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カンテ・ホンドの世界 (フラメンコ文化の一側面)① 序章


協力ビセンテ・アヤ(セビジャ大学教授)
曲種解説マリア・デル・カルメン・コルパス・マルティン(当時(現在不明)バルセロナ在住、カンタオーラ)


カンテ・ホンドの世界をちょっと紹介してみようかと思う。

以下の論は2009年1月から「パセオ・フラメンコ」誌に1年間連載で書いた拙文をもとにしたもので、現在も言語学と並行しての研究テーマであり、まあ、まもなく後期高齢者になり、遺稿の意味も込めて、この世界をちょっと紹介してみたく、まとめてみました。

序:Flamenco(フラメンコ)とは?

2002年から2003年にかけて、筆者はスペインセビジャ【注①、本文中に○付数字で表します】に所属している大学の在外研究員として、セビジャ大学で言語学の研究に専念する一方、指導教授のイスキエルド先生 (Fernando Rodríguez Izquierdo) と宮沢賢治の詩や大江健三郎の著書の翻訳に携わったり、イスキエルド先生の俳句の翻訳理論などの授業にも参加していました。また渡西前からの友人で俳句の研究者でもあるビセンテ (Vicente Haya Segovia、現セビジャ大学教授) との親交を深め、彼が提唱するスペイン語の情緒的動性 (dinamismo emocional) と日本語の感情的静性 (sosegado sentimiento) の立場から、スペイン語の動的表現に関する本を出そうという計画も提案され、その後、スペイン語の「視覚表現」に関する単行本の刊行、「スペイン語の動的表現と日本語の静的表現」に関する論説の発表などで、理論言語学の研究と並行して、スペイン語、とくにスペイン南部のアンダルシア地方のスペイン語の動的表現を多く含むフラメンコの詩であるカンテ・ホンドの世界に引き込まれていくことになりました。その後の基本的なテーマをカンテ・ホンドの詩の動的な特徴をどのように日本語に訳していくかという点を中心に据えて、上記ビセンテの協力も得て、共著で「フラメンコに生きる (Vivir Flamenco)」 という草稿を完成させ、著書として刊行することを目論んでいましたが、日本では馴染のないテーマ故に出版を引き受けてくれるところを見つけられずにいました。しかしながら、フラメンコに関する専門誌の「パセオ・フラメンコ」(株式会社パセオ)の関係者に草稿を読んでいただいたところ、興味を示してくれて、単著としての出版は難しいけど、論考の中の興味深い部分を同誌に掲載してもよいとのお許しを得ることができました。さらに、パロ (palo②) の解説にビセンテの知人でフラメンコのカンタオーラであるバルセロナ在住のコルパスさん③の協力も得て2009年1月から12月までの1年間にわたり12回に凝縮して、紙面構成には編集者のT氏、イラストにはKさんの協力を得て、連載を終えることができました。この連載は、日本人の愛好家には踊りと演奏が主に注目されるフラメンコ芸術の歌(カンテ)が、主にスペイン語で表現されているためその表現の意味を理解してもらえないところを、上手く日本語に訳せば、そこには思いもよらない強烈な世界があるということを伝えることができるかもしれないと思い、現在の研究に至っています。
 


① セビリア (Sevilla) のことですが、セビジャと呼称します。
② フラメンコの曲種・曲調に対する名前。ファンダンゴとかソレアなど無数にあります。この論では、この点には踏み込まないことにします。
③ María del Carmen Corpas Martín、当時バルセロナに在住していた方でフラメンコのカンタオーラ (cantaora:歌手) をされていました。現在音信不通。

フラメンコの詩(歌)は総称してカンテ(cante)と呼ばれるが、カンテ・ホンド(cante hondo④)は力強い感情的情感を込めて歌われるカンテのことである。アンダルシアの詩人マヌエル・マチャードが、「カンターレス⑤、我が祖国のカンターレス、カンターレスはアンダルシアだけのもの」(Cantares, Cantares de la patria mía…Cantares son sólo los de Andalucía)と詠っているように、深い感銘を与えてくれるほとんどの詩がアンダルシアの民衆の心の奥底から出てきたと言っても過言ではないであろう。

