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*【歴史】「朝鮮人強制連行と麻生一族の闇」

… 2010年8月5日付のハンギョレ新聞より。

◆ 1939~1945年 強制連行

飯塚は筑豊地方の最大都市だ。九州全体で見ても福岡,北九州,久留米に次ぎ人口が4番目に多い都市だ。麻生一族は飯塚の領主と言えるほど影響力が大きい。市の真ん中に‘麻生飯塚病院’が位置している。炭鉱で事故がおきた時、負傷者を治療する目的で1918年に開業したこの病院は、スタート当時の病床数が120ヶだった。今は病床数 1千116ヶで地域最大の医療機関に成長した。

広大な敷地内にある麻生一族の邸宅は高い塀で囲まれている。麻生一族の当主である麻生太郎は1979年に衆議院に当選して以来10選を記録している。彼の総理在職時期には道から家屋を見物をし写真を撮れば警察が駆け付け、理由を尋ねたりした。総理から退いた後にはそのような光景は消えた。財力と地域縁故を基盤とした麻生太郎の影響力は飯塚で絶対的だ。

飯塚市長選挙に立候補しようとする人はまず彼の承諾から受けなければならないと言う。

麻生一族が地域の主になったのは炭鉱開発と直接関連がある。一族を起こした元祖は太郎の曽祖父である麻生太吉(1857~1933)だ。彼は1872年から石炭採掘を始め、80年代後半には麻生商店という名前で炭鉱を経営した。1899年には衆議院議員になり清日戦争,露日戦争にともなう戦時経済で石炭需要が急増するや急速に事業を拡大した。1次世界大戦をたどりながら石炭セメント鉄道金融電力林業など多方面に手をつけ、準財閥級会社を形成した。1921年には石炭鉱業連合会会長に就任し、10年余り長期在職し中央政界に対する発言権も強化した。麻生商店は日帝の植民地であった朝鮮にも進出した。1927年、忠南,安眠島に林業所を設立し赤松を伐採し炭鉱の坑木などに使った。30年代には洪城のポソン鉱山などにも手を伸ばした。

太吉は大きくなった事業の経営を孫の麻生太賀吉(1911-1980)に譲った。太賀吉は吉田茂総理の3番目の娘と結婚し妻の父の政治資金を賄った。以後、麻生一族の中心企業は麻生商店→麻生鉱業→麻生セメント→株式会社麻生に受け継がれた。セメント側は分離し、フランスの会社と合弁で麻生ラファージュセメントになった。株式会社麻生の系列会社は約60ヶに達し、グループ売上総額は2009年度決算で1409億円だ。現社長は麻生太郎の弟の麻生泰(あそう ゆたか)だ。太郎は政界に進出する前に麻生セメントの社長を務めた。

麻生グループの発展過程は会社が出した<麻生商店20年史> <麻生百年史>に記録されている。だが膨大な分量の社史に脱落している部分がある。朝鮮人強制連行に関する内容だ。麻生一族は朝鮮人の血と汗を基盤に立ち上がったといっても過言ではないが、記録から徹底的に除いている。福岡県地方職業紹介事務所の資料には麻生商店が1925年から朝鮮人を使っていたと出てくる。だが査察資料ではすでに1910年代後半から朝鮮人を使い始めていたことが明らかになっている。三菱や麻生は鉱山の労働力を確保するために正式手続きを踏まずに密航させたという。

麻生系列の炭鉱が強制徴用期に朝鮮人労働者をどれくらい使っていたのかは44年7月に作成された福岡県県政重要事項という文書に出ている。現知事の業務引継のために作成されたこの文書には、治安・思想を担当する警察の特別高等課が集計した‘移入半島人労務者に関する調査表’が添付されている。移入半島人とは日本本土に連れてこられた朝鮮人を示す。麻生鉱業は移入者7千996人,逃走者4千919人,現在人員2千903人,死亡者56人と記録されている。一部研究者は死亡者の数があまりに少ないとし、集計に問題があると主張する。他の大企業は鉱業所別に分けて集計をしているのに、何らかの理由で麻生鉱業は合算されいる。系列別に合算すれば強制徴用者は三菱,明治,三井など財閥界がはるかに多い。鉱業会社の規模を調べれば麻生は三菱など財閥に次ぎ中上位程度にあたる。

