日本的なるものへの危機感〜ナショナルとは何なのか

インターナショナルエキシビジョンでの感想の続きである。
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この催しでは「国ごと」というくくりでブースが作られた。が、台湾やパレスチナなども一つの国というくくりに入れられていたようではあった。

国民としての意識はいったいどこから出てくるのだろう。
実体のないものに精神的な意味で属しているという意識、気持ち悪くさえ思うこともある。

実際のところ、国民国家という枠組みは非常に便利で合理的なものであるようにも思う。大きな共同体を統治する「政府」というものがあり、国境を定め、それを越えるためにそれぞれの「国民」はパスポートを持つ。国という枠組みの中でそれぞれに貨幣があったり、それぞれにマッチした制度が整えられている。
もっとも、最近はEUのように統合していく流れはあるけれども。国民国家という極めて近代的な仕組みの中で、いろんなことがうまく回っている。

私はたまたま日本という枠内に生まれ育ち、日本国籍であるということに疑いを持つ余地もなく、幸か不幸かなんだかんだ言って日本は好きだと思っているという人間だ。
いや、ラッキーなのだろう。自分が「日本人」であるということに疑いを持つ必要がないということは。

自分が何をもってして日本人であると宣言できるのか、自分を日本人たらしめる要素とは何なのか、考えたことがある人はどのくらいいるだろうか。
私はこの問いに一昨年ぶつかった。
在日コリアン関係の研究をしていたころのことだ。日本に生まれ育ちながら日本国籍を持っていない人がたくさんいるということ。
研究の中で出会った在日コリアンの人々に「あなたは何人なの?」と聞かれたらどうするかという問うたことが何度かあった。
人によって答えは様々だった。時と場合によって日本人と答えるか朝鮮人と答えるか選ぶという人、自分の生い立ちを絶対に説明するという人、韓国人だと答えるという人。
普通に日本で日本国籍を持っている人と同じ感覚で話せるのに、そこは少し違うのかと新鮮だった。がっかりはしなかった。
あくまで、新しいなにかと出会ったときに抱くみずみずしい感情を覚えただけだった。(ただ、韓国人だと答えるという人の、その理由は胸が痛んだけれども……)

おそらく、私が「国、国ってなんなのよ。気持ち悪い……」と思うタイミングは国家と民族を区別せずに捉え、とりわけ熱狂的になっているときなのだと思う。

オリンピックを気持ち悪く思うことはないだろうか。
なぜスポーツ選手が国ごとに分かれて競うのか。
どうして観客までが自国のユニフォームやコスチュームで応援しなければならないのか。
というか、どうして自分の国を応援しようという雰囲気があるのか。
選手たちが背負っている「国」とは一体何なのか。

民族だったらまだしっくりくる。
日本民族(という言い方もなんだかむずむずするが)の持っている固有の文化を熱狂的に愛することは出来るような気がする。
浴衣を着るのも好きだし、懐石料理なんかを食べると背筋がすっと伸びる心持ちになれるし、うどんやラーメンを食べていないと落ち着かない。新幹線の車窓から瓦屋根の家々と田んぼが連続する景色を見ていると郷愁を感じるし、クウェートでも先生にアッサラームアライクムと言いながらお辞儀をしてしまう。
こういった私なりの感覚は、自分が民族として日本人というカテゴリーに属しているのだろうと思わせてくれるものだ。

ところが、民族という枠組みは国家以上に実体のふわふわしたものだ。
国家は国際的な場で認められた正式な集団の分け方とされているけれども、民族は決してそうではない。
だから、国家と民族を足してしまえば、比較的わかりやすい集団に対して愛情を持ちやすくなる。私は、それで狂信的になってしまうのが怖いのだ。

だからこそ、違う民族に追われてしまったパレスチナ人が民族として何らかの形を得る手段が「国家」であるのだろうと思う。私はそれを否定することは出来ない。むしろ応援さえしたい気持ちだ。

クウェートにはたくさんの外国人が住んでいて、「私は○○人だけど、子どもの頃からずっとクウェートに住んでいる」という人にたくさん出会った。
日本の在日コリアンもこれくらい気軽に日本で自己紹介できる社会になってほしいと思うが、朝鮮半島に二つの国家が併存している今、それはなかなかに難しいことなのかもしれない。
在クウェートの外国人のナショナルはシリアであったりインドであったりはっきりしているが、在日コリアンのナショナルは何となくぼやけているのではないかと思うことがある(もしこの発言で不快に思われた方がいらっしゃったら心からお詫び申し上げます。特に悪意のない、率直な発言であるということを書き添えておきたいと思います)。

とりあえず、買ったまま放置されているナショナリズムの本を読まねばならない。今のところ、国家という枠組みはとても便利なものだと思っているので、その枠組みをもっと生かしたり、枠内でもっと楽な心持ちで生きていけるようになったらいいなと、そんなことを考えている。
そして、私は国家が実際に存在するかしないかに関わらず、友人が自分で思っているナショナルを最大限尊重したいと思う。

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