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【短編小説】エリック・クラプトンやジェフ・ベックになりたかった日(あの選択をしたから (1))


2023年7月は「観測史上最も暑い月」になる――。世界気象機関(WMO)などは7月27日、このような見通しを示した。国連のグテーレス事務総長は同日の記者会見で「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰の時代(the era of global boiling)が来た」と述べ、各国政府などに気候変動対策の加速を求めた。

6~8月の夏の期間の平均気温を見ると、東日本、北日本で平年より1.5℃以上高い領域が広がっています。夏の日本の平均地上気温はこれまで最も高かった2010年を上回り、1898年の統計開始以来、1位の高温となる見込みです。7月に入ると暑さが一層厳しくなり、梅雨明けした7月下旬は24日から31日にかけて観測史上2番目の長さとなる8日連続猛暑日を記録しています。8月も暑さは衰えず、猛暑日日数は過去最多となる21日まで増加。7月6日から始まった連続真夏日は今日8月29日(火)の時点で55日と依然として記録更新中です。

来る日も来る日も暑い暑い日々が続いている。
今年の夏は全く暑過ぎるよ。Kはヘッセの小説にあったセリフを力なく呟いた。2023年夏は史上最も高温になり、過去最高の2010年を上回る見通しらしい。これだけ暑いと外に出る気など完璧になくなるのだが、それでもどうしても外出しなければならない時はその瞬間にうんざりする。暑さで方向感覚を失ったセミが顔にぶつかってきた。歩道を渡ろうと信号待ちしている時に暑さゆえ阿修羅のような顔をした主婦が電動自転車の前後に小さい子供二人乗せKの鼻をかすめて猛スピードで側を走り抜けて行った。その瞬間Kの弱音は怒りに変わった。例えは少し古いかもしれないしこの場合とは意味は違うかもしれないが瞬間湯沸かし器になったというわけだ。
Kは激怒すると何をしでかすかかわからない性格を自覚しているので努めて冷静に対処するようにしているが、この時は心のタガが外れていつ犯罪に走るかもわからなくなってきたので自分のことが怖くなりとりあえず冷たいものでも飲んで一休みすることにした。
 銀座のど真ん中、4丁目の交差点にあるカフェは混んではいたが平日のせいもあり窓側の席に座ることができた。ここでアイスコーヒーを飲み少し落ち着きを取り戻した。日本で一番地価の高い喫茶店は値段も高いが犯罪を犯すよりはましだ。
下界にいるとそれが全てだと勘違いしてしまう。Kは上界から下界を見ることしたんだ。
カフェから見る交差点には様々な人が行き来している。買い物に来た主婦、営業のためクライアントに訪問しにいくビジネスマン、円安恩恵に預かり治安の良い日本に旅行に来た外国人観光客。
人それぞれに人生があるという柄にもなく哲学的な思いに耽っているのは冷たいアイスコーヒーに潤わされたからなのかもしれない。この交差点を歩いているのはある程度の生活水準のある人たちだろう。少なくとも最近日本にアメーバのようにじわじわと広がってきている貧困に喘いで苦しみながら今日の食事の心配をする人たちではない。
それはカフェで冷たいものを飲みながら通りを見下ろしているKでも、だ。
ボンヤリと日本で一番地価の高い交差点の景色を眺めながらKは今までの人生のことをいろいろ思い出した。