麻生鉱業に対する記録中、最も大きな特色は逃亡者の比率が61.5%に達する程に圧倒的に高いという点だ。それだけ他の鉱業所に比べ作業環境が劣悪だったという事実を反証する。麻生は財閥が経営する鉱業所に対抗し、生き残るために低賃金で一貫し、大恐慌が起き中国から価格の安い石炭が輸入されると朝鮮人から大量解雇した。これに対する反発で勃発した有名な事件が1932年の朝鮮人ゼネストだ。ストライキ当時、日本石炭鉱夫組合が発行した<麻生罪悪史>には、朝鮮人労働者の状況が‘搾取地獄’として描写されている。会社の下請けで朝鮮人坑夫を使う朝鮮人頭領(納屋頭)は坑夫の月給から3割を抜き中間搾取した。朝鮮人労働者らは最も危険な作業場で一日に16~17時間の労働をした。ゼネスト当時、麻生系列炭鉱で仕事をする朝鮮人は1千人程度であった。1939年後半から敗戦の時まで麻生系列に強制連行された朝鮮人は1万1千人程度と推算される。

麻生鉱業が他の財閥級会社に比べ突出した点はすばやい植民地警察活用と抑圧的労務管理だった。現地事情をよく知っている朝鮮人または日本人巡査出身者を労務管理者として採用し、朝鮮人の若い男を無慈悲に引っ張ってきた。この方式はすぐに他の企業にも伝播した。労働者の争議が発生すれば、外部から在郷軍人会,青年団,親日朝鮮人らの集いである協和会まで利用して力で押さえつけた。日本の敗戦時、苛酷な労働に耐えて生き残った朝鮮人が帰国する時も、若干の旅費だけ与え貯金など未払金は支給しなかった。

しかし筑豊全域で麻生グループが朝鮮人犠牲者のためにたてた追悼碑はない。無理に類似したものを探すならば、田川市みだて墓地に行かなければならない。この墓地は1934年に稼動開始した麻生セメント工場からほど近いところにある。墓地入口から日本人の名前が書かれた墓をかなり過ぎ、少し奥隅に行くと石碑が見える。奇異なことにこの碑には誰の墓ということが書かれていない。碑の前面には‘一仏成道 観見法界 因業等空 悉皆成仏’という漢文16文字が刻まれている。無理に解説をするならば“ある仏が道を成し遂げ法系因業が空であることを悟ると皆が仏になる”という意になるだろうか? 裏面には碑の建設時期が1976年8月となっており、麻生セメント田川工場と寺刹住職の名前が見える。碑文を見てもどんな由来で建てられたのかは全く分からない。墓地周辺にも何の説明板もない。碑の下には納骨堂と思われる構造物がある。

麻生セメントの現在の名前は麻生ラファージュセメントだ。数年前にフランス ラファージュと合弁をして名前を変えた。巨大な工場のそばに産業公園がある。日帝時に会社が作った公園だ。険しい階段に沿って上がれば、平たい場所に出る。左側には神社があり右側には大きな石碑が見える。弔魂碑と書いてある。裏面には1935年8月産業セメント鉄道株式会社の重役・社員・労務者一同が建てたことになっている。産業セメントは日帝時の麻生セメントの名前だ。セメントを輸送するための鉄道も持っていた。碑の下には納骨堂のようなところがあり、戦争が終わった後に開けてみると遺骨はなく405ヶの位牌だけがあった。朝鮮人の名前の位牌は45ヶだった。

同行した横川輝雄の説明を聞き、不法を説明したようなみだて墓地碑の正体を理解することができた。強制連行問題を研究してきた在日同胞キム・グァンヨルが麻生側と綱引き交渉を行って建てさせたものだった。みだて墓地近隣に観音菩薩があると住民たちが信じる洞窟がある。現地人たちが‘穴観音’と呼ぶ所だ。洞窟のすぐそばに小さな木造霊廟があるが、日帝時に亡くなった朝鮮人たちの遺骨と位牌があった。弔魂碑と穴観音にあった朝鮮人の遺骨と位牌を碑の下にある納骨堂に納めたという。

しかし碑には朝鮮人という単語がない。碑の正式名称すらない。墓地でなにげなく通ってきてこの碑を見た人は、セメント工場で作業をしていた日本人労働者が労災にあった程度と理解するだろう。みだて墓地に朝鮮人徴用犠牲者関連碑があるという話を聞き外地から訪ねてくる人は何の案内板もないので確実にさ迷う覚悟をしなければならない。こういう現実は麻生グループが芳しくない過去の歴史をどれほど隠そうとしているのかを見せる端的な事例だ。だが、どうして麻生グループだけだろうか? 歴代日本政府と大企業の認識も麻生グループとさほど違わなかった。

麻生セメントが1976年に在日同胞研究者の要請で田川市みだて墓地に建てた納骨堂。麻生グループが戦後、朝鮮人犠牲者のために作った唯一の施設だが、朝鮮人遺骨という説明がどこにもない/文・写真 キム・ヒョスン論説委員

hyoskim@hani.co.kr

原文: http://www.hani.co.kr/…/soc…/society_general/401267.html訳J.S

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