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*【#チンピラに上品も下品もない】「西部邁の周辺の高等批評はアベノミクスの共犯者」

… 竹中平蔵、橋下徹、三浦瑠麗やホリエモンや小林よしのりなどが量産したネトウヨなどのと違いは、「あんな無教養で下品な連中とは違う」というスノビズムだけ。

一方には、ルサンチマンをため込んだ『ナニワの金融道』、カネと暴力だけがものを言う下層社会のモラルがある。

そして他方には「日本会議」「新しい歴史教科書をつくる会」からモラロジーに至る、戦前の修身を思わせる道徳主義がある。

この両者は一見真逆に見えるがそうではなく、互い補う関係にある。

◆ 英国の新自由主義的構造改革の推進者のサッチャー

サッチャーの有名な言葉に「社会なんてものはない。あるのは個々の男たちと女たち、家族である」というものがある。

その同じサッチャーが着手した教育改革では、歴史はアルフレッド大王の武勲を称賛するような、伝記のつぎはぎのようになってしまった。

つまり、歴史を動かす政治的、経済的あるいは社会的原因から目を逸らし、成功も失敗も個人の道徳や心構えの問題に矮小化される。

これが〝自己責任〟論の正体で、弱肉強食の市場原理主義の社会での失敗を「個人が悪かったのだ」と切り捨てるための欺瞞装置なのである。

次々と断行される民営化や規制撤廃と道徳教育のココロ主義が互いに補っていることがわからないと、アベノミクスの悪どさは見えてこない。


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