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*【#歴史】「江戸時代の人々は今日が建国記念日などとまったく考えていなかった」

… これくらいいい加減な発想でつくられた「祝日」もまれである。

周知のように、戦前の公式史観では、1940年(昭和15年)が、神話上の神武創業から数えて紀元二千六百年と想定されており、この年運転を開始した旧日本海軍のエース戦闘機が「ゼロ戦」(「零式艦上戦闘機」の略称)と呼ばれたのはあまりにも有名である。

この「紀元」とは神武天皇の即位「紀元」なので、この「紀元」なるものが悠久の昔から存在するように思われがちだが、そうではない。「紀元」という発想は、幕末の欧州留学生として、西周(1829-1897)とともにオランダでフィッセリング教授(Simon Vissering, 1818-1888)に学んだ法学者・津田真道(1829-1903)の建議によるものなのである。

◆ 明治5年の太政官布告第342号
 
ライデン大学で学ぶ間、津田は、ヨーロッパではキリスト教「紀元」という共通の歴法が普及していることを知り、それまで天皇即位や戦乱または天変地異のたびに細かく変わっていた日本の元号にとって替わる独自の「紀元」を着想した。日本の「紀元」は、西暦より数百年長く、また封建時代の文化大国であった中国の歴史より少ないという点が肝要なのである。
 
津田は、福沢諭吉や森有礼(1847-1889)らと明六社を結成した開明的な啓蒙思想家であった。しかし、明治初期には、まだ四書五経の儒学教育を受けてきた旧士族階級が大きな力を持っており、彼らが中国の学問を尊重してきたことを無視するわけにはいかなかった。だからといって、日本人を差別する欧米人の後塵を拝するのも面白くなかった。

西暦より数百年長い日本独自の「紀元」とは、逆立ちしても欧米諸国に太刀打ちできなかった時期の日本と西洋との競合意識と、孔子の国の歴史よりは長くないという旧勢力への配慮から生み出された、絶妙な折衷案なのである。

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