クウェートの洗礼

イスタンブールに着くまではよかったのだ。

案の定、関空へ行くまでに恩師や友達から言われたことを思い出して号泣していたが、関空に着いたら無事にチェックインと出国手続きを済ませ、クウェートではお目にかかれないであろうスタバの抹茶クリームフラペチーノを飲みつつ、韓国人の友達とLINEでちょっとした話をしたり、親へ連絡したりと落ち着いた時間を過ごしていた。
イスタンブール行きの便は出発時間が少しだけ早くなっていたが、特にトラブルもなく、読書をしたり寝たりしていたらいつの間に到着していた。
実に平和な12時間だった。軽食のケーキがおいしかった。

二度目のアタテュルク空港。
4時間ほどのトランジットの間に何か食べておこうと、ドロドロに疲れきった状態で空港をさまよっていたら、クレープの店がおいしそうだったのでそこで何か買うことにした。
当たり前にザクロがあるのが中東だなぁ……とぼーっとそんなことを考えていたら、その店で無料のWi-Fiが使えるという表示が目に入り、「Wi-Fiのパスワード教えてもらえる?」と店員に尋ねてみた。店員は「ケータイ貸してよ!」と快活に言った。
空港のお店というだけあって、トルコリラ・ドル・ユーロのどれかで支払えるらしい。私はトルコリラを余らせていたのでリラで払った。ついでに、「リラ」の発音が上手にできなかったので、「リラってなんて発音するのか教えてよ」と言ってみる。店員のお兄ちゃんたちは爆笑しながら「リ・ラ」とゆっくり教えてくれた。
どこから来たの、どこへ行くのなどと彼らは尋ねるので、日本から来たよ、これからクウェートへ行くのよと答えると、「クウェートとか!!何しに行くの!!!」とさらに爆笑。
いや、ほんとそれよ。
とりあえず、「私、クウェートで勉強してるんだからね!!!」と、笑いながら答えておいた。

食事を済ませ、気が済むまでWi-Fiを使い、ゲートへ移動する。
前のオスロ便がどうも遅れているらしく、オスロ便の乗客とクウェート便の乗客が入り交じっていた。
特にすることもないので、搭乗して座席に座った瞬間に寝るぞと決意しながら本を読んでいると、オスロ便は行ってしまったというのになかなかゲートが開かない。
遅いなぁと思いゲート受付で聞いてみると、「たぶん遅れる」とのこと。

「たぶん」ってなんだよ。そんなところでクウェート感出してこなくてもいいんだよ。

そんなことを思いつつ、「これが……クウェートだ……!」としょーもないことを実感した。
クウェートへ行くというヨーロッパ人女性2人組が不安そうにしていたので、たぶん遅れると言われた、クウェートではよくあることよ、と伝えておいた。

数時間規模の遅れになったらいろいろと(寮のおばちゃんに怒られそうで)面倒なのでやきもきしたが、遅れは15分程度で収まった。
待ちながら少しだけ仮眠もとったことだし、飛行機の中では疲れきって逆にゆっくり寝る気力もなく、読書の続きをしていた。

イスタンブールからクウェートまでは5時間ほどだったと思う。
さすがに多少眠ったりもしていたら、思っていたよりも早く時間は過ぎており、読み切った小説を閉じてiPadで同じ作家(小川洋子先生)の別のエッセイを読んでいた。

そんな時だった。
飛行機が急に揺れ出した。
ベルト着用のランプは点滅し、乗務員が慌てて出てきた。
大学に入ってからは特に飛行機に乗る機会も増え、国際線にもようやく慣れ始めていたけれど、乗務員が注意を促しにくるほど揺れたのは初めてだった。
乗務員に言われるまでもなく私はもの凄い恐怖に襲われていて、これ以上揺れが続いたらパニックで過呼吸を起こしそうだった。
クウェートにたどり着けずに、こんなところで終わってたまるか、そう思いながらクウェートにたどり着くまでの何度目かの号泣。
幸い、揺れは一時的なもので収まり、飛行機は無事クウェートに到着した。
握りしめていたパスポートは手の汗で濡れていた。

クウェートって、こんなに広かったっけ?というのが、3週間ぶりに空から見たクウェートの第一印象だった。
あれほど狭くて、その狭さに辟易していたはずのクウェートがとても広く見えた。

まだまだ知らないことがたくさんあるなぁ、よし、がんばろう。

と思った矢先、クウェートのケータイが使えないわ、朝から水道が断水するわ(めったにないけど肝心な時だけに起こる断水と停電)、「これぞクウェート!」という謎現象に悩まされました。
ネットも相変わらず遅い。
つらい。

がんばろうと思った矢先に、乗り越えなければならない、壁。

カトリック教会は7つの秘跡というものを定めており、カトリック教会で信者として生を全うする者は人生の節目節目で秘跡を行わなければならない。全ての秘跡を実行しなければならないわけではない(し、実行できない場合もある)が、秘跡を受けるためにはカトリックの信者であることが第一条件だ。
その信者になるための入り口であり、キリスト教の教えにおいては「人生の入り口」でもあるものが洗礼だ。

イエスが生まれた当時のパレスチナ地域におけるヘブライ人社会で、さほど重要視されていなかった洗礼。
しかし、イエスはそれを進んで受けた。なぜ洗礼を受けるのかと問うたヨハネに対してイエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々にふさわしいことです。」と答えた。(マタイによる福音書3章14~15節より)

イエスが受けた洗礼は、ヨハネのもとヨルダン川で水を被るという簡素なものだったのかもしれない。
だが、それがどういう意味を持ったのだろう。なぜ、イエスはわざわざ洗礼を受けたのだろう。
水を被るという日常的とも思える行為が、どうしてこれほど神聖なものになり得たのだろう。
そして、イエスが洗礼を受けてから彼の心のうちにどのような変化が起こったのか、「正しいこと」とは一体何なのだろう。
そんなことを考えずにはいられない。

これからのクウェート生活や、もっと長い目で見ればその後の人生をオーガナイズするのは自分自身であることを再確認する。そして、生きていく限りは「正しいこと」という実体のつかめない概念を実行したいと願う。
私は進んで洗礼を受けにいったイエスほど立派な心の持ち主ではないから、不意に飛び込んできたクウェートらしいアクシデントが私の洗礼で、洗礼が私の心を切り替え次へ進む後押しをしてくれるのだと、久々にクウェートの日差しを浴びながらそんなことを思った。

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