見出し画像

*【#信仰】「イエスを裏切ったイスカリオテのユダに入った『悪魔』とは何か?」

イエスがパンを浸し与える人物が自分を裏切るとし、そのパンをイスカリオテのユダに与えた」

… ヨハネ福音書は、そのとき「悪魔が彼の内に入った」の述べる。

この唐突な悪魔への言及は、ユダが会計係として不正を行った云々の通俗的説明と整合しない。ユダは、仮にもイエスが十二人の弟子として選ぶほど深い信仰を持っており、イエスを愛していたからこそつき従ったのだ。

ここでわれわれは、イエスを十字架につけたもう一つ別の説明が想起される。それは、マルコ福音書が「祭司長たちのねたみ」が原因だったという説明である。

そうであるならば、ユダの「悪魔」と祭司長たちの〈ねたみ〉が別物であるはずがない。

マルコによる福音書は、また有名な「ゲラサの悪魔憑き」のエピソードについて言及している。
 
悪霊に取り憑かれた男に、イエスは「名は何というのか」と尋ねる。それに対して、男は「名はレギオン。大勢だから」と応えている。新共同訳の聖書では、主語が省かれているのでわかりにくいが、この個所の原文は、「私の名はレギオン」という単数主語で始まる同じ声がすぐさま「われわれは大勢だから」と述べる破格の構文で記述されている 。
 
このように聖書のおける悪霊は「多である一」という性格を持っている。また、ギリシア語で書かれたこの文に、キリスト教徒を迫害するローマ帝国の軍単位を示す「レギオン」(英語で「軍団」を意味する “legion” の語源)というラテン語由来の語を挿入して、注意を喚起していることも見逃すことができない。周知のように、イエスと出会った後、「汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群が崖を下って湖になだれこみ、湖の中で次々におぼれ死んだ」(5章13節)とある。

◆「レギオン」という言葉であらわされているものとは何か?
 
『知恵の書』(2:24)には「悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである」とあり、またユダヤ属州総督ピラトがイエスの処刑をためらった理由が「祭司長たちがイエスを引き渡したのはねたみのためだとわかっていたからである」(マルコ 15:6)とあるように、聖書でもっとも強く非難されている対象がユダヤ人であるというのは、聖書の誤読である。新旧約を通して聖書で一貫して非難されている最大のものは、ユダヤ人であろうがあるまいが、人間に普遍的に起こりえる〈ねたみ〉の働きなのである。
 
祭司長がイエスに〈ねたみ〉を抱いたのは、自分たちが得たいと思っている民衆への絶大な影響力をイエスが所持していると考えたからである。そして、自分にはなく他者が所有していると想像されるものにたいする競合的な摸倣は、告発と暴力の応酬を生みだし、「十字架につけろ」と激高するイエスを迫害する群衆の間にたちまち蔓延してしまう。群衆たちは、その疑惑と怨恨と憎悪の応酬のなかで、外部からは一人一人の見分けがつかなくなった分身のように、互いに似通ったものになってくる。
 
聖書のなかの悪魔とか悪霊とか呼ばれているものは、尻にしっぽが生えた怪物などではなく、〈ねたみ〉による競合的摸倣によって生み出された分身状態のことであり、その数は「多」であるが互いにあたかも同じ仮面をかぶったかのような「一」をなしている。マルコ伝の「レギオン」(軍隊)という語が意味するものは、まさにそのことであり、ジュネーヴ大学のジャン・スタロバンスキー(思想史)は、この「レギオン」に、適切にも、「軍団、敵軍、占領軍、ローマの侵略軍、そしておそらくはキリストを十字架につけた人々をも意味している」と指摘している。
 
キリスト教に関する概説書などには、イエスは人類の罪を贖うために十字架に掛けられたなどとよく書いてある。しかし、こういう説明は、あまりに抽象的であり、すでに信仰を受け入れている者にしかわからない。しかし、新旧約を通して非難されている最大のものが何かを考えれば、イエスの架刑の意味は明解である。聖書がもっとも強く禁じているものは、「ねたみ」による競合的摸倣によって生み出された分身の群れに、すなわち迫害する群衆に身を投じてはならないということである。
 
イエスは、その死によって、神への自己奉献によって、競合的摸倣、すなわち〈ねたみ〉によって発生する迫害と犠牲のメカニズムを明らかにし、こうした迫害的思考を自分で最後のものとして廃棄するため、人間的悲惨の極みのなかで十字架の死を選んだのである。

イエスを愛していたユダにとって、イエスとは「そうであり得たかもしれない人物」を見ていたからこそ、愛と共に激しい〈ねたみ〉にとらわれていたのではないか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?