青春の終わりと情熱の国
大学時代からつきあっていた彼と別れた日から、ただの積立貯金が、留学貯金へと変わった。
当時私は、大学卒業して一年目、実家の旅館に戻り、家業を手伝っていた。
氷河期真っ只中のその年、もしもあのまま京都に残り、学習出版社の営業職に就いていたら、この彼とは、もう少し長く続いただろうか?
本人が感じていた以上に、この別れの痛手は、身体に顕著に現れた。
体重が5キロ減り、目の周りが、カサカサと赤くなり、化粧ができない状態になった。
アトピー性皮膚炎発症。
皮膚科に行って、副腎皮質ホルモン入りのクリームを塗れば、何とか落ち着くが、それをやめると、かゆみと赤みは再発し、
どんどんとそのクリームへの依存度が高くなっていった。
まるでドラッグ中毒者のように、月日が経つごとに、使用量が増えて行き、その反動も大きくなった。
クリームを使った後は、すべすべになるので、ちょっとでも赤くなると、またそれに手を出して、一時的使用のクリームのはずが、気づけば常用状態。
失恋して、ぼろぼろになった痛い女。
そんな肩書きは背負いたくなかったので、
こんな見た目になっていても、
新しいワンピースを買い、お花を習い、友人たちと美術館へ行き、
平気だよ、私は強いから!
というボディースーツを身にまとい、
毎日を過ごしていた。
今思い返しても、一番痛いのは、
その失った恋の顛末を見届けに行った日のこと。
遠距離恋愛の終止符を、電話だけで打たれたのでは納得できず、
話は直接聞きたいとせがみ、
京都で会う約束をした。
彼が、よく似合うと褒めてくれたお気に入りの薄いブルーのセットアップを着て、ヒールを履き、精一杯綺麗にメイクして、
別れる気を揺るがせてやろうと、
変なやる気だけはみなぎっていた。
「私を手放したら、後悔するわよ。」
気の強い私は、こんな言葉を心の奥底に潜めていた。
彼は優しかった。
そんな痛い私を見て、ちゃんと手を繋いで歩いてくれた。
大学時代四年間を過ごした思い出いっぱいの京都の街は、どこへ行っても彼との記憶しかない。
その日、どこへ行って何を話したかは、さっぱり忘れてしまったのに、
最後に別れのキスだけかわし、電車に飛び乗ったことだけは、鮮明に覚えている。
所詮、私はカッコつけの
自己顕示欲いっぱいのどうしようもない女だったから、
こんな映画のような結末で、悲恋の小説本を閉じるように、青春時代の恋愛を締めくくりたかったのだろう。
そこに、相手の立場に立つという視点を持ち合わせていたなら、
もしかするとこの恋愛も続いていて、
この人とゴールして良妻賢母になっていたかもしれない。
しかし、私にはこう言った世の中の男性陣が憧れるような、
気立てが良くて、
料理が上手で、
少し控えめで、
と言った要素は全くなく、
こんな痛手を被った後でも、本人自体が持て余す性格は、何ら改善されることなく生きていくことになる。
実家の温泉旅館にまるまる6年間勤めた28歳の時、
私はイタリア、フィレンツェへと飛び立つ。
大学時代の彼が絶賛したこの街は、卒業旅行の時に訪れ、私自身も一目惚れしたが、
留学先に選ぶとは、
やっぱりこの恋を引きずっていたのだろうか?
パリという選択肢もあったのだが、
パリにはみんな行っているから、
という天邪鬼な理由で、フィレンツェに決めた。
積み立て貯金を始めた頃は、曖昧だった行き先と目的が、徐々に定まっていく。
学生時代からワイヤーとビーズ、半貴石などを使って作っていたアクセサリーは、友人たちの間では好評で、お金を出して買ってくれる人もいた。
本場ヨーロッパのジュエリー学校に通うことを念頭に置き始める。
建築学科だった彼がこよなく愛したルネッサンス建築の最高峰であるドゥオモのあるフィレンツェは、
はからずも彫金の街でもあった。
ベッキォ橋にずらりと並ぶ貴金属店。
その橋の真ん中には、彫金の神様と呼ばれるベンべヌーと チェリーニの胸像が、威厳を放って立っている。
まさか、この街に留学できるとは!
一年間イタリア語を地元の温泉地でコツコツと学び、
東京に何度か足を運んで、留学先の学校を検討する。
インターネットでは、まだまだ情報が手に入りづらかった時代だ。
結局、自分の足で動くしかない。
大阪領事館で一年間のビザを発行してもらう。
この間、親兄弟たちは、あまり本気にしていなかった。
「はぁ、イタリア?お前大丈夫か?」
と、訝しい顔をするだけで、水面下で準備をしている私には、見て見ぬふりをしていたのだろうか?
当時一緒にいた、超イケメンの彼氏も、本気にしておらず、
というか、どうにかこの計画が実行されないことを願っている感じもあった。
初志貫徹。
拾って猫っかわいがりに可愛がって育てた、尾曲の白猫ちゃんも、
超イケメンの彼氏も、
家業も、
ひとまず全て置いて、私はフィレンツェへ飛び立った。
青春時代の苦い思い出が、私をこの土地へと向かわせた原動力だったかもしれない。
一つ一つ準備をして、周囲を説得して、
ハードルを乗り越えて、たどり着いた成果を
意気揚々とした高揚感と共に、
オレンジ色のスーツケースに詰め込んで。
23年経った今、このサムソナイトのスーツケースは、相変わらず私と共に夢を運び続ける。
違っているのは、私の横にイタリア人の主人と、二人の女の子たちが加わったこと。
そして、28歳で留学して一からイタリアで学んだ彫金が、私の天職となったこと。
人生、最悪の時にした選択で、今の私があるといっても過言ではない。
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