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カムパネルラを喪ったことについて

死者と共に生きていく。
亡くなった人の記憶が誰かの心の中にある限り、その人が完全に消えてしまうことはない。

自分自身のために、そして、母のために、彼女が好きだったグレン・グールドを聴きながら、この文章を記します。

先日、祖母と母が住宅火災で突然天に召されました。
母とは、亡くなる前々日に一緒に美術館に行き、前日の夜までLINEをしていました。また一緒に美術館に行こう、きれいな絵を見たくなった、が母からの最後のLINEでした。
(祖母の死については、まだ心の整理がついておらず、文章にできないため、このnoteでは母についてのみ記します)

母は、自分の魂の琴線に触れたものを、一途に追い求める強さを持つ人でした。大学ではドイツ文学を専攻し、本とクラシック音楽(特にマーラーとバッハ)を愛する人でした。
そんな母が私のために用意してくれた子供部屋には、大きな本棚が2つあり、ミヒャエル・エンデやシュテファン・ツヴァイクの本、そして、中世騎士物語などが置いてありました。岩波少年文庫の本も、たくさんありました。これらの本たちは、燃えてしまってもうないのですが、少しずつ集めていきます。

バーバラ・クーニーの絵本や、『フェリックスの手紙』シリーズ、そして宮沢賢治の絵本が置いてありました。文字を読めない頃は、読み聞かせてくれました。
外で遊ぶこと、そして周りの人に興味を持たない小学生だった私を否定せず、本をたくさん読ませてくれました。母が私に贈ってくれた本の中で特に印象に残った作品は、『小公女』、『西の魔女が死んだ』、『ソフィーの世界』、『よだかの星』、『幸福の王子』、『海と毒薬』、『中世の星の下で』、そして何よりも『放課後のギャング団』でした。これらの本が、今の私を創ってくれました。
母の影響で、私は、ドイツ文学を大学・大学院で専攻しました。

何よりも、イエス様とマリア様と天使を信じている人でした。カトリックの教育を娘に受けさせようと決意し、自分の時間やお金や趣味を犠牲にしながら、私が将来困ることがないように、という一心で、私を育ててくれました。

母は、とても正義感が強い人でした。間違ったことを見過ごせず、衝突を起こすことはありつつも、周囲から慕われる人でした。
善意にはもちろん、悪意にもまっすぐに向き合ってしまう人でした。
「悪意のある言葉や振る舞いをする人には向き合わず、感情の乗っていない言葉を使って、適当にやり過ごせばよいのに」とよく私は母に言ってしまっていたのですが、それでも母は、感情や想いと一致しない言葉を使うことができない人でした。そんな、高貴な人でした。

歳をとってからも(とはいえ、還暦のお祝いをすることなく亡くなってしまい、まだ若いのですが…)、勉強をし続けられる人でした。私は社会人になってから、ドイツ語やドイツ語圏の文学からは完全に離れてしまいました。仕事をする必要がなかったり、資格試験に追われていない土日祝日は、ぼうっと好きなことだけをして過ごしています。
一方で母は、仕事をしながら、勉強も続けられる人でした。
カルチャースクールに通い、興味を持った分野の講座を受講したり、隙間の時間で聖書を読み進めたり、語学の勉強を続けたり。私よりもずっと、ドイツ語の読み書きができる人でした。
そして、なにか文化に貢献したい、という想いから、カルチャースクールの運営に携わり、様々な大学教員や作家の方々と連絡を取り合って、講演会の企画などをしていました。
社会人になってから気づいた、勉強をし続けることの困難さ。母はその困難を越えようと努力を続けられる人でした。

社会人になり、一緒に暮らさなくなってから母と会うときは、彼女はいつもハンドバッグに加え、ハードカバーの本を入れるための大きなトートバッグを持っていました。新しい本について語るときの母の瞳は特に美しく、最近は若松英輔さんの本について生き生きと語っていました。
今年の母の日は、フランシスコ会訳の聖書をリクエストされ、銀座の教文館に買いに行きました。ああ、母らしいリクエストだな…と。本当に、彼女は本を愛していた人でした。

今年の春に、一緒に見た桜

そんな母が、突然、いなくなってしまいました。仕事中に父から連絡を受け、父と現場に向かった日は、放心していました。出火時には、母は2階で寝ていたようでした。一酸化炭素によって一気に意識を失い、苦しみはなかったでしょう、という警察の方や、解剖を担当された医師の方からの言葉が、せめてもの慰めでした。
その後、母のお友達に電話やメールで連絡をしました。
皆様泣いていらっしゃり、「芯が強い人だった」「新しい世界を開いてくれた人だった」「人のために自分を犠牲にしてしまう人だった」など、母に関する思い出を伺うことができました。それを聞いて、母が亡くなってからも、彼女のことを想ってくれる人たちがいて、母はまだお友達の中で生きているのだ、と思いました。
皆様から伺った母親像は、私の中での母親像と一致しており、『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのような人でした。

弔問会と火葬の日に、空に大きな天使の梯子が架かっていました。ああ、あの梯子を登って、彼女は神様のもとにいったのだな、と思いました。
母は、いま天国に居ると、私は確信しています。

死んだら人はどうなるのか。私は、ずっとそんな問いを抱いていました。いつか死ななければいけないのに、なぜ生きるのか。いつか死んでしまうなら、どう生きたって構わないのではないか。
死とは生が突然途切れることである。そう思い、死を恐怖していました。

母の死によって、私の考えは変わりました。
人が死んでも、その人が遺していった思い出や思想や言葉は、消えない。その人の魂は、世界のあちこちに宿っており、誰かが覚えている限り、完全に誰かを喪うことはない。母の肉体は動きを止めてしまったが、彼女の魂は私や彼女のが接した人たちの間に残り続けている。そして、心に灯りをともしてくれている。
死者とともに、私は生きている。
そして、死とは生と連続したものであり、生の一部である。人間の生~死は、世界の長い時間軸の中に位置づけられており、人が死んでも世界が続く限り、人が完全に死ぬことはない。私が生きているこの世界は、過去からの、死者たちの時間軸から連なったものである。死は、断絶ではない。

瀬戸内国際芸術祭のシャン・ヤンの《辿り着く向こう岸》。魂たちを此岸から彼岸に送る船のようだ…と思いながら、数週間前に眺めていました
シャン・ヤンの船からの景色

この先、私はどう生きるか。人生の短さ、そして、事件・事故により、突然死が訪れる可能性があるという事実を叩きつけられてしまい、今までのように何となく生きる、ということができなくなってしまいました。
まだ答えは出ていませんが、いつかは、かつて在ったものたちが、完全に世界の記憶から消えてしまうことを防ぐことをライフワークにしたいです。例えば、旧い家具だったり、旧い写真だったり、本だったり、懸命に生きた人たちだったり、そういったものたちを拾い上げて、言葉にしていく。そんなことをしていきたい、と思っています。

最後に、私の心の支えになっている、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』異稿の一節を引用し、この文章を締めたく思います。

「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いていかなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしていけない。」
宮沢賢治『宮沢賢治全集 第七巻』、筑摩書房、1985年

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