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ヴィエンチャンでカルボナーラを食べる、たった一つの理由


なぜカルボナーラなのか

ヴィエンチャンでは多種多様な料理を食べることができます。フランスの植民地であったことからフランス料理はもちろんのこと、北朝鮮、ベトナム、インド料理など多岐にわたります。でもなぜカルボナーラなのか理由は現状わかっていません。ヴィエンチャンの中心部にある10店舗以上ものカルボナーラを食べ終わり、見切り発車でこの記事を書いています。答えのない問いにどうしたらいいのかわかりません。

どうしたらいいかわからないときに、どうしたらいいかわかる

どうしたらいいかわからないときに、どうしたらいいかわかる。これが現在最も必要とされる、価値を帯びている能力だと私は切に思います。

日本人はとりわけ、あらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力することを学生の時から訓練してきました。それが重宝される時代もあったのでしょうが、複雑化した現在ではそれだけでは不足しているように思います。そしてそれはChatGPTなどのAIの精度と反比例し価値がまさにいま低減し続けていることでしょう。

コロナは当初未知のウイルスとして全世界が共通してどうしたらいいかわからない危機的状況に陥れました。それに対して正解なのか不正解なのかは隅に置いて、とりあえず答えを創り、前に進んだ国もあれば、答えがない問いに日本は回答を保留にするという回答を選択し、各国の出した答えの結果が見えてから日本は舵を切ったように見えます。

これは時間的余裕があれば、この選択は正しいと思います。しかし、時間のある危機は危機ではありません。ソンビ映画でいう、その場から動かなかった者は必ず死ぬ法則があるように、どうしていいかわからないときにフリーズ(保留)するタイプの人間はすぐに死んでしまう。日本の英智と叡智が結集した場で出した回答が、他国の答えを待つだったときの不安は大きいものだった記憶があります。

そういう話を以前に記事にした「野生の思考」があります。答えがない問いには「こんなものでも何かの役に立つかもしれない」と言って、これまでにリュックに入れた偶然のものを組み合わせて出来合いのものを創る。日曜大工、DIY、ブリコルールになってブリコラージュしたらいいのです。

点と点をつなぐ

最近アップルからVision Proが発表されましたね。点と点をつなぐはスティーブ・ジョブズのスピーチに出てくる有名な言葉で、知っている人は多いでしょう。ググるとすぐに要約が出てきます。


「将来を予想して、点(知識や経験など)と点をつなぐことはできない。後々の人生で振り返った時にしか、点と点をつなぐことはできない。今やっていることが、将来、自身の役に立つ(点と点がつながる)と信じて取り組みなさい。」という主旨である。ジョブズ自身の例だと、彼が大学でカリグラフ(文字芸術)に興味を持ったことがきっかけで、後に開発するマッキントッシュが多数のフォントを持つようになったことは有名なエピソードだ。
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八戸工業大学 点と点をつなぐことの意味 石山俊彦

ジョブズも後押しするように、誰もヴィエンチャンで事前にカルボナーラを食べたいと思って、食べる人なんかいるはずがありません。

しかしここで重要なことは後々であればどんな点も、信じて取り組めばそのほかの点とつなげることができるということです。一見すると全く関係のないカルボナーラとヴィエンチャンをつなげることもできるはずです。

原因と結果を入れ替える

哲学者ニーチェは、人はよく原因と結果を混同する、取り違うと言ってました。モチベーション(やる気)がないから行動できないということをよく聞きます。実際にはモチベーションが発生したのちに行動するわけではなく、まず行動していたら、勝手にモチベーションが発生するというのが正しく、原因と結果を混同している良い例です。

ニーチェの、答えに行き詰った時にはとりあえず話を逆にしてみなさい、という伝家の宝刀を使う時がきました。

なぜヴィエンチャンで私はカルボナーラを選んだのかの問いは、カルボナーラはなぜ私を選ばせたのか、冒頭であったように多くの料理がある中でカルボナーラを選ばせるほどの強いメッセージとは何か、に変換することができるでしょう。

母語の檻

次もまた哲学者です。近代言語学の父とも呼ばれるソシュールは、人は生まれてから初めに扱う言語を母語、その母語によって思考が固定されるという概念を言語(ランガージュ)の檻と言いました。

これは私たちは母語を通してバイアスがかかった状態で世界を見えていることを意味します。有名なところでは、フランス語のpapillon/パピヨンです。フランス語を母語とする人は蝶と蛾の区別をしません(どちらもパピヨン)。日本では虹と聞くと7色をイメージしますが、母語が異なれば虹を6色、5色、4色と認識する人もいます。

ヴィエンチャンでカルボナーラを注文するとき、初回は少なくともメニューを見ることになります。ヴィエンチャンではカルボナーラは必ずカルボナーラではなくイタリア語(英語も同じ)のcarbonaraと記載されています。

私が注文していた(注文させられた)のはカルボナーラではなく、carbonaraを注文していた(注文させられた)、なぜカルボナーラかという問いかけではなく、 Why carbonara と問うべきだったということに気づきます。

エルヴィス・プレスリーは生きている?

私はエルヴィス・プレスリーをほとんど知りません。唯一知っていることは、この世を去った直後から、彼を目撃したという証言が絶えることはない、ということです。そして目撃する証言が絶えないのは、彼が有名だったからだけでなく、彼の名前 Elvis のアナグラムからきていることを知っています。

Elvis lives エルヴィスは生きている

ウィキペディアではアナグラムは、下記の通り説明されていました。

言葉遊びの一つで、単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊びである。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ついでにウィキペディアにあったアナグラムをいくつか紹介します。
anagrams = ARS MAGNA    (アナグラム=偉大なる芸術)
Christmas = trims cash    (クリスマス=現金をすり減らす)
astronomer = moon starer   (天文学者=月を見つめる者)
astronomers = No more stars (天文学者たち=星はもうたくさん)desperation = A rope ends it (絶望=一本のロープがそれを終わらせる)dormitory = dirty room    (学生寮=汚い部屋)
narcissism = man's crisis   (ナルシシズム=男性の危機)

アナグラムは単純な言葉遊びに止まりません、なぜならエルヴィス・プレスリーが生きていることを信じている人が2,000万人もいたほどに、アナグラムは強いメッセージを放つからです。

私はやったことがありませんが、今日もスロットでお金を失う人は多いことでしょう。それは運が悪かったからではありません、スロットマシーンからのメッセージを受け取ったからに他なりません。

slot machine = cash lost in them(金がその中に消えていく)

WHY CARBONARA

以前世界一何でもある都市としてヴィエンチャンを記事にしました。私がヴィエンチャンで唯一観光したスポットはパゥーサイでした。ヴィエンチャンで観光する誰もが必ず候補にする、せざるを得ないスポットになります。

パトューサイはパリの凱旋門をモチーフに作られました。ラオ語で勝利の門という意味になり、フランスから独立のために戦った人々に捧げられた戦争記念碑です。

ヴィエンチャンに訪れると多くの建物が古く、低いのにもかかわらず、大使館や領事館など外国の建物は立派だと気づきます。それらはラオスの建物とに大きな差があります。

しかしパトゥーサイだけは違います。アメリカから支援してもらった空港用のセメントすらもパトゥーサイに注ぎ込んだだけはあります。それほどまでに、戦った人々への敬意、独立に並々ならぬ強いメッセージを持たせたい、パトゥーサイはラオス国民にとっての誇りと自由、新しいラオスの象徴だということでしょう。

wikipedia: Stefan Fussan 

届くメッセージと届かないメッセージ

メッセージには届くものと届かないものがあります。その差は何でしょうか。

仕事のBCCで届くメールや広告を私たちは軽視し、見逃します。それはメッセージの宛先があなただけではないからです。万人向けの映画やアニメが面白く感じないのは、それが多数に向けられたものだと知っているからです。

あなただけに向けられた宛先は、あなたに理解してほしいメッセージとなり、それがあなた自身の存在証明になるのだから見逃すはずがありません。メッセージを受け取った、しかし内容は理解できない、だから人はそれを解読するために成熟しようとする。

学生の頃に聞いた校長先生の話の内容を私は一つも思い出すことができません。しかし校長先生の話を思い出せないことは私の心に残っていました。それこそが私が校長先生から勝手に受け取ったメッセージであり、届くものと届かないものは何かの原体験になっています。

発信者(いる場合)は理解して欲しい強いを特定の宛先に送ること、受信者はこれは私宛のメッセージだと受け取ること(勘違いでも可)、これが届くメッセージの条件だと思います。

ホラー映画では、何か見えた気がするといって主人公はその現場をさらに進もうとします。絶対に何か起こるのは視聴者にわかっていて、行かなければいいのにとさえ思います。これは物語の仕様ではなく、きっとみなさんが当事者になっても同じように行動すると思います。主人公は何かを受け取り、使命感すら持って、受け取った内容を理解しようと行動しているに過ぎません。

RPGゲームの勇者は冒頭によくわからない声を聞いて、冒険に行くことを決心します。神のお告げと呼ばれるものは、他人からは風の音や雨の音であっても、当事者には自分宛のメッセージとして強く心に留まります。

店でメニューにあったカルボナーラを見たとき、パトゥーサイ・勝利の門(arch)の道を歩いたとき、私は勘違いでメッセージを受けとったに違いありません。カルボナーラがラオス国民にとっての誇りと自由、新しいラオスの象徴する料理に見えた、そういうことでしょう。

Why carbonara = born a arch way (勝利の門が生まれた)

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