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想像力の欠如は大罪である

 福井県警地下四階の司令部で、本間は安藤と合流した。安藤は本間の顔を見るなり、切り出した。

「千葉でカンパニー(CIA)が殺されたのは知ってるな?」

「当たり前だ。プリズム(NSA)とダイヤ(DIA)はまだ見込みはあるが、カンパニーはもう無理だ。冷戦が終わった時点で、店じまいすべきだった」

「化石時代の話をしに、福井まで来たわけじゃない」

 安藤の言葉を聞いて、本間はマルボロに火をつけながら、失笑した。「安藤は何も分かっていない。諜報は時と場所を選ばない。日本は確かに中央集権だが、東京など諜報員のハブでしかない。日本海側に、自衛隊とSATが即出動可能な重要防護施設が何ヶ所あるのか知っているのか?」。

 本間は紫煙を吐きながら、司令部を見やった。本間と安藤がいる空間は狭く、一人掛けソファが二つとテーブルが一つあるだけだ。その空間と薄いが防弾防刃仕様の壁一枚隔てた向こう側の空間は、先が見えないほど広大だ。

 千人近いスタッフが、文革とマヤの運営にあたっている。彼等自身、チームの総数を把握していない。彼等自身、作戦の目的を知らない。それでいい。情報のシャワーを浴びるのは、警察庁警備局長と警備課理事官、そしてZEROだけだ。他の者が知れば、一族郎党を皆殺しにしなければならない。それは、本間の望むところではない。時間と労力の無駄だ。何より、道義に反する。

 諜報の世界に生きる者であっても、生への感謝と死への尊敬を忘れてはいけない。忘れた瞬間、極道から外道になる。

「安藤、まあ座れ」

 本間はくわえ煙草で、安藤に着席を促す。

「福井県警内は、禁煙だ」

 安藤が眉間に皺を寄せながら、着座する。

「はっ。ここが田舎県警に見えるか? 全て、ZEROの所有だ。それに、禁煙だと? ルールを破る奴は愚かだ。ルールを守る奴は、もっと愚かだ。賢者はルールを破るが、破ったことを見抜かれない」

 諜報のイロハのイを聞かされて、安藤は黙るしかない。

「福井がなぜ車社会なのか、誰も考えない。この地下のためだ。都市部は地下鉄だらけで、司令部が作れないからな」

 テーブルの灰皿の縁で、本間は灰を落とす。灰皿はミクロ式加工で、フィルターを捨てても即座に、自動で破棄する。

「洋モク吸ってないで、さっさと用件を話せ」

 本間を急かす安藤は貧乏ゆすりをしながら、ネクタイを整える。それを見た本間の右手は咄嗟に、上肢のホルスターに収めたベレッタ、左手は腰のホルスターに収めたワルサーを掴んでいる。

 安藤は顔を覚えようがないように整形し、スーツ姿。ワイシャツは防刃、スーツの上下は防弾仕様だ。そしてネクタイは、折り畳みナイフ。

「本間、勘違いをするな。俺はお前を殺さない、今はな」

「安藤、勘違いをするな。お前は俺を永遠に殺せない」

 両者が睨み合ったのは、地球が呼吸するのと等しく一瞬であった。二人は同時に“仕込み”から手を離すと、お喋りを始めた。

「一連の土台人殺しとカンパニー殺しの犯人は、同一人物だ」

 本間は紫煙を吐き、安藤は唾を吐いた。

「見くびるな。俺もZEROだ。文革とマヤを使える」

 今度は本間がペッと唾を吐いた。

「マヤはともかく、文革を使いこなせるだと? アレは人間がどうこうできる類ではない」

「では本間、お前は人間ではないというのか? 向こうで蟻のように動き回っているスタッフ達も、人間ではないと?」

 本間は自動灰皿にフィルターを捨てると、新しいマルボロに火をつけた。美味そうに、一服。

「人外であることは、認めよう。だが俺は生物学上、人類だ。人類はどこまでも残忍になれる、ただそれだけだ」

 本間は紫煙を吐き、安藤は溜め息を吐く。

「禅問答だな。俺は、警察官だ。捜査の話をしないか?」

「一理ある。安藤、俺達が追うのは、偵察局最強の工作員だ」

 今度は安藤が、失笑した。

「都市伝説にかぶれる人外か。生々しい。本間、お前は人外と言っておきながら」

「彼女が北に拉致されたのは、彼女が十四歳のときだ。中学校二年生のときだ」

 本間は安藤の言葉を遮り、文革とリンクしたマヤで知り得た情報を、淡々と伝えた。

 福井県敦賀市、気比の松原で、十四歳の少女が北によって拉致されたこと。招待所で何不自由なく生活していたが、軽歩兵教導指導局「航空陸戦旅団」に入隊したこと。その後、偵察局に配属となり、ミヤンマーの女性人権家を暗殺し、潜水艦を故意に座礁させて、韓国の「五分機動打撃隊」を一人で壊滅させたこと。

「その話が本当だとして、その女の目的は何だ? 動機が見えない」

「動機だと? 無能な刑事部のような発言は止めろ。俺達が考えるべきは、行動と結果だ。思想や政治的背景、まして動機など、一ミリの価値も無い」

 大間違いだった。本間が動機――人間の感情に思いを馳せることができたなら、日本が追うことになるダメージは激減できただろう。

 北へ連れ去られる少女が、「お父ちゃーん」「お母さーん」と叫び、爪が剥がれるまで、鉄の壁をかきむしったこと。招待所の暮らしは贅沢だったが、カーテンを引いて窓外に目をやれば、貧しい者達が自宅床の畳を食い、それでもなお、気紛れに吹く風のように、餓死する生き地獄であったこと。

 なぜ彼女は、恵まれた日本語教師の職を捨ててまで、偵察局に入るべく、落下傘部隊に入隊したのか? 

 手がかりは、あった。多く、あった。ただ、本間は優秀過ぎるがゆえに、他者の心情を慮ることを怠った。日本警察は、想像力が欠如していた。日本という国は、残忍になっていた。致し方ないのかもしれない。

 日本にはもう、「石黒忠悳」と「松澤フミ」はいないのだから。それでも極東の島国が沈没しないのは、未だ「本間雅晴」がいるからだ。そう、「本間雅晴」がいる限り、希望はある、微かな光だとしても。けれど光は確実に、暗闇で輝く。

「松澤フミはどこにいる?」

 問う安藤に、本間はマルボロの煙を吹きかける。

「ここだ」

「国内に潜伏しているのは分かっている」

「公安調査庁で、どこまでお前は無能になったんだ? 文字通り、ここだ。松澤フミは、福井にいる」

 安藤は絶句した。目の前で呑気そうにマルボロを吹かしている本間だが、ブラフではない。本間は当てずっぽうではなく、文革にリンクしたマヤで追跡しているはずだ。ならば、結論がエラーであるわけがない。そう、松澤フミは間違いなく、ここ福井にいる。そして偵察局最強の諜報員が、手ぶらであるはずがない。

「福井が消滅する、のか」

 安藤は本間の口元で淡く強く光る太陽色と、空気を流れる紫煙を呆然と見詰めていた。

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