Don’t have to make excuses

いつかどの時点かの昔の自分が、今の自分を観た時に落胆しないような自分でありたい、と常々思っているのだけれど、年々俺にとっても、みんなにとってもそれが難しくなっていくのを感じている。

時が前に進めば進むほど、どんどん言い訳の材料を見つけるのが巧みになっていき、数えきれなくなってついには、あんなにキュートだった掌からあふれている。まるで不二家のmilkyキャンディーを欲張って一度に掴み過ぎたときみたいに、持ち過ぎた言い訳の飴は指の間をくぐりぬけ、地面にぽろぽろと溢れ落ちつづけている。それでも、昔は飴玉が落ちたらおかまいなしにすぐに拾って口に入れたものだ。どうもちょっと見ない間に賢しくなったらしく、今は落ちた飴玉をサッとかわいくバレないように口へ持っていくことすらできない。そういうあどけなさすら、もうとっくの昔に失くしているから。

こう感じているのは俺だけじゃないはずだ。”大人になる”ってのがそういうことだとしたら、かなりがっかりだね。あ~つまんねー、つまんねー。

大学時代の後輩から、バンドに久しぶりに誘われて,こないだ演ってきた。
あろうことか、せっかく誘われたのに、誘われたときに一回悪態をついてエラそうに断ってしまった。
「昔のよしみで受けてもいいかなとギリ思ってるけど、正直このままではまったくやる気が出ません。」ってLINEを一発目に返した。

正気の沙汰とは思えないかもしれないけれど、これはある種の処世術、自己防衛だった。
俺は自分のことをいつも好きでいるために、
自分のことをショボいなと思うような要因になることはコトは極力避けている。
他人の意見はどうだっていいんだけど、せめて自分だけは自分のことを推さなくちゃいけないからな。金太郎飴のように、いつどこを切っても自分ってこんとき良かったな、って思えなきゃやってらんない。そういう風に時間をかけて自分自身を創作してきたはずだ。(それはそうと、この話めちゃくちゃキャンディー多いな。頭の中は四六時中ロリポップ。)




俺には他に楽しいことがあるとか、曲知らないしイマイチやる気が出ない、とか、いまさらオービーとか言うのが恥ずかしい、とか、いわゆる上述のエクスキューズキャンディーを持ち過ぎていた。そもそも他人の言い出したバンドなんてもう長いことやっていない。結婚式とかの大舞台とかばっかりで、そうでなければ自分のやりたいことしかやっていない。
やる気のない状態の付き合いで出て、昔の自分にダサいと思われる可能性が高かったから、いまさらノコノコ出て行きたくなかったというのもある。

ちょっと本気を出してポイントを抑えればたいていのバンドなんてわりとうまくいくのはもう体験して知ってるから、それを同じレベルで同じようにやって披露して、それを「いいっすね」とかって、よく知らない後輩たちに気を遣わせて言わせることにいったいどんな価値があるというんだろう?自分のレンジがどう拡がるというのだろう?とかをごちゃごちゃ思い浮かべてしまった。

なにしろスタッズ付きの軍服を着たもう一人の俺が
「お前、そんなことに時間をかけて楽しいのか?いったい何が得られるんだ」と高慢な感じでキツく迫ってくるわけだから、きちんと応えるのは相当にキツい。ついつい戦わずに逃げたくもなるだろう。

これは、産みの苦しみってヤツに似ているものかもしれない。産みの苦しみのショボい版。俺のやつはそんな高尚な言葉にするほどのレヴェルのもんじゃないだろうからまあまあに恥ずかしいけれど、絵にたとえると、少し前に描いた絵よりうまくいかない絵は、紙をぐちゃぐちゃにして誰にも見せずに捨てたくなるものだろう。自分のことは自分がいちばんよく知っているから、恥ずかしいと思うもんな。それでも描かなければ次はない。描きたいという気持ちが大きい人はそんなの気にしないでどんどん前に進んでいくってアタマではわかっているんだけど、いちいち自分と向き合うのが億劫になってしまって、腰がどんどん重くなっていく。


あぶない傾向だった。ボーカルの子の呼びかけのおかげで、途中で気づけて出演に踏み切って、なんとか、引き返した感じする。たいして何か起きてもいないのに、キャンディーをいっぱい持っているというだけで、いつ間にか、なんか俺、エラくなったような気分になっていたのかも。

自分だけは、自分で抱えたエセ・エクスキューズキャンディのほとんどがウソだって、ほんとは知っている。

仕事が忙しい?
別に、そんなに一生懸命に仕事一辺倒でやっていない。

練習する時間あったら妻や子供と遊びたい?
そんなに子供や家庭に貢献していないしもともと練習に時間使うタイプでもない。もとより妻はそんなこと望まない。

俺は適任じゃない?
いいや、間違いなく適任だね。
どうせなんもできないし自分の音みたいなポリシーもないクセに。


ライブに行って、当日、ようやっと実感したけれど、そもそも後輩たちの前でうんぬん、とごちゃごちゃ考えるというのが既にエゴだった。趣味でやる音楽に先輩も後輩もないじゃん。ずいぶん驕ってた。
音楽や趣味に卒業はない。いつでも勉強中、修行中だろ。
やっぱり、一日、勉強になることたくさんあった。得られるものがないかも、ってタカをくくってた自分が愚かだった。俺よりも秀でた箇所を持ち切磋琢磨している彼らはもはや後輩でもなんでもない。そもそも、俺は輩出されてない。まだ終わってない。


軽音楽部という団体はいつまでも不思議だ。しがらみによって本質から幾度も遠ざけることもあるし、それでいて与えてくれるものもある。だから団体行動はわかりにくくて嫌いなんだ。両手をあげて単純に”サイコー”って言いたい。そういう回路は置いて産まれてきた。いったい何時になったら言えるんだ。


それはそうと、輝きをもったプレーヤーを目の当たりにすると、やっぱり今もうらやましくてちょっとムカつく。いやちょっとじゃねえ、相当ムカつくぜ。なんなんだコイツって思うよ。
楽器のうまい、ヘタとかの尺度じゃなくてあきらかに別のファクターで。
センスなんてチープな言葉で片づけるんじゃない。そんな便利なもので片付いてたまるかよ。音楽は人間性の鏡だ、人間そのものに嫉妬するかどうかという、もっと根本的に取返しのつかない話だよ。


まあともかく、後ろのほうから老人のような眼差しで輝かしい若者を眺めて、上から褒めるのには俺には早すぎるし、それをやるには巧くなさすぎた。それはプレイヤーを完全に卒業したときでいい。もう弾かないわけがないんだから。

同年代の仲間が歳を経てプレイヤーを降りるのもぶっちゃけ、勘弁してほしい。きみたちが他に大事なものを見つけて、ライフミュージックバランスよろしく、老後までの暇つぶしにやる野暮ったい幸せステージングなんて、俺は見たくないんだ。嫁も旦那も子供も積立金も貯金も一戸建ても、がんばって得た名誉も誰も知らないようなカタカナの役職も、おまえの大事なエクスキューズキャンディーを全部舞台袖に置いて、もう一回不安定な演奏を見せてくれ。
そうでなければ、あのときにありもしない”音楽の力”とやらを借りて言ってた綺麗事、全部ウソでしたって言ってくれ。


プレーヤーであるかぎり、俺は安易に脱帽なんかしない。いつまでも自分でスタッズを打ち込んだDIY帽子は、被ったままでいたい。









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