汎心論とまごころ
焚火がやがて燃え尽きてしまっても―――
心はどこにあるのか。
というより、心は何でできているのか?
寒い日には考えてみるのはどうでしょうか。
まあそれは西洋人かアフリカ人か誰かがいつか答えを出すのも悪くないとしてもです。としても、別の問題はあるかもしれない。
『コウモリであるとはどのようなことか』トマス・ネーゲル著。永井均訳。勁草書房。1989。
ペラペラの本カバーに書かれている字体はかわいらしい。
けれども哲学の本。しかも、中身はなかなか難しい。
本全体としては、3分の2くらいは倫理哲学。
残る3分の1くらいが心の哲学について書かれている。
13章『汎心論』が私のお気に入りです。
汎心論とは。
耳慣れない人もいる。
心はそこまで特別なものでなく、宇宙のあらゆるところに存在しているという仮説。
※13章『汎心論』はネーゲルの汎心論についての思考文。彼はハッキリとそのような結論をだすわけではない。彼は問題提起が大事だと考えるタイプの人。
私たちは「我」を経験している。
勿論このnoteを読んでくださってるどなたかにも「我」はあるはずだ。
(”いやぁ、自分は経験しているけど、他人が本当に「我」を持っているのか疑わしいなぁ”なんて方もいるかもしれないけれど、私もそれをもっています。これは信じていただくほかない)
ところでこの「我」は、分かり易く言うと「お肉に関係している」。
脳と「我」の関係は黒いくらい疑われている。
2人は明らかに付き合っている。ウヨンウとジュノも付き合ってる。よほど鈍感でなければわかります。
というか同一人物なのでは?とさえ思う人もいるだろう。
しかし、「我=脳だ」とバッサリ言える理論家の数というのは実は多くない。みんな割と慎重派。
脳はただのブヨブヨの臓器。
なのですが、膵臓はと言うと、多分何も考えてなさそう。
私の脳は浜辺美波ちゃんのことを考えられても膵臓は考えない。
膵臓も考えてよさそうなのにね。
ところでダンゴムシに「我」はあるのでしょうか。
直観的にはありそうな気もする。
けれども、ダンゴムシには大脳がない。神経の塊。
自然によって何億年も前に作られ、
じめじめした岩の下に住んでるロボット。みたいな彼ら。
(『ダンゴムシに心はあるのか?』はすごく読みやすい本)
では岩には「我」はあるのでしょうか。
ないでしょうか。本当でしょうか。
私たちの脳は、たとえば寝ているときはほとんど何も感じたりしない。
岩はいかなる条件、どこでもどんなときでも「我」が絶対に生じないんだろうか。黄山からはがれた岩でも、杜王町の真ん中にあるものでも。
大体、原子や分子といったところまでさかのぼれば、
我々(地球上にあるものすべて)は誰でも
原子や分子というパーツからできている。
かたや「我」があるように見えるもの、
かたや、そうは見えないものの違いは
単にそれらのパーツの組み合わせの違いから来てるなら、
とにもかくにも
パーツには「我」が成り立つ要因が潜んでいなければならない。
いや、パーツには「我」を生じさせる要因は全くない
というのなら、
「パーツがある組み合わせの時にだけ「我」が生じます」
と述べるのはやっぱり難しくなる。
さて、シリコンに深層学習をさせれば「我」を持つのかどうかが
議論というよりすでに「実験」されている世の中において、
心は何からできているんだろうとたまに考えてみるのは、
寒い日の過ごし方としてどうでしょうか。
お茶を机に置いて、湯気が立つのを見ながら。
一体、火のないところから立つ煙があるだろうか、と思いながら。
焚火がやがて燃え尽きてしまっても、煙はまだ中空にいるだろう、と思いながら。
結論は出ない。考えてみるだけ。
その間にしんしん、雪がつもる。
そしてこの手の分野の結論は出ないかもしれないことにたどり着く。
すると、私たちには別の分野の心の問題があることに気が向くかもしれません。「まごころの問題」。このニュアンスは実に日本語的かもしれない。
つまり、
確証があるとかないとかが問題だ。という分野と
完全なる確証がないとしても大事であろう。という分野とを
分けてみましょう。それらはどちらも重大な分野です。
大事なのは、誰かにも心があると信じることは間違っていないだろうということ。
そこから、私たちの他者に対する態度、本当に誰かや何かを大事にするということとは何なのかへ向かう。
その礼へ向かう。
もし、「我」がないと分かってしまったものは所詮「我」がないのだから粗末に扱える。というのであれば、私たちは別の意味での関係(人の肉と人の「我」との連絡のことではない)を蔑ろにしないでしょうか。
むしろ、私たちは「我」がないように見えるモノを大事にしない人さえ無礼な人と呼ばないでしょうか。いわんや、人を大事に扱わぬ者をや。
私たちは「我」が去ってしまったように見えるものにさえ礼を尽くします。
焚火がやがて燃え尽きてしまっても、煙はまだ中空にいるだろう、と思いながら。
IMAGE BY ally j FROM Pixabay
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?