常連客にはにかむ余裕すらある。苦くて辛くて酸っぱい虫を噛み潰したようだった店長にも冗談を飛ばし、完全に意気消沈していた店員さんのケアもさりげない。接客業の頂点を見た気がした。もし彼と同じバイト先で、彼が同僚全員から恋慕されていても、一切嫉妬心が湧かないだろうと思う。私とは別格に優秀で、周りをよく見ていて、優しく振る舞える人間なのだから。あとかっこいいし。

 寝る前に良い香りのボディクリームを塗っている。以前友人たちと海外旅行に行ったとき、同室で何日も過ごすにあたって購入したのだ。友人との慣れない共同生活に向けて、気遣いというか虚栄心というか、何か肩肘張っていたことが伺える。当時の少し緊張した感覚が香りから蘇ってくるから毎晩少し浮ついてしまう。
 旅の思い出は細かな部分ほどよい。例えば件のヨーロッパ旅行では、ハンガリーの辺境の村にあるワイナリーに赴いた。数十種に渡る貴腐ワインテイスティングは最高だったし、熟成用の洞窟見学も興味深かったが、それらは旅の中心であって、思い出そうとするまでもなく鮮明に素晴らしい。それ以外の、もっとニッチでミクロな部分。ふと思い出したときに懐古で悶えるような、あの時のあの場所に戻れないことが悲しくて死にたくなってくるような、そんな小さな部分にこそ旅の良さが詰まっていると、私は信じている。1日に数本しかない特急を降りた時のホラー映画みたいな曇天、最寄り駅からワイナリーに向かうあぜ道の湿り気や、ぽつぽつと立ち並ぶ煉瓦造りの古民家、遠くの山肌に浮いていた青白い壁の教会、村の中心の小さな広場、立ち寄ったスーパーで購入したいくつかのパン(ケシの実入りのシナモンロールは帰りの電車で食べた)、テイスティングした部屋の真新しい薪ストーブ、次のワイナリーに向かう路地、着込んだフリースの心強さ、帰りの真っ暗な車窓を見たときの不安、宿に帰れたときの安心、順番にシャワーを浴びて眠るまでの疲弊した空気、翌朝カーテンを開けたら目の前に聳えていた大聖堂。計画して行ったわけではない、しかしこの旅を形成したこと一つ一つが愛おしいから、私はもっといろんなところを旅したいのだ。

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