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伏見城址には謎の『盛り土』があった!?

京都『伏見城』は三度に渡り築城されたのをご存知でしょうか?

伏見城の模擬天守

最初の城は1596年当時に存在した『巨椋池(おぐらいけ)』の北側に築城されましたが、慶長伏見地震によって倒壊しました。

二度目は近隣の『木幡山』に再築されましたが、戦いで焼失。

そして三度目は徳川家康により再建されましたが、明治時代の『廃城令』により破却され、本丸跡などの主郭部分は、のちに『明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)』となり、無許可での立入りが禁じられています。

(京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言によるものといわれています)

墳丘は上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれています。

その後、日本考古学協会により、『伏見桃山陵』の調査(2009年2月20日)が行われたところ、本丸跡などの主郭部分に『4ー5メートルの盛り土』がなされていることが判明しました!!

しかし城郭を記した歴史的文献には存在しないため、『未発見の古墳』ではないかともいわれています。

また『伏見城』花畑跡には、「伏見桃山城キャッスルランド」が建設(1964年)され、『洛中洛外図に描かれた伏見城』を参考にした大天守と小天守、櫓門などの『模擬天守』が造られました。

しかし、同遊園地は経営母体であった近鉄のリストラの一環で閉園。
(2003年1月)

『模擬天守』だけは市民運動により、伏見のシンボルとして保存されることになりました。

ところが『模擬天守』は、耐震基準を満たしていないことから内部は非公開。

また改修には数億円かかるとされることから放置状態が続いています。
ちなみに、ふもとにある御香宮神社には、廃城となった『伏見城』の大手門が移築されたり、『伏見城』の石垣の残石がゴロゴロと置かれていたりします。

伏見城の石垣の残石

また、城下には巨石の石垣を持つ住宅がたくさんみてとれますが、『伏見城』と何か関係あるのでしょうか?

いずれにしましても、気になりますのは『本丸跡の盛り土』です。
『4ー5メートルの盛り土』とはいったい何なのでしょうね?

調査の再開が待ち遠しいです♡

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