フラメンコを知ることは、アンダルシアの民衆の心に触れること。とくにフラメンコの詩を知ることはアンダルシア地方のスペイン語の心に触れ、ジプシーたちの心の叫びを体感することである。この稿からしばらく、フラメンコのカンテ・ホンドの広大な精神世界の一部をそのテーマに沿って眺めてみたい。
 
フラメンコの詩には「静まることのない動性」がある。これは挑発的で主観的で無遠慮な言語を用いるアンダルシアの民衆の特徴であり、論理よりも画像的イメージを追究する視覚的なものであることに由来する。

カンテ・ホンドが具象化する典型的な例は、嫉妬、復讐、自尊、死、愛、脅迫、不信、罵倒、不誠実、呪術、誇張、不服従、快楽、放蕩、怠惰など。まさに「情熱(心の激しさ:pasión)」の世界であり、これらの感情や情態は、敏捷で、針で刺すように鋭く、瞬時に捕まえることができない動的なアンダルシアの言語によって表現される。「情熱」は、カンテ・ホンドにはところかまわず出現する。それはカンテ・ホンドが、アンダルシアが経験したイスラム文化に深く根ざしていることを示している。というのは、情熱的であることが不純で罪深いことであるキリスト教世界とは異なり、イスラム教世界では「情熱」が至極当たり前のこととして受け入れられるからである。そして、その「情熱」は喜びであり、魔術であり、度を超せば越すほど、カンテ・ホンドの深淵な世界が広がるのである。

その心の激しさを表すカンテの代表作として、アントニオ・マイレナがラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネスに捧げて歌った次のカンテを紹介する。

結婚相手は両親が決めるというジプシーの掟に逆らって、愛する人との結婚を望む娘が、もし叶わぬなら家に火を放つという誓いを密かにたてる。「何もかもいっしょに(con toíto lo que tiene)」という表現がすべてが焼き尽くされ、誰一人救われないという壮絶な決意に至ったことを表している。愛する人との結婚か全てを燃やしてしまうかという極端な選択しかない激情が愛の凄さを表わしている。

カマロンが歌うブレリアの名曲Pasando el puenteの1節yo siempre estaré a tu lao y no me iré de tu vera
(lao=lado、ずっとお前のそばにいて、お前を捨てたりなんてしないさ)という男の誓いがあってこそ、この娘の壮絶な誓いが生まれるのである。

それはローレ・モントーヤが歌う「愛の夜」のテーマにつながる。(次の稿で紹介します)

「激情(furia pasional)」
(スペイン語)
Si mi mare no me casa
para este domingo que viene
le pego fuego a la casa
con toíto lo que tiene
※mare = madre, toíto = todo)

(日本語)
次の日曜日までに
母が私に結婚させてくれないなら
何もかもいっしょに
この家に火を放つ

(クレジット)
カンタオル:アントニオ・マイレーナ
曲種:タンゴ(エクストレマデュラ風)またはガロティン
音源:フラメンコ・サイト「flamenco y universidad」というサイトから試聴できたのですが、現在閉鎖されています。

参考文献
AOKI, F y HAYA, V. Expresiones de dinamismo emocional en la poesía flamenca Expresiones de sosegado sentimiento en el haiku, la Universidad de Fukuoka, 2005.
AOKI, F y Haya, V. Expresiones dinámicas del flamenco, la Universidad de Fukuka 2006.
AOKI, F., HAYA, V., TSUJI, H. y HERNÁNDEZ ARRIBAS, Mª. J. Expresiones visuales del castellano (usado en Andalucía). Editorial Geirin. Tokyo, 2004.



④「カンテ・ホンド」はCante Hondo(標準的なスペイン語では「カンテ・オンド」とhを発音しない)またはフェデリコ・ガルシア・ロルカの作品に由来してCante Jondoと書かれるが、アンダルシアでの実際の発音は「カンテ・ホンド」である。
⑤フラメンコの歌も含めたさまざまな形式の民衆の心の歌カンタール(cantar)の複数形。

続く


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