Kは名門と呼ばれている大学に入学したものの周りはあまりにも平凡(に見えた)でテニスやサーフィンと女のことばかり考えている学生はあまりにも自分とは違う人種に見えた。趣味も話も合わず退屈でそのうち学校には通わなくなってしまった。真面目な学生ももちろんいただろう。だがKの周りには見当たらなかった。そんな奴らのことなどとは関係なく自分は自分でやればいいのにこれが若気の至りというものなのか。
音楽が子供の頃から好きだったのでバンドでギターを弾きライブ活動をしていた。
生活費をバイトで稼ぎながらミュージシャンを目指していたんだ。
つまり将来のことを考えないよくいる安易に考えているバカ学生だったんだ。
だが時々雑誌で紹介されたり評判もそこそこよかったKは自分には少しは才能があると思っていた。
当時まだ20代の前半、不可能なことなどないと思っていたKは、ゆくゆくは世界的に有名なジャズプレーヤーのバンドに入って世界中を回ることを本気で考えていたんだ。
自分で曲を書いてメンバーに演奏してもらいお客からの評判もいい。この生活は楽しくて楽しくて仕方がなかった。ライブハウスで土曜日の夜にブッキングしてもらうことが決まりオーナーから「次のライブのときにあの有名なプロデューサーが君たちの演奏を観に来るよ」
と言われた時はついに夢が叶うと思った。
時はバブル前夜、仕事はいくらでもあったしギャラもよかった。
少しオーバードライブが掛かって歪ませてコーラスが掛かって空間系の音になったギターの音、まさに1980年代の音。あの音色でKは生きていた。
若い頃は誰にでもなれると信じて疑わない。マイルス・デイビスにも、ピカソにも、ヘミングウェイにも。ゴダールにもマルチェロ・マストロヤンニにも。
Kはエリック・クラプトンやジェフ・ベックのようなギタリストになりたかったんだ。

バンドのライブが終わった後ライブハウスのオーナーから呼ばれた。
「次回から土曜日の夜にライブをやって欲しいんだ。客の入りもいいし演奏も上手いし音楽性も高いからね」
Kもメンバーも快諾した。少しづつ目標に近づいていると感じたんだ。
「それと今度のライブのときにあるプロデューサーが君たちを観に来る。」
業界でもやり手のあのプロデューサーと話がつけばついにデビューだ。そうすればまた夢に一歩近づく。
「OK,いいライブをしますよ」ここで浮かれるほど軽い夢は持ってないKは努めて冷静に言った。

帰りに居酒屋でミーティングをしているときに、Kが一番信頼を寄せている大阪出身のドラマーが申し訳なさそうに言った。
「悪いがオレは土曜日にはライブはできない!」
聞けば生活のために演奏しているキャバレーの仕事を掻き入れ時の土曜日には休めないらしいのだ。Kは耳を疑った。
「そんなことで?これはチャンスだぞ。代理を頼めばいいじゃないか」という言葉をなんとか飲み込みつつ言った。
「お前は何のためにわざわざ大阪から出てきたんだ?ミュージシャンになるためじゃないのか?」
「生活が苦しいんだ。休むわけにはいかないんだよ」
「それに今度結婚するんだ。費用を稼ぐために少しでも働かなきゃならないんだ」
Kは唖然としながらも怒りを抑えつつ言った。
「結婚式を少し待って待ってもらって、とりあえずチャンスを掴めるかどうか試してみることはできないのか?」
「無理だ。一回でも休めば他の人に仕事を取られちゃうんだよ。掴めるかどうかわからないチャンスにかけるより、とりあえず今は目の前の仕事をこなすことの方が大事なんだ。オレは早くあの女を幸せにしてあげたいんだ」

こいつはあまりにも長く続いた下積み生活で本来の夢や情熱を失ってしまったのか。
都会の生活に敗れ貧しさに慣れてしまい夢を失ってやがて故郷に帰っていく。
そんな昭和歌謡曲の演歌のような世界をやろうというのか?
「人生のうち何回あるかわからないココぞというときには勝負しなきゃいけないんだよ」
人間頭に来た時はこんな青臭いことを言いそうになる。Kはこの言葉を飲み込んだ。
当たり前のことだが人の生活までとやかく口出すことはできない。それはKが一番嫌う余計なお世話、お節介というものだ。こいつはこいつなりに考えて結論を出してその選択をしたんだ。それも自由だ。自由が全て、自由が何よりも大切なんだ。
Kは最後のコーヒーを飲みカップを置いて言った。
「OK、だったら仕方がないな」

(続く)

#あの選択をしたから


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