苔生す_表紙2

《苔生す残照⑵》

 石畳には苔が生えていた。バスを降りて徒歩一時間は行った、国道の脇だった。まさかこんなにかかるとは。歩道のない道路から、やっと見つけた目的地に至る、最後の試練を見つけた。
 じめじめとまとわりつく空気と、熱気のある風のせいで暑さから逃れることはできない。そびえ立つ階段の高さに目眩をしそうになりながら、青沼章二は一息ついた。
 山の辺を沿うように作られた階段の両端にも、石が積まれている。石垣に縁取りされた階段は真っ直ぐと伸びて頂上へと続く。両脇には、延々と鬱蒼とした木々が広がり、誰も使わなくなったその階段に落ち葉を敷いている。改めて前を見据える。その先には、木々に切り取られた細長い青空があった。
 右手に持ったトランクを左手に持ち替え、意を決しそれを登り始めた。
 章二がこの村にいたのは小学校三年から卒業までの短い間だ。三年間はいたことになるが、幼い時の記憶は霞み、まるで走馬燈のようにあっという間だった。理由は父の転勤によるものだった。もとから父は転勤族だったため、章二は転居には慣れていた。勿論、多少なりとも緊張はしていたし、幼心ながらまた新しい交友関係を結ばなければならないわずらわしさや不安もあったが、それでもその村に馴染むことにそう長くはかからなかった。
 この村は東京から越してきたかつての章二にとっては田舎臭いところだった。交通の便は悪く、電車はなくバスが数時間置きに走るだけだ。自転車は坂が多いためその苦労は徒歩と変わらない。
 山間の途中に建てられた住宅の周りには、森しかない。谷にはひしめき合うように家が寄り添っていたし、山を越えた先の盆地には田畑ばかりだった。
 その代わりと言っては何だが、遊び場に困ったことはなかった。好き勝手にしていい土地が手に余るほどあったので、事欠かなかったのである。だから章二は特に不満は抱かなかったと記憶していた。放課後には学校裏の森全体を使って暗くなるまで友人と遊び呆けたものである。
 階段の一段一段は石を並べただけのように高さもまちまちで、登るには少し苦労した。長年だれも通っていないせいか苔も厚く足元を滑りやすくさせている。左手には旅支度をした重いトランクを持っているので、バランスも悪い。足を止めた章二は再び息をついた。
 短いと思っていたこの階段は随分長くなってしまったように章二には思えた。あの頃はこの階段を一気に駆け上っていたので、そうは感じなかったのだろう。もしかしたら自らの足が重いせいでもあるかもしれない。
 再び登り始める。あの頃からもう二十年が過ぎた。章二は年を重ね、幼きあの日々よりも知っていることは随分と増えた。関わる人も多くなり、認識している世界も広くなった。それに引き換え、忘れていることもたくさんあるに違いない。それについては考えないようにしていた。——不毛だから。過ぎ去ったことに、変えられるものはない。階段を登りきると、とりあえずトランクを地面に置いた。左手が痺れそうだった。
 校門の隣に大きな桜の木。石造りの厳めしい柱と錆びた門がある。掲げられた看板は赤銅色になって風化してしまったのか文字が読みづらくなっていた。が、確かに目的地である小学校に違いなかった。
 トランクを持ち替えて進む。門は閉じられていて、鉄格子のさらに先には雑草が生い茂ってしまっている校庭と、いまにも崩れそうな校舎が見えた。コンクリートの壁ははげ落ちて、ひび割れている。蔦が這い、窓ガラスはほとんど割れていた。校門の鉄格子を掴んで開けてみようとしてみるがびくともしない。強度を確認するために二、三度押し引きをしてみる。錆だらけだが乗り越えることはできそうだ。
 トランクを校庭側に落としてから、足をかけた。門を跨いで飛び降りる。多少ズボンが汚れたので手の平で払った。トランクを広い、傷を見つける。どうやら落としたときに凹みができてしまったようだった。
 校舎に向けて、雑草をかき分け一歩一歩進んでいく。足元の葉擦れの音が心地よい。地面を踏みしめている感触がする。侵入者に驚いて虫が飛びのき空へ羽ばたいていった。
 校舎の前で立ち止まって見上げる。いまにもチャイムが鳴りそうだ。あの頃と何ら変わらない。たしかに古くはなっているが、間取りも、校舎の周りの静かさも、随分と大きく見える建物も記憶と同じだった。
 自分だけが変化して、置いていかれたような気分になる。こうしてこの場所は朽ちているものの、あのときのまま存在している。あの頃の記憶と深く結びついて、印象深いものはありありと蘇えるというのに、自分は随分と変わってしまった。変化における離反は双方向のものだ。変わらずにあるものも、変わっていくものも、別々の方向性を持つことは等しい。そして哀愁を伴うのも同じである。与えられるのはそれだけではない。それぞれが遠くなっていく、距離感も、また。
「章二君?」
 鈴の音のような軽やかな声に呼ばれ、反射的に振り返った。まさかこんなところに人がいるとは思わなかった。
 そこにはひとり、妙齢の女性がいた。二十代後半やそこらに見える。ほっそりとした体つき、後ろにひとつに縛った髪はほつれ、細い首筋にかかっていた。腕まくりをしたつなぎ姿で、手には大荷物だ。大きな鞄と重ねられたバケツが数個。青白黒とそれぞれペンキが付着していた。穏やかな目元に反して、頬の肉が盛り上がりえくぼを作っていた。ほんのり色づいている。


2014.3 初稿

2018.3 推敲