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【短編小説】見上げればいつの間にか秋の空

失笑恐怖症という病気があるらしいことを最近知った。
緊張や不安、過度なストレスを緩和させるために脳が防衛本能で強制的に笑わせている病気で絶対に笑ってはいけない状況で笑ってしまう病気だ。
若い頃、私は場の空気を全く読まない男と言われていて会社の上司が激怒して説教をしている時も大笑いして周囲を唖然とさせたものだった。友人が交通事故に遭った時も、恋人と別れて大泣きしている時も私は大笑いしたものだった。
今となってはどれもこれもこの病気のせいだったのかなと思うが当時のほとんどの友人たちはこの私の大笑いのせいで離れていったものだ。

だがこれはこの病気によるものだけとも言えないのかもしれない。人が悲しんでいる時、落ち込んでいる時に、そんなことでいつまでも悩むのは時間の無駄だ、大笑いすることで悲しみを吹き飛ばせ、という私なりの優しさ、というか慰め方だったのだ。少し、いや随分わかりにくい慰め方なのかもしれない。だがわかる人だけにわかればいい。わからないのなら離れて行っても構わないという、これまた私の性格なので去っていってもらっても構わないと思ってたしそれは今でも変わっていない。笑いの価値が共有できなければ友人にはなれないのだ。
それに皆で集まって傷を舐め合っている群れた雰囲気がとにかく嫌いで、思いっきりぶち壊したいという、そんな性格。まあ人から見るとかなり嫌な性格のせいもあるかもしれない。もちろん常識を知らない性格もあったことも事実だ。
だがこれは悲しい場面だけじゃなく皆で楽しんでいる場、例えばお祝いの席でもこれが出てきてしまうから話は少々やっかいだ。
私としては楽しい雰囲気をさらに盛り上げその場を楽しもうとしたいだけなのだが。

ある秋晴れの日の若い頃、そんな性格、常識知らずの私は、数少ない仲の良い友人(ここではKとしよう)の結婚式にその頃一本しか持っていなかった黒ネクタイを締め颯爽と出席した。それは多少受け狙いがあったかもしれないが決して悪気があったわけじゃない。
その頃は金も無く別のネクタイを買えなかったのかどうか、その辺のことは昔のことなのでとっくに忘れたがとにかく黒ネクタイを締めて参加したのだ。もちろんKを純粋に祝福する気持ちは白ネクタイを締めてきた参加者と変わらない。

しめやかに式は進み、スピーチ、新郎新婦の微笑ましい心温まるエピソード、そしてメインイベントの親への感謝の言葉、涙、涙のうちに終わり、感動のうちに一生に一度の結婚式も終わりロビーに出た。
お礼を言いにきたのであろうKが私の方に向かって歩いてきた。そして私の前で止まりKの目が私のネクタイをじっと見つめた。

いい結婚式だった。私はホテルに戻り二人のためにワインで祝杯をあげた。
彼らに栄光あれ!
その夜、窓の外、この地特有の広々とした田んぼから聞こえてくる蛙の大合唱に悩まされながらもなんとか眠りについた。
蛙のみなさんが二人を祝福していたのか、それとも私を叱りつけていたのか。

あれからもう30年になる。月日が経つのは早いものだ。幸運なことにKとは今でも付き合いを続けていて時々酒を飲む仲なのだがその時の話は出てこない。単に忘れているのか、それともあえてその話題には触れたくないのかは知らない。

ところで先日、当時の新婦、つまりKの奥さんが癌でお亡くなりになった。丁重な文面とともにお葬式の案内が送られてきた。
私はタンスを開け喪服を取り出し、今では軽く100本はあるだろうネクタイの束を取り出そうとしたその時、偶然、本当に偶然に白いネクタイと黒いネクタイがほろりと同時に落ちてきた。
白いネクタイ、それは先日どうしようもなく軽薄な男のクソつまらないパーティーに義理で参加した時一度だけ使ったネクタイだ。
「さあ、おまえはどっちを締めるんだ?」という声が天と自分の心の中から同時に聞こえてきた。
あの結婚式から30年経って少しは社会性も身につき、常識、知恵もついてしまった私は白いネクタイを見た後黒いネクタイにも視線を移し、少し考えてからその二種類のネクタイを静かにケースに戻した。哀悼の意を表しながら。
そして大きくため息をついた後、お葬式の案内状には欠席に印をつけポストに投函した。
秋晴れの空、気持ちの良い午後のことだった。
私は空を見上げ、そして大笑いした。


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