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待つことの重要性を再認識した話

待つという稀有な動詞

先日、ヴィエンチャンで出会った女性からどこか旅行へ行こうと誘われた時の話。当日、私は待ち合わせ時間の10分前には到着をし、女性が来るのを待った。東南アジアではよくあることだが現地人が待ち合わせの時間通りに来ることは一部の人を除いて珍しい。そういうことはわかっているものの、時間の経過とともに私の心情は刻々と変化していく。言うまでもなく相手が指定した時間、場所である。

最初は旅行への期待やワクワク、次に待ち合わせ場所が間違っていたのでないかという不安、そして相手に何かあったのではないかという不安や心配に変わる。今回はこのタイミングで女性が現れたが、この先はきっと焦燥や怒りといった感情に移りゆくに違いないだろう。

来ないことがわかっている待つ

待つという行為は時間の経過によって意味が異なってくる。そういった動詞を私は他に知らない。待つことが人を期待させ、心配させ、焦燥させ、憎悪へと人の心情を変えていく、人は待つことに踊り踊らされているといっていい。それは言葉にも反映され、待ち望む、待ち遠しい、待ち受ける、待ちぼうける、待ち焦がれる、待ち明かす、などパッと思い浮かぶだけでもこれだけあるのだから驚く。

昔人が待つことを題材にした短歌が多い理由が、そういったバリエーション豊かな心情、表現に理由があるのだと思う。待つことを題材にした短歌を2つばかり紹介したい。

君待つと庭のみ居ればうち靡く我が黒髪に霜ぞ置きにける
あなたを庭で待っていたら、長く伸びた髪に霜が降りた

霜が白髪を意味するならば、緑の黒髪から白髪になるまで待ったという年月の長さを感じさせる。うち靡(なび)く髪も待つ以外に何もしなかった光景が浮かぶ。現代においてこれほどまでに待てる人はもういないだろう。

桐の葉も踏み分けがたくなりにけりかならず人を待つとなけれど
桐の葉が深く積もり、人が来ることも難しいだろう。必ず誰かが来ると思って待っているわけでもないけど。

これはひたすら人を待って人生を過ごしてきた式子内親王の短歌である。桐の葉が砂時計のようにタイムリミットが刻々と迫ってきているように感じさせる。もう残りわずかの時間が、諦め半分、まだどこかで誰かがくるのを待っている、期待している自分が見え隠れする。

以上の歌は期待から始まる待つであるが、来ないことがわかっていながら待つという、待つの根本を覆すような待つすら存在する。


待ってる俺達はいつまでも待ってる
来やしないとわかってながらいつまでも待ってる
お前の知る限り時間てやつは止まったり戻ったりはしない
ただ前に進むだけだ
だから今日は戻らない日々を思い出して笑おう
今日だけ今日だけは思い出して笑おう
こういうのってあんましカッコよくはないけど
初めから俺達はカッコよくなんてないしな

pellicule 神門

これは不可思議/wonderboyのpelliculeという曲に対して、神門からのアンサーソングである。歌詞にある待っているのは不可思議/wonderboyのことだろうが、彼は事故死しており、来ることは2度とない。

待たなくて良くなった

日本人は待つということが得意、好んでいたはずだったが、テレビや携帯電話などの登場により不得意、嫌いに変わっていったのではないかと思う。科学の進歩は便利な世の中を作った。便利な世の中は待たなくても良い世の中と言い換えてもいい。待たなくても良い世の中は当然に私たちに待つことを難しくさせている。

テレビCMが始まるとチャンネルを変える、SNSの既読スルーに怒りを覚え、YOUTUBEの広告にイライラする。結末までに時間がかかる本や映画は敬遠され、動画は倍速、TIKTOKなどのショート動画が人気になる。静かになるまでに5分かかりましたと不満を露わにする校長先生、ビジネスでは短期間で成果を求められる。

コスパ やタイパという言葉を見かけることが多くなったが、これは日本人が待てなくなったからに他ならない。このことは別記事でも触れた。

待つことは信じること

以前、人生3周目と噂の芦田愛菜が信じることについての持論を述べていたことがあった。この持論の信じることは待つことにも通じるところがあるように思う。

「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」

「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」

「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」

待つことには未来への働きに期待することが含まれている。それを自分が理想とする未来ではなかった場合、行く着く先は憎悪などの心情だ。だからこそ、待たなくても良い世の中で私たちが待てるのは、短期的な確定している未来の待つしかできなくなってきているように思う。

1ヶ月でTOEICが300点UPする教材、30日間で理想の体型になれる方法など、短期で成果が出せるという謳い文句が巷には溢れかえっている。信号機が赤から青に変わるまでの時間が表示されるように、CMをスキップできる時間が表示されるように、あなたが読もうとしている記事が何分で読み終わるのものなのか事前に伝えてくれるように、私たちは短期的な未来までしか待つことができない。

しかし待つことでしかできないことがある。例えば農業は待つことがメインであるし、子育ては巣立つまでは待つことの連続だろう。それらの時間を計算するとたちまち拒絶反応を起こす結果が、農業離れや少子化だと思う。少子化の是非は置いておいて、少子化の原因は子育てするお金の欠乏問題ではなく、待てなくなったのが大きな原因に違いない。自殺願望者が掛ける命の電話は、自殺するデメリットを理路整然と説き伏せるためではなく、願望者が納得して自分から受話器をおろすまで、とにかく聴いて待ってあげるためのものである。

芦田愛菜の言葉を借りるなら待つとは、自分が期待していた未来と違ったものが見えたとしても、それは期待していなかった未来が訪れただけであって、期待していなかった未来が訪れた時にもそれを受け止めることができる、揺るがない自分がいることだろう。

年末年始に売り出される福袋が昔のものと異なり、中身がわかる福袋が定番化している。待てなくなった私たちは、この先に何が待ち構えているかわからないワクワク感を手放してしまった。何も起きないかもしれないし、自分にとって悪いことが待ち受けているかもしれない、それでも開きっぱなしにして待つことでしか獲得できないものの価値を改めて考える必要がある。

期待せず待つ

女性の遅刻のおかげもあって、予定していたロットゥー(ミニバン)には乗れなかった。次の便はいつかもわからない、もう期待せず、何が起きても全てを受け入れることにした。

結局その日は目的地までは到着できず、道途中で一泊することになった。何もないところだったけど、道途中で訪れた土地がこの旅行の分岐点になった。



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