読書感想文:ハーモニー

まえがき

<list: item>
    <i:資本主義>
    <i:社会主義>
</list>

義務教育のどこかで必ず習う、現代の主流な政治・経済体制の二つ。日本は前者、資本主義を採用し、そこでは、資産は個人たる資産家に帰属し、経済は利潤を追求して活動する。

対する社会主義は、資産は個人ではなく社会、あるいはそれを構成する社会組織それに帰属し、資本の持ち主としての個人は存在しない。

社会主義は、現在の世界では勢力を弱めているものの確実に存在する。そして半世紀前には、国家的に社会主義を掲げた大国さえ存在した。

しかし彼らは衰退した。

個人の努力量に依存しない平坦な評価、平坦な報酬は、個人から努力に対する積極性を奪い去り、経済成長を阻害した。

——ここまでは、「資産」の在処が個人であるか社会であるかの対立の話。全資産の所有権が統治者から剥奪された後に、その帰属先をどこにするかの問題。

では。
問題となるのが「資産」の在処ではなく、「生命」のそれであったとしたら?
今は個人に帰属している生命が、社会に帰属するようになったとしたら?

あなたのいのちはあなたのものではありません、
社会のものですと言われたら?

……

伊藤計劃が世に送り出したSF3部作の2作目「ハーモニー」は、そのような世界が実現した、してしまった未来を空想する。

あらすじと構成

〈大災禍:ザ・メイルストロム〉
21世紀初頭に世界が直面した、時代の転換点。

核が使われ、人類の存続さえ危ぶまれたこの大災害を経験した「ハーモニー」の世界の人類は、政治的イデオロギーをそれまでとは全く違うものに転換しなければならなくなった。

高度な医療福祉社会
全ての病は駆逐され、全人類が健康になった世界

——といえば聞こえはいいが、ことはそう綺麗事では語れない。
「全人類の健康」を実現するために、人類は自分の生命を、自分の身体を、その所有権を、管理権を、社会に差し出した。社会は人類の生命を、身体を、人類から取りあげた。

あなたがたは健康であるべきです。
健康であるべきなので、あなたがたはあなたがたの、
生活の一切を、
健康状態の一切を、
社会に開示しなければなりません。
あなたがたの身体は、あなたがたのものではありません。

そんな、現在では考えられないほどに個人情報が保護されなくなった時代に、3人の少女がいた。

御冷ミァハ。
零下堂キアン。
そして霧慧トァン。主人公。

彼女たちはこの高度に健康であることを半強制的に保証する世界に抗った。

***

この作品は、独特な文体で紡がれる。
紡ぎ手は、主人公である霧慧トァンその人であり、逆に彼女以外の人物が紡ぐことはない。

つまり、読み手は霧慧トァンの人生を追体験するように物語を読み進めることになる。

そこには、霧慧トァンという一女性以外の意思が介在することもなければ、脚本家による「神の見えざる手」の介入もない。
霧慧トァンが見て、感じて、知って、考えることのみが、この物語の構成要素だ。

そういう意味では、ハーモニーという作品は、小説というよりも随筆に近い。
しかしそこに、よくある随筆のような、体験談チックなニオイは一切しない。
ただ淡々と、霧慧トァンの思考をそのまま書き起こしているかのような文章構成なのだ。

もう一つ、特徴的な点がある。
文章の随所に、htmlコードを思わせるテキストが現れるのだ。
勿論このコードを100%理解する必要は、ハーモニーを読了する上で一切ないのだが、少しだけ解説すると、作中のコードは

<このようなタグで始まり、>
    ここに内容が書かれ、
</このようなタグで終わる>

というような形で用いられる。始まりと終わりのタグには同じ文字列が入るから、始まりと終わりはすぐわかるだろう。

この「コーディング」によって、文章の構成はかなりわかりやすいものになっている。

  • 説明。

  • 列挙。

  • 回想。

  • 感情。

通常の小説ではごった煮になっているものが、全て明記されている。

感想(ネタバレなし)

1.ストーリー構成について

この話は、大災禍と呼ばれる大暴動とそれに伴う一連の紛争状態から数十年経った21世紀後半を舞台としている。
無論、この作品が刊行された当時も、内戦だとかテロだとかでかなりきな臭かっただろうが、某国が某国に侵攻しもはや戦争であると表現せざるを得ない状況に陥っている2022年末に読むと、複雑な気持ちになる。

もし今の戦争が最悪の方向へ進んだら、核の使用がちらつかされることも否定できない。そうしたら、この作品の前提条件はある程度揃ってしまうのかと思うと、妙に現実味が出てくる。

そして、その後に確立された高度な医療福祉社会。「全疾病の撲滅」といえば聞こえだけは良いが、そのための制度、人類各人に要求される様々な制約が我々の感覚からすると到底受け入れられないものであるのは面白い。理想と現実の乖離、目的と手段のトレードオフはどこにでも存在するが、それがよく反映されている。

もちろん今この制度が提案されても実現しないだろう。しかし、「そうでもしないと人類が滅びます」と言われたら、それが誰の目から見ても明らかであったら、もしかしたら人類はこの制度に賛同するのかもしれない。
そう思えてしまうのが人類の一種の恐ろしさで、そこをうまく突いてきた設定のように感じられる。

そして、医療福祉社会を実現するための技術については、多少突飛なところこそあれど、昨今の医療技術を考えればまあそこまで非現実的でもないな、というところに収まっている。
私自身そこまで専門家ではないのであまり適当なことも言えないが、あと1、2世紀後が舞台だと「ありそう」みが増したかもしれない。一方で、現実ではあまり見られない主人公一派の名前が、その所謂「非現実感」を底上げしているので、SFにありがちな「いや、そうはならんやろ」感はかなり払拭されている。この世界ではそのようになっているんだな、という一種の納得を得やすい。

2.文体について

物語の紡ぎ方については、言うなれば「一人称過激派」だ。
主人公である霧慧トァンの足跡を辿る物語であるなら、当然その文章は

・霧慧トァンその人によって、
・その人の視点で、
・その人以外の意識を全て排して

描かれるべきだという「唯一人称」の文章。先述の通りかなり随筆に近く、もはやモノローグのみで描かれているとも言える。

この書き方は、「ハーモニー」という世界観に没入するのに幾役も買っている。

三人称視点の文章や、一人称視点であっても時系列が行き来するような、既に確定している事象についてなぞる文章は、伏線を張り巡らせたり、多くの情報を読者に伝えることで場面設定を詳細化したりできる一方で、舞台と観客席の間に明確な境界が存在する、気がする。
要は世界を俯瞰できるために、読者は一歩引いてしまう。

それに対して本作の書き方は、霧慧トァンがその時間に取得できる情報でしか舞台を説明できない一方で、彼女が取得するまで一切表に情報が出ないため、トァンその人が情報の取得に際して感じる感情が、ダイレクトに読者に入ってくる。
世界を俯瞰することはできないが、観客は舞台の真ん中に、トァンの横に立っているのだ。

これは私にとって、かなり読みやすさを感じる要因になった。文体そのものも、まるでトァンの声が聞こえてくるような自然な文体だった。
勿論執筆と出版にあたって推敲と校正が重ねられているはずなのだが、そこには「完成された文章」よりむしろトァンの「即興の文章」であるという雰囲気さえ感じられた。

またhtmlのようなコードも、よく時間軸や文章がごっちゃになってしまいがちな私にとってはかなり助けとなった。コードが明示する文章の属性を自分で読み解きたい人にとっては、答え合わせが初めからされていることになるのでどう映るかわからないが。

総括(1)

伊藤計劃の「ハーモニー」は、現実から派生しうる非現実を舞台に据え、その世界に生まれた霧慧トァンという女性の半生を、彼女の視点で、彼女の言葉で紡いだものになっている。

私はそもそも本を読まない人だったので触れてこなかっただけかもしれないが、創造神の手が一切加わらない文章というのは珍しいと思う。

私は小説を読む時、よく情景をイメージしながら、ドラマあるいは映画の映像を頭の中で作りながら読むのだが、今回に関してはむしろ漫画の1コマ1コマを、漫画の1ページ1ページを作り上げていく感覚があった。うまく言葉にできないが、これも独特な書き方に起因する現象なのだろう。

三人称視点の文章に、または一歩引いた視点から、全てを知っている傍観者として作品を読むことに疲れた人で、この作品の世界観に拒絶反応のない人には、是非読んでみてもらいたい。

感想(ネタバレあり)

※※ここからは、ネタバレを恐れずに私の感想を全て書き出そうと思う。まだ読んでいない人はここより先には進まないでほしい。※※

もしかしたら

私はネタバレ踏んでも面白く読めます!

という人もいるかもしれない。しかしこればかりは、今回のハーモニーという作品に関しては、どうかトァンと同じ時間軸で、彼女と共に事態の変化を経験してほしい。それでこそ、このハーモニーという作品の独特な文章が生きると思うのだ…!!

頼む!!!!!!!!どうかこの通りだ!!!!!!!!!!!!

ということで、ここからしばらくはブラウザバック用の余白とします。





































さて、本当の話をしよう。

命名規則

物語の本筋に触れない話からすると、この作品では固有名詞が面白い。
ミァハとかキアンとかトァンとかヌァザとかいう人名もそうだし、WatchMeとかSearchYouとかHeadPhoneとか、無機物あるいは装備品とでもいうのだろうか、そういうものについてもだ。

人名については、時々ケイタとかレイコとかそういう普通の名前も出てはくるのだが、どういうわけか主人公周り3人組やヌァザあたりの人物の名前だけ、いわゆる「普通」を逸脱している。

もっとも、彼らの名前についてはついぞ語られなかったが。

そしてWatchMeやSearchYouのようなものの名前は、かなり「安直」な付け方になっている。だがこれは決して、作者にネーミングセンスがないわけではない。
WatchMeやSearchYouは、作中では今や人類社会において広く定着した概念だ。いや、広く定着させなければならない概念だった、とでもいうべきか。そこには婉曲な言い回しは一切必要ないし、寧ろ機能を端的に表す固有名詞の方が受け入れられやすい。
逆に公的機関たる螺旋監察官という役職に関しては、そういうものではないと言うこともあってややこしい名前がつけられている。由来についても作中で説明があるが、読む限りこの日本語の役職名は英名を直訳したものっぽくつけられているような気がする。

この、名前の付け方について概念のジャンルごとに一定の主義が見て取れるのが、設定にリアリティを付与している。グローバルな固有名詞になっているWatchMeとかが全てこの英語表記であるのもポイントが高い。
名付けは創作の基本だと私は思っているが、その点で大正解を行っていると言っていい。

体験の共有

感想(ネタバレなし)でも書いたが、ハーモニーの醍醐味はやはり、独特な文体によって読者が主人公霧慧トァンと体験を共にできるというところだろう。

トァンと再会したキアンがレストランで自死を図ったシーン。
これはPart1の最後にあたるのだが、ここでは淡々とその情景だけが記述されている。

キアンはどういうわけかじっとうつむいていて、突然「ごめんね、ミァハ」と口にするとテーブルナイフで喉を裂いた。トァンはといえば、目の前で鮮血を噴き散らして果てていく友人を見ているしかなかったわけだ。

三人称視点であれば、ちょっと筆を滑らせたらまさにその状況をそのまま文に起こして書いてしまうところではあるが、そうはなっていない。どころか、Part1はキアンの自死の瞬間を描いた後、今後の展開のために必要な「世界で同時に6500人もの人が同時に自死を図った」という情報の開示がされただけで終了するのだ。

これを著者がどのように意図してこういう切れ目にしたのかはわからない。
ただ単にちょうどいい区切れであったからかもしれない。
ただ、私の感覚として、これはトァンの記憶というか、意識というか、それがここで途切れていることを暗示しているように思えた。

これはPart2の始まり方からも醸し出ていると思う。
Part2は、etmlタグ「flashback」でキアンの遺言を反芻する場面から始まり、その後すぐインターポールの報告の場面へと移る。

***
少し脱線するが、このetml——Emotion-in-Text Markup Languageのタグは読者に、そこで定義された感情の読取を強制する。
これは私の読書経験が著しく低いことによる偏見かもしれないが、小説というのは、情景描写であるとか発言であるとか、そういう地の文から登場人物の思考や感情を読み取り、言い方は悪いが「分かった気になって」読み進めていくものだと私は理解している。だからこそ、人によって受け取り方が違ったりするし、書く側は書く側で、それを読み取らせるための婉曲表現に力を入れたりするのだと。寧ろ直接的な感情表現はチープになりやすいのだと。
そうであるところ、etmlによる感情の明示は、読者からその読み取りの自由を奪う。これは見方によれば悪い傾向に見えるかもしれない。しかし、自由がない分、そうであると——その感情であると思うしかなく、これが、読者と登場人物——霧慧トァンの感情のリンクを促してくる。
沈黙
恐怖
緊張
焦燥
しかもこれは、プログラミングに触れたことがある人特有なのかもしれないが、半ばその感情すら強制されているような感覚に陥る。
プログラミング言語は基本的に「命令文」だ。
プログラミング言語を読む「コンピューター」は、そこに書いてある「命令」を一言一句違わずすべて忠実に実践する。
そして今、etmlコードを読むのは私たち読者だ。
そこに少し、プログラミング言語は命令文で、コンピューターはそれを忠実に再現するのだという意識が入り込むと、もしかしたら私はこの感情に今ここでならないといけないのではないか、という不安に駆られるのだ。
実際、このetmlコードは、エピローグで明かされるように感情を想起させるためのコードであり、元来「この感情に今ここでなりなさい」という命令であることに変わりはないのだが、それを明かされるまでもなく、そんな気になってしまうのは、etmlコードを用いた文体の一つの武器なのかもしれない。
***

また、キアンは実は死の直前に死んだはずのミァハと通話していたのだ、と気づくシーン。トァンは自分が通話をしているとき、キアンが死ぬ直前、遺言を発する直前にそうしていたように、ただじいっと俯いて地面を見つめていることに突然気づき、この真実にたどり着いた。

驚くべきは、この時トァンがおそらくそうであったように、一文一文を読み進めながら、想起→発見→懐疑→確信の流れをなぞってしまったことだ。

もしストーリーの書き方が唯一人称でなかったら、どこかでここに繋がる伏線を他にも張っていたかもしれない。否、そうはならなかったかもしれないけれど。ただここに至るまでその可能性を想起させる表現が現れなかったことを、合理的に説明できるのは恐らく唯一人称だけだろう。

唯一人称では、語り部の認識の外にあるものは表現されない。
トァンその人が思い至らなかった可能性は、読者にも開示されない。
ゆえに、トァンが気づくまで、読者は気づくことが出来ない。
読者はトァンと同じ時系列でしか、物語を体験できないのだ。

ここから、物語は急展開を迎える。

技術の進歩と秘匿

ミァハの生存が明らかになり、トァンは、ミァハが13年前に死んでから引き取られた先の自身の父、霧慧ヌァザへの接触を急ぐ。冴紀ケイタとの接触を経て医療都市と化したバグダッドで出会ったヌァザは、トァンにWatchMeに関する重大な事実を告げる。

これは或いは、メディケアの設定——「毒物の合成だって可能だが、プログラム上で禁止されているだけ」——があったところの時点で結論付けられていたのかもしれない。

WatchMeは、6500人が同時に自害を試みた事件の調査の際には「脳には入ることが出来ず、人間の脳を監視することはできない」と説明された。脳血液関門を突破できないからだと。

しかしこれは、脳血液関門を突破できる分子を衣とすることで容易に解決されたという。
よく考えればそうだ。人体構造、特に脳血液関門のような選択機構は、通過させるかさせないかを表面の受容体で判断する程度のことしかしていないだろう。それは、再外殻が「通過可能な分子」であれば、容易にゲートを開けるということだ。

ここにも科学的なリアリティがちりばめられている。

そして、その上で、つまりWatchMeが脳すら監視できるようになっている上で、ここでやっと、人道的、倫理的な問題が浮き彫りになるのだ。

  • 健康状態のモニタリングでは問題にならなかった問題。

  • 健康状態や個人情報の開示でも問題にならなかった問題。

それは、人類が人類であるための、否、動物が動物であるための最終関門、「意識」の社会資産化の水際で、辛うじて発現した。

  • 意識まで制御してはいけないというヌァザの立場と

  • 意識さえ制御すべきだというミァハの立場。

そしてすべてのスイッチはヌァザが握っていた。つまり、ヌァザという「プログラム」によって、WatchMeが意識をコントロールすることは禁止されていたのだ。

思想の対立

ヌァザの立場は至極自然だろう。私でもそちらの立場に立つ。
だが、ミァハの立場は、ミァハの過去を思えば、ミァハにとって至極自然であったのだろう。

生来意識を持たなかったミァハは、性奴隷として消費される日々の中で後天的に意識を獲得した。
そして、意識がある中で徹底的に自己を律し、社会規範に自身を調律していく世界の中で、調律に失敗した人間が次々と自死を選ぶ現実を知った。

社会主義は、個人の意識依存するところである個人の努力を蔑ろにしたため衰退した。
生命主義も、個人の意識に依存するところである個人の生活を蔑ろにして、全て社会資本としての生命であるべきという考えを強要したため、衰退する運命だった。

しかし、社会があまりにも強すぎたのだろう。生命主義社会という大きな生物が衰弱する前に、生命主義社会における癌細胞である、生命主義の規律に則せない人間が、耐えきれず細胞自殺(アポトーシス)を起こしてしまったのだ。ミァハはそれが許せなかった。

ミァハはハーモニーを憎んでいるように描かれた。しかし本当は、ハーモニーを目指すことで脱落者が出ること、それそのものを憎んでいた。
13年前はハーモニーがおかしいと思っていただろう。
しかし、WatchMeの技術を用いれば、脱落者の方を防げると気づいたのだ。

  • ミァハは「人間がどれだけ野蛮になれるか知ってる」。

  • そしてハーモニーは「野蛮——自然を抑え込む」。

もしハーモニーを維持したまま、ミァハの憎むアポトーシスを防げるのなら、彼女の中での最適解がそこに落ち着くのは自然だ。

私はミァハのこの思想を見て、この思想をトァンに披露するミァハを見て、人道性という意味では寧ろミァハの主張の方が正しいのではという気さえした。
ミァハの目指すところは、つまるところ、誰も苦痛を感じない真の「ユートピア」であり、それがたとえ意識の消失という帰結を産んだとしても、得られるのはグローバルな幸福だった。
それに対するヌァザの考え方は、意識の制御の倫理的問題というローカルな幸福を得るために、アポトーシスという、グローバルな幸福の欠如を無視するものだったのだから。

どちらにせよ、ミァハは意識の消失を望んだ。しかし彼女自身はその恩恵を享受することはなかった。

トァンがミァハを撃ち抜くシーンはかなり印象に残っている。
銃声は表現されず、ただ引鉄を引いたことだけが描かれた、ささやかな復讐の場面。

二人が対面してから、バンカーに吹き込む風がひゅーひゅーと鳴っていた。この音はいつしか、死にゆくミァハの吐息と重なる。
そしてミァハは死に際に、自身の故郷の景色を見たいと言う。
しかしミァハがコーカサスの山を見て何を思ったか、それはトァンによっては語られない。

総括(2)

何度も言うようでくどいだろうが、ハーモニーの醍醐味はその独特な語り口にあると言わざるを得ない。この「唯一人称」の所為かお陰か、文章上に現れる設定要素はかなり限定的で、そこを掘り下げるのはかなり難しいところではあるが、その一方で物語の「展開」を楽しめる作品であるというのは間違いない。

この文体の真相はエピローグで語られるように、結果として全人類——少なくともWatchMeをインストールしている人類が脳の報酬系が最も合理的なものへと置き換えられることで「意識」を喪失し、全員が同じ判断基準を持った完全なる社会的存在へと移行した後で、「感情」を人工的に生起させるためのテキスト言語「ETML——Emotion-in-Text Markup Language」で霧慧トァンの経験を綴ったものだという。

意識がなくなった後、あらゆる選択から解放された人類の「感情」は、書かれている通り、然るべき時に泣き、然るべき時に笑う、プログラムされて決定論的に完全に予知できる一つの事象でしかないのだろう。
そしてその中で、霧慧トァンの感情を霧慧トァンが感じたように思い起こすには、テキストの中に感情を、適切な感情を適切な場所で想起できるように埋め込んでおく必要があるのだろう。

完全な社会的存在になった人類がもし物語を読むとしたら、そういうギミックがなければならない。そしてそのギミックの上では、全人類が同じ文で笑い、同じ文で泣くのだろう。そこに文学性はないような気もするし、そういう世界に文学はもはや存在しえないのかもしれない……

っと、話が逸れた。

ともかく、ハーモニーという小説の最後では、全人類は外見の違いを除いて個体間の差異を一切喪失したということになる。
物語の終結後において、そこに生きる人類は全て個を失った集合体。
そこには二人称も三人称もない、一人称だけの世界。

すると、私には、この物語の冒頭で語られるこの文章に、次のような意味が込められていると思えてならない。

今から語るのは、
<declaration: calculation>
    <pls:敗残者の物語>
    <pls:脱走者の物語>
    <eql:つまりわたし>
</declaration>

ここに書かれるplsというタグは、ここを除いて現れない。
私はこれを、declaration: calculationというタグの類推からplusの略だと推理する。eqlequalだろう。
そしてエピローグで、全人類が社会として統合された後、「我々の『わたし』の最後の弔い手」として御冷ミァハと霧慧トァンが挙げられていること、そして「わたし」は完全なる社会的存在となった人類が全員に共通の自我を指すときの呼称であることを考えると、この宣言は、

ミァハとトァンという二人の女性が(どちらがどちらに該当するかまでは何とも言えないが)共同で紡いだ、完全なる社会的存在としての人類の創世記

なのかもしれない、と。考えすぎかなあ。







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