成人式に行かなかった話

一年前、私は成人式に行きませんでした。
成人式前日の同窓会だけ出席してきました。

成人式に行かなかった理由は、中高一貫校の出身なので同窓会にさえ出席すれば中学・高校の友達には会えるということ、成人式の後は大学の試験シーズンであり、失敗したら即留年の試験が控えていたこと、しかもその頃やっていた研究プロジェクトに忙殺されていたこと、「中高一貫の女子校なら成人式でのワンチャンないで」という先輩の下世話なご意見……はともかく、何よりも「振り袖で着飾って、ありがたくもない話を聞く式に出席し、キャーキャーはしゃぎながら写真を撮るのが大人になる儀式だとは思えない」という、私なりの考えがあってのことでした。
そのような忙しい時期にわざわざ新幹線で帰省し、親に手間と時間をかけさせてまで式に出席するのが一体に何になるのかと思ったのです。両親は「あら、そう」と言っていた程度。本当の心の内はわかりませんが、私の決断はこのように丸くおさまりました。

その後、なんとか進級し、成人式前のプロジェクトも無事終了し、バタバタしながらもなんとか留学へ行ってしまったためそのことはすっかり忘れていましたが、留学中の身でありながら成人式の時期に日本に滞在することとなり、振り袖姿の女の子たちを見ていろいろと思うことはあります。

が、一番は「別に良かったんじゃない?」ということ。強がりでなく、そう思うのです。

クウェートの冬休み期間中には一時帰国しました。
クリスマスの時期に日本に到着し、コンビニへ寄った時に「あ、年賀状はどうするんだっけ」と急に気づきました。大学へ入ってからというもの、すっかり年賀状を出す枚数は減ってしまいましたが、「あ、そういえば今年は喪中だった」と思い出しました。喪中だから、出さなくて良いんだった、と。
高校の頃までは普通に守っていた「年賀状を出す」という日本の文化ですが、大学に入ってからなぜしなくなってしまったのでしょう。住所が変わっていろいろと面倒になったとか、年賀状の必要性を感じなくなったとか、いろいろあるのかもしれませんが、私は「年賀状を出さない」という選択を無意識のうちにしていました。

ところが今年は、「なんとなく年賀状を出さない」という去年までとは違い、「喪中だから年賀状を出さない」という選択をすることになりました。海外で揉まれて、なんとなく日本の伝統を守って年賀状を出したかったけれど、喪中という日本の伝統を守って年賀状を出さないことになったのです。

成人式だって、ある意味日本の伝統文化みたいなものです。留学先のクウェートの伝統を守った生活をしていれば、似たような儀式はあるかもしれないけれど、20歳になる年に振りそでを着ることはないでしょう。
逆に言えば、伝統なんてそんなもので、成人式に出なかったからと言って別に死ぬわけでも何でもありません。

日本人としてのアイデンティティーを持ち、基本的には日本の文化に沿って生活していると言っても、クウェートに暮らす限りはクウェートの文化に沿った振る舞いをすることだって、もちろんあります。
私はこの前、イスラーム教徒の女性が髪の毛を隠すために身につけるヒジャーブというスカーフを被り、クウェートの伝統的な市場へ買い物へ行きました。クウェートの寮のおばちゃんたちはいつもヒジャーブを身につけない私がヒジャーブを被っていることを手放しで喜んでくれ、「きれいね!いいわよ!」と言ってくれました。
ですが、もし私が梅田でヒジャーブをして普通に買い物をしていたら、間違いなく好奇の目にさらされますし、もしかしたら変人扱いされるかもしれませんし、この前パリで襲撃事件もありましたし、最悪の場合、警察に目をつけられるかもしれません。

補足しておくと、ヒジャーブは宗教的なニュアンスもありますが、イスラーム世界ではどちらかというと宗教的なニュアンスよりも文化としての性質の方が大きいものです。その証拠に、私がムスリムでないことを知っている寮のおばちゃんたちは、私がヒジャーブをしていることを喜んでくれました。ヒジャーブを被るという行為は、地域の文化に馴染もうとする行為でもあるからです。

文化って、そんなものなんだなぁ、と思います。
文化に基づいた行動をするかしないかは、私次第です。
成人式に行かなかったのは私が現代の成人式に意味を見いだせなかったから、今年年賀状を出さなかったのは日本の文化に沿った選択をしたから、時々クウェートでヒジャーブを被るのは、ヒジャーブをしている方が当地に馴染むことが出来、外国人(=金づる)として扱われにくくなるから。
行動は自分次第で、文化を守るか守らないかは私が選択します。

ただし、選択をする前に一度「なぜそうするか」を考えてみてもよいのではと思います。
むしろ、ちゃんと考える方が「かっこいい」気もします。
毎年この時期はFacebookに成人式の振り袖写真が溢れますが、見る側にしてみれば「かわいいなぁ」くらいにしか思わないものです。
それならば、何らかの考えを持ってその被写体の一部となる人間の方が、何も考えずに振り袖写真を垂れ流し(され)て「成人式楽しかったんだね(笑)」となるよりは、よっぽど大人として信頼できます。
もちろん、納税しないとか強盗するとか、義務に反する行為や反社会的な行為、犯罪などはどんなにポリシーがあったところで許されるものではありませんが。

そう考えてみると、かつて自分なりの意見を持って成人式へ行かない選択をした自分が、なんだかかっこよく見えてきました。

海外で生活していると、自分が何を考えどう行動するかが、日本にいるとき以上に問われます。
日本では考えもしなかったようなことを考えなければならなくなります。
これまでの留学生活を思い返してみても、考えて選択するのがつらくて、周囲に合わせるだけにしてしまったことが何度もありました。同じようなことがきっとこれからもあるでしょう。
そんな時、クウェートでへこたれそうな近い未来の自分がこの文章を見返して、勇気づけられますように。

日本で日々の諸々に忙殺されていると、考えることを怠ってしまうのはよくわかります。ですが、たまに「なぜそうするか」を考えてみませんか。
私が成人式へ行かなかった理由について、「合理的に考えすぎている」「親に晴れ姿を見せないのか」と非難されてもおかしくありません。
ですが、私は私なりにきちんと考えました。
きちんと考えた上での行動ですから、誰に誹謗中傷されたところで動じることはありません。

流されず、考えて行動すること。
こうする人が増えたら、日本の未来はもっと明るくなるのかなぁと、そんなことも思います。
結局言いたいことはシンプルです。
「よく考え、信念を持て。」

9月にクウェートへ飛び立って以来、久々に帰ってきた日本は相変わらず素敵な場所でした。
日本って、本当にいいところだと思うのです。選挙の制度がきちんとあって、選挙権が平等に与えられ、自分の国の未来を選ぶことが出来るなんて。それに、日本は賄賂やコネがきちんと批判される社会です。このように公正な国は決して多くないということを、私はクウェートで知りました。

今度帰ってくる日本は素敵な場所であってほしいし、日本を愛せる自分でいたいと思います。
行動は選択できると先程言い切りましたが、自分の選択する行動が自分や周囲の人間、はたまた自分の国の未来を左右するということに自覚的でいなければと自戒します。

成人式から1年経って、留学中なのになぜか地元の広島にいる私の思いがこれです。
新成人の皆様、おめでとうございます。
そして、私たちの手に委ねられている日本の未来に幸あれ!

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