みにーとまろのスランプ6

言語感覚のこと

同じ単語でも人によって意味合いが異なることは往々にしてあります。
良く言われる事例としては関東と関西における、悪口のニュアンスですね。

俗に若者言葉と称される一連の言葉に関しては、約束事で形成されてきたのでかえって誤解がありません。むしろニュアンスの行き違いを楽しんだり、新しいニュアンスが定着したり、もちろん急速に衰退したりというものです。

それより、古くから使われている言葉で、本人は正しい使い方のつもりでも、人によって感覚が異なるような事例ですね。

例えば「尊敬」という言葉。
私にとって「尊敬」という言葉を用いる相手とは、その対象が存在する限り、自分の存在が無であっても構わないというぐらいの絶対的な価値を意味しています。

人によっては、「好意を抱いている」「評価している」「憧れている」「目標にしている」「崇拝している」というように、大きな振れ幅があるような気がします。

この感覚の乖離から、これまで面と向かって「尊敬している」と言われたとき、ドン引きするか、警戒するか、失望するか、軽く受け流すかというのが常でした。

違う観点からは、「○ね」という言葉。
私にとっては、ブラックジャックが悲壮な顔をして口にするのと同じくらい、それは激しく、責任重大な言葉で、記憶の限り人に向かって口にしたことがありません。

驚くほど安易に口にする人がいます。日常会話でも、冗談でも、攻撃でも、愚痴でも、議論でも、ビジネスミーティングでも。

とても信頼しようという気持ちになりませんし、心中においてブロックしてしまいます。

他にも例えば、以下の事例のように、ある言葉に対して違和感を感じることがあります。

「〜ですが、」・・・なぜ前後の文脈が相反していないのに「が、」なのだろう。この人にとっては相反する内容なのだろうか。それとも何か拒否の真意が込められているのだろうか。

「なぜ〜は〜なのか」・・・なぜ確定した事実でもないことを、あたかも普遍的な了解事項であるかのように語るのだろう。この人は他人の意見を聞かない人なのか、あるいは自分の考えを他人に強要することをなんとも思わないのか、あるいは何らかの意図があって自分の仮説を既定事項として伝播しようと企んでいるのか。

もっとも、上記の通り一々心の中でいちゃもんをつけているわけではなく、多くの場合は頭の中で翻訳して円滑に会話を進めています。
特に文章ではなく対話の場合は、私も含めて咄嗟にうまく言葉にすることができないものですし。
ただ、翻訳を余儀なくされる頻度が高い相手との対話は疲れます。

ところで、私が尊敬する人は、世界でただ一人、妻です。