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同じ穴のむじな(3)同級生

女のすすり泣くような声が聞こえる。
おれは、夜半に目が覚めた。
柏木という隣の男の部屋からその声は聞こえた。
柏木氏らしい男のこもった声も聞こえる。
「どや、ここは?」
「いや、いや、そんなとこ…」
あの女の声に違いない。
おれは確信した。
二人は、なにやら秘め事をおこなっているらしかった。
おれはゆっくり、壁に近づき耳を当てた。
「もう、びしょびしょやでぇ」「そんなん、言わんといて」
間違いなく、二人は性行為に及んでいるのだった。
いくら童貞のおれでも、そんなことはわかった。
その証拠に、おれのあそこは反射的に硬く立ち上がっている。
「いくで、おりゃ」
「やぁん!」
「声がでかい。となりの若いもんに聞こえるやないか」「そやかてぇ」
「はぁ、はぁ、ああ、ええなぁ、おまえの、あきえの…」
「マーシャルぅ」
マーシャルとは柏木氏のことだろうか?
女は「あきえ」と言うらしい。
「あ、そうか」おれは、気づいた。
柏木氏の表札には「柏木勝」とあって、あれは「まさる=マーシャル」というわけか…
それよりも、おれは分身をなだめなければ寝られやしない。
勃起に手を添え、やさしく握った。
「やぁん、ああん、マーシャルっ!おっきい!」
「ええやろ?ずっぽしや」
なんという卑猥な会話だろう?
服部明夫の小説のシーンそのままが、壁一枚隔てたところでおこなわれているのだった。
「あきえ、うしろから突いたる」
「そんなん、はずかしい」
「きもちええで、はよ、尻だせ」
「もう」
しばらくあって、「ほぉら」「きゃぁ!」
悲鳴が起こった。
「うわぁ、あきえ、締まるやんけ、おおう」
「あかん、マーシャル、いってまう」
「いけや。なんぼでもいったらええ」
「死ぬ、死ぬ」
「死ね、死ね。はよ、死んでまえ」
どたばたと音がし、激しさが伝わってきた。
おれはもう、限界だった。
先走りの汁が指を濡らし、亀頭が潤って敏感に膨れ上がっているのが、指先でわかった。
「あふ」
おれは、背筋に電撃が走って、そのまま壁に向かって射精してしまった。
片手を壁について、もう一方の手で性器を絞った。
ティッシュを手探りでつかんで、始末をする。

しばらくして、隣も静かになった。
柏木マーシャル氏もいったのだろう。

あくる日は、化学実験だった。
おれは横山尚子と席次が隣だったので、ペアで実験することになっていた。
この学部では五十音順に席次がつけられ学生番号となる。
湯本宏明(581-168)、横山尚子(581-169)という具合だ。
"5"が「応用化学科」を表し、次の"81"が「1981年度入学生」である。
ハイフンの後の番号は連番だ。

未明の出来事も相まって、非常に眠たかったが、横山さんの手前、そういうことは表面に出せない。
「よろしくね」
「こちらこそ」
通り一遍のあいさつを交わし、実験準備に移った。
「アルミニウムの陽極酸化」という実験テーマであり、まずアラルダイトというエポキシ接着剤でアルミ板の三分の一程度を保護することから始めた。
「湯本君は、通(かよ)って来てるん?」
接着剤を練りながら、横山さんが訊いてくる。
「いや、下宿なんや」
「へえ、あたしは門真から通ってんねん」
「京阪やな」「そう。大和田駅から」「近いやん」
「実家は、ほんなら、遠いの?」
「舞鶴」
「うわ、遠いなぁ。そら下宿せなあかんわなぁ。はい、でけた」
彼女は、接着剤を練り終わり、おれは脱脂浴からアルミの板をピンセットで取り出してガーゼで拭く。
「蒸留水で洗わなあかんよ」と横山さんに指摘された。
脱脂液がアルミ板に付着したままでは、実験がうまくいかないのであった。
「あたし、電源を用意するわ。そのアラルダイトを塗っといてね」「うん」
窓から朝の光が差し込んでいる。
この実験室は、流しを挟んで実験台が四台あって、比較的狭い部屋である。
窓は東向きに大きく取ってあり、別の校舎が遮っているので十時近くにならないとこの時期、陽光が差し込まないのだった。

他に三組が実験をおこなっている。
それぞれテーマが異なるので、よその真似はできない。
自分たちで前もって実験についての下調べをして、実験に臨むのがこのカリキュラムの要諦だった。
「定電圧電源って、重いなぁ」
「トランスが入ってるからやろ?」
取っ手が上についているが、それでも重い。
横山尚子は、メガネっ子で髪を束ねてポニーテールにしている。
化粧っけのないその顔は、童顔だった。
天文部に一緒に入部した小西由紀は、細身でボーイッシュだが、尚子は胸も豊かで、器用な手指が印象的だった。
「横山さんは、化学好きなん?」
「物理が苦手やってん。ははは」
そういうとき、えくぼができて可愛らしかった。
未明の、マーシャルとあきえの行為が思い出された。
そうだ、あきえの声と横山尚子の声が似ていると思った。
この子もあんな声を出して、男と寝るのだろうか?
「ちょっとぉ、湯本君」「あ、はい」「アラルダイトは硬化した?」「どやろ?」
アルミニウムの陽極酸化とは、簡単に言えば、アルマイト処理である。
アルミニウムの地金の表面に電気を流して、酸化アルミ(アルマイト)の被膜を作るのだ。
アルミニウムは酸化被膜を作って不働態になり、それ以上内部に金属腐食を進ませない働きがある。
工業的にアルマイト処理はアルミニウム製品の長持ちに貢献している技術だった。
アルミの弁当箱やヤカンは必ずアルマイト処理がなされている。

実験が午前中で終わり、昼休みに、横山さんとおれは学食に昼を食べに行った。
「これからも、実験は湯本君とすることになるんやね」
「三回生まで?」
「どっちかが留年せぇへんかったらね。よろしくお願いします」
「こちらこそ。でも前の奴が留年したら、順番がずれるで」
「そうやねぇ。ずれても湯本君の前は山本純子さんやし、女の子と組める可能性が高いやん」
定食を食べながら、そんな話をする。
応用化学科は建築科や経営工学科に並んで女子学生が年々増えてきているそうだ。

それからは、おれは横山さんと授業で一緒になると、隣同士で座ることが増えた。
ただ、彼女には、今、付き合っている男性がいるようなことを言っていたので、それ以上、深入りはしなかった。